安心

 

 誰かに追われている。


 逃げても逃げてもそれは追いかけてくる。


 何が追いかけてきているのかは分からない。ただ、捕まったら終わりだ。それだけが本能的に分かる。


 黒いモヤが大きくなる。巨大な体なのか手なのか分からないが、その黒いモヤが私を飲み込んだ。


 不快ではない。思いのほか安らぎを感じる。このままでいることが正しいと思えるほどに。


 目を瞑った。全ての感覚と色が無くなっていく。いや、感覚はある。寒い。ここは嫌だ。でも、もう何も考えたくない。


 どれくらいの時間が経ったのだろう? 数秒のような気もするし、数時間のような気もする。なぜかこの場所が暖かくなってきた。そして何かに引っ張られる感覚がある。


 あの黒いモヤから抜け出たのだろうか。目の前には私を引っ張った人がいる。この人が黒いモヤから助けてくれたのだろう。


 不思議だ。この人は安心する。ずっとそばに居て欲しい。でも、どういうことだろう。さっきから謝っている感じだ。なにも謝罪されるようなことはないのに。


 よく分からないが、その人は名残惜しそうに私から離れていく。どこに行くのだろう。どこかへ行くなら私も連れて行って欲しい。ここに一人だけいるのは嫌だ。


 その人の後を追いかける。でも、追い付けない。距離がどんどん開いていく。


「――様」


 私が何かの名前を呼んだ。でも、何の名前を呼んだのか思い出せない。私の知っている人なのだろうか。もう一度顔を見せて欲しい。


 追いつけない。焦燥感が心を埋め尽くす。ここで見失う訳にはいかない。そうだ、もう一度名前を呼ぶんだ。


「――様」


 自分の声なのに、なんと呼んだのか分からない。私はなんて言っているんだ?


「フェル! おい! 大丈夫か!」


 誰かの声が聞こえた。誰だ? 多分、知っている声だ。なんとなく男好きな奴の声だと思う。


「フェルちゃん!」


 また聞こえた。これも知っている声。なんとなく弱体化する空間を作る感じの奴だと思う。


 フェルってなんだ? 名前か? 誰の――いや、そうか。そうだな。私の名前だ。誰かが私を呼んでいる。


 そして他にも私を呼ぶたくさんの声が聞こえた。呼ばれているなら応じないと。


 目を開けると、私を覗き込んでいる顔がいくつもあった。


 ヴァイア、ディア、リエル、メノウ、アンリ、スザンナ。皆が心配そうな顔をしている。


「お前ら近い。もっと離れろ」


 そう言った瞬間、アンリがダイブしてきた。


「フェル姉ちゃん!」


「ぐふ」


「アンリちゃん! フェルちゃんは病人だから! トドメ刺しちゃうから!」


 ディアがアンリを引き離す。強烈な一撃だった。


 よく覚えていないが、寝ていたのか? そうか、目を覚ました直後か。


 ここはどこだろう。結構豪勢な部屋に見えるけど寝室だよな。


「なんでお前らが私の寝室にいるんだ。一緒に泊まってはいなかったよな? ちょっと記憶が曖昧で思い出せないが」


 上半身を起こそうとしたら、なぜか力が入らなかった。まさかアンリの攻撃が効いてる?


「待て待て、無理に起き上がるんじゃねぇよ。結構長い期間寝てたんだ。何があったか知らねぇが、しばらくは安静にしてろ。治癒魔法をかけるから」


「そうなのか? どれくらい寝てた?」


 リエルが目を伏せた。なんだ? 言いにくいのか?


 いや、待て。そんな事よりも、なんでリエルが普通にしているんだ?


「おい、リエル。お前、大丈夫なのか? 操られていただろう?」


「何言ってんだ? フェルが助けてくれたんだろうが。目覚めさせてくれたのはアビスだったけど、体を取り戻してくれたのはフェルだろ?」


「ああ、そうだったな」


 確か、リエルを脱出ポッドに入れた気がする。ウィンと協力して――協力? なんで協力したんだっけ?


「空中都市でなにがあったか知らねぇけど、色々やってくれたんだろ? その、ありがとな」


 リエルが照れながら、そんなことを言った。こっちまで照れてしまうような顔だ。


「依頼だから仕事を受けてやったんだ。それにリエルより先に結婚していいんだろ? まあ、悪くない依頼料だ」


 相手は――いないよな。いないはずなんだけど、なんだろう。ちょっと引っかかる。


「おう、俺が認めた奴なら結婚を許すぜ」


「お前、誰にも許可を出さないつもりだな――こっち見ろ、コラ」


 皆が笑った。


 ああ、ここは居心地がいい。なにか怖いような悲しいような夢を見ていた気がするけど、そんなことを忘れさせてくれる。


 ひとしきり笑うと、メノウが私の手を両手で握ってきた。


「おかえりなさい、フェルさん。お腹がすいていますよね? いきなり固形食は厳しいでしょうから、スープか何かを作ってきますので」


「ああ、そうだな。お腹がペコペコだ。でも、おかえりってなんだ? ただいまって言えばいいのか?」


 メノウが涙目になる。そして首を縦に振った。


「はい。おかえりなさいませ。ずっと待っておりました」


 メノウはそう言って鼻をすすりながら部屋を出ていった。


「一体なんだ? すまんが、状況を教えてくれ。なんだか記憶が曖昧でな。何があったんだ?」


 全員が顔を見合わせる。


 ヴァイアが意を決したように、私の方を見た。


「リエルちゃんが空中都市から白くて丸い物に乗ってレメト湖に落ちたんだけど、その後にフェルちゃんもその丸い物に乗って落ちてきたんだよ」


「私がか?」


 リエルに関しては私が乗せたから覚えている。でも、自分で乗ったことは覚えてないな。まあ、あそこから逃げ出すためにはあれを使うしかないんだけど――なんで逃げ出そうとしたんだっけ?


「うん、リエルちゃんと同じようにフェルちゃんも気を失っていてね。一緒に聖都まで運んだんだ」


「そうか。それは助かった」


「うん、でもね……」


「でも?」


「リエルちゃんはソドゴラ村から駆けつけたアビスちゃんが起こしてくれたんだけど、フェルちゃんは起きなかったんだ」


「ああ、ずっと寝てたようだな。どれくらい寝てた? 二日か? それとも三日か?」


 ヴァイアが首を振った。


「今日で一ヶ月目。一ヶ月も寝てたんだよ」


「一ヶ月? 私は一ヶ月も寝てたのか?」


 なんでそんなに寝ていたんだ? メーデイアで病気になった時、一週間寝ていたことはあった。でも、今回はどういう理由で?


 何か忘れているような気がするけど、思い出せないな。でも、なんだ? すごく大事な事を忘れているような気がする。


 リエルがベッドの端に腰かけた。そして治癒魔法をかけてくれている。


「毎日こうやってフェルに治癒魔法をかけてたんだぜ? 状況が分からねぇから片っ端からかけまくったんだけど、ついさっき、フェルがうなされ始めたんだよ。誰かを呼んでいたような気もするけど、聞き取れなかったな」


 誰かを呼んでいた? 私が……?


「意識を取り戻しそうだと思って、皆で呼びかけたんだよ。そうしたら、バッチリ目覚めたってわけだ。フェルの事だから心配はしてなかったけどよぉ、それでもほんのちょっとくらいは心配するだろ? 起きんのがおせぇんだよ」


 リエルの言葉を聞いたディアが笑い出した。


「ほんのちょっとくらい心配? リエルちゃんはこの世の終わりみたいな顔して心配してたじゃない。ずっとこの部屋に籠りっきりで昼も夜も治癒魔法をかけてたでしょ?」


「ばっ、言うんじゃねぇよ! 大体、お前らもそうだったじゃねぇか!」


 そうか、みんな心配してくれたんだな。ありがたいことだ。


「みんな、ありがとうな」


「少なくとも俺に礼はいらねぇよ。礼を言うのは俺の方だ。さっきも言ったけど、ありがとうな。フェルのおかげで助かった」


 リエルの言葉を皮切りに、みんなも礼なんかいらないとか言い出した。


 感謝の気持ちくらい伝えてもいいと思うんだけどな。詳しくは覚えていないが、私は危険だったんだろう。放っておかれたら死んでいた可能性もある。感謝の礼くらいさせてほしいものだ。


 そんなことを考えていたら、アンリとスザンナが近寄ってきた。


「フェル姉ちゃんはお寝坊さん。アンリはすごく心配した。だから体が良くなったらアンリと遊ぶべき」


「私も。フェルちゃんが心配で食事が喉を通らなかった」


「そうか、心配かけたな。まだ少し体の調子が悪いようだから、治ったら遊んでやる。それに食事をおごってやろう」


 二人はニコリと笑ってベッドの上に登り布団に潜り込んできた。


「邪魔なんだが?」


「これくらい我慢するべき。アンリはずっと我慢してた。今日は一緒に寝る。何人たりとも邪魔はさせない」


「私もそう。今日はこのベッドで寝る」


 ヴァイアがパンと手を叩いた。


「そうだね! 今日はみんなで一緒に寝よう!」


「おう、もう大丈夫だとは思うが心配だからな、いつでも治癒魔法をかけられるように一緒にいてやるぜ! そうだ、パジャマパーティーするか! 門外不出の恋バナを聞かせてやるからな!」


「どんな恋バナを言うつもりだ。というか、私って病人なんだよな? 静かにしてほしいんだが――聞けよ」


 いつの間にか、みんなで盛り上がっている。


 まあいいか。どうやら随分寝ていたらしいから、体は動かないが眠いという感じはない。それに皆の声は何となく安心する。眠くなるまで付き合ってやるか。

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