修羅

人の悪意が自分のなかに満ちてゆく感覚を知ったのは、幼少期の頃である。

父は私に窃盗を強要した。まだ、なにが正しくてなにがいけないことなのか、倫理観がおぼろげだった私は、言われるがままに品物に手を伸ばした。それがよくない行為だということは、なんとなく分かった。

私は大人が怖かった。だから、よくないことだと気付いても、溢れ出す不信感にふたをして生きていた。

それは週に数回、2年間続いた。

ポシェットに未会計の品物を落とす瞬間、私は貧しさを感じる。

環境と心の貧しさ。わたし自身がすり減っていく、貧しさを。


小学生になり、環境の異常さに改めて気付く。

誰にも言うなと言われていたから、私は誰にも言わなかった。

だから、店員に見つかったとき、ほっとした。

やっと見つけてもらったと感じた。

挙動不審に入店し、見つけてもらえるよう、大げさに息をひそめてポシェットを握りしめてよかった、と。

店に呼ばれた父は、何も知らなかった、申し訳ないと言った。そして店員の前で私を殴りつけた。

店員は、そこまでしなくても、初犯でしょうし、まだ小学生なので、警察には連絡しませんよと、おろおろしながら言った。私の目には、店員も父も顔が歪んでいて、自分の体温はどこにもないかのように、冷たかった。切れた口元、血液の流れていく感触を知る。

父は車で、私は歩いて帰った。失踪したかった。夜の闇に覆われる前の、やや赤みがかった空を見て、私は本気で泣きたいと、思った。痛みや辛さが麻痺して、人間らしい感情が欠落してしまったのだと思う。涙はでなかった。


帰ると、地獄が待っていた。

父に怒られるのだろうと思っていたけど、私はまず母に腹部を蹴られた。

恥ずかしい思いをさせるなと、目を吊り上げた母親に繰り返し責められるということの苦しみは、きっと一生忘れることができない。

父はぼろぼろになった私を見て、笑みを浮かべながら煙草を吸った。

まだ火が消えていない吸殻がのった灰皿が飛んでくる。咄嗟に避けたことで、さらに怒られた。

長い時間が過ぎて、私は何もなかったような顔で学校へ行った。

担任の先生は私の顔を見て、複雑そうな、怪訝な顔をした。でも、関わりたくないのだろう。何を言われることもなく、私は底辺を彷徨い続ける。

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