36 願いを一つ

「――さて、契約更新は確かに承りましたが」


 ――黒い男の声が頭に響く。僕はそれを、真っ黒な世界の中心にぽつんと立って聞いていた。


 ……何が、起こった?


 確か、藤田さんが阿蘇さんを助けて、曽根崎さんが黒い男を捕らえて。

 曽根崎さんが何やら黒い男に呟いたと思ったら、僕の足元からタールのような液体が滲み、一気に広がったのである。


 そして次に気づいた時には、この闇一色の世界に立っていた。


「いやぁ、しかし何よりでございます。もう二度と曽根崎と遊ぶ事ができないのではと危惧しておりましたので」

「……私“で”遊ぶの間違いだろう。まったく忌々しい」


 突如僕の肩に手が乗せられ、驚きで心臓が跳ね上がる。……なんだよ、アンタもいたのか。

 曽根崎さんを振り返り、驚かされた分だけ睨みつけてやった。


 それでも、彼がいるのといないのとでは心強さが段違いである。この辺りでようやく余裕が出てきた僕は、闇に目が慣れてきたのも相まって周りを観察してみた。

 ……よくよく目を凝らしてみると、僕らの前方一メートルほどの所に黒い男が立っている。

 ニヤニヤと歯の見えない口で笑う、帽子を目深にかぶった紳士的な佇まいの男。それが余計に腹立たしく思えるのは、単に僕が奴を嫌っているからなのだろう。

 そんな彼に向かって、曽根崎さんは臆する事なく言った。


「……で? ここに彼まで連れてきたのは一体何のつもりかな。いつものように私だけで済ませておけばよかったものを」

「……それは当然、彼に“御褒美”をあげる為ですよ」


 ――御褒美? 何のことだ?


 だが、その言葉を聞いた途端、曽根崎さんの頬は引きつり笑顔の出来損ないのような表情になった。


「やめろ! 貴様どこまで……!」

「何も不思議ではないでしょう? 今回の試練において、竹田景清様は非常に大きな役割を担ったと捉えております。故に、いつもの“御褒美”……これは功績者である彼にこそふさわしいかと」

「……ッ!」

「曽根崎。他でもない貴方こそ、頑張った景清くんを褒めて差し上げたいはずです。……しかし御自覚の通り、利己的極まる貴方では少々力不足。故に、この私が貴方に代わって、彼に甘い甘いご褒美を用意してあげようというのですよ」

「バカにするのもいい加減に……ぐっ!」

「さぁ、そろそろ二人で話をさせてください。……愛情不足で欲しがりの坊やには、胃が壊れ窒息するほどの飴を与えてやらないといけない」


 僕を庇って前に出ようとした曽根崎さんの口が、男から伸びた手に塞がれる。すぐにその手を振り解こうとした僕だったが、眼前に迫る黒い顔に阻まれた。


「景清くん」


 氷よりも冷たい十五本の真っ黒な指が、僕の両頬を慈しむように包んだ。


「――願いを叶えましょう。君の望みを、何でも、一つだけ」


 視界の隅で、曽根崎さんが何か叫ぼうとしている。けれど、僕の耳には地の底から響くおぞましい声しか届いていなかった。


「ええ、ええ、なんでも、なんだって構いません。国を一つ買って余りあるほどの大金を用意することも可能ですし、優しくて温かい両親だって御用意できます。美しくたおやかで誰からも羨ましがられるような女性を恋人にしたいと思った事はありませんか? 絶対に裏切らない全てにおいて都合の良い友人を思い描いた事は? 死ぬまで病気一つしない体、不老不死に憧れた事は? ――途方もない欲望がたった一つだけ叶うとしたら、貴方は何を願うのですか?」


 顎が持ち上げられる。黒い男の顔は、間近で見ても月の出ない夜の空より真っ黒だった。

 どこからともなく、果実が腐ったような香りが漂ってくる。それは、嗅げば嗅ぐほど脳が心地よく溶けていくような、甘ったるい匂いだった。

 ふわふわとした思考の中、僕はぼんやりと自分の欲しいものについて考えていた。


 ――望み? 欲望? たった一つだけ、願いが叶うとしたら?


「……僕の、望みは……」


 酔うような快楽に脳を浸しながら、口が勝手に動き始める。

 でも、すぐに止まった。その先の言葉だけは、どうしても続かなかったのだ。


 ――欲しいもの?

 僕の、欲しいもの?


 ハッとする。頭の中で、幼い僕が泣きそうになりながら必死で欲しいものを探していた。


 ――僕は、何が欲しいのだろう。


 分からなかった。出てこなかった。僕の中身は、まったく空っぽだったのである。

 いや、そんなはずはない。望みが一つも無い人間なんてありえるもんか。僕は、必死で頭の中を探った。


 ……お金、かな? 確かに、僕は常々お金が欲しいと思っている。けれど、何故欲しいかと問われれば、単に生活していく為と曽根崎さんへの借金を返す為だ。だけど利息は無いので必要以上に焦ることは無いし、とりあえず現状曽根崎さんの元で働いていれば問題ない。

 両親も、温かいかどうかは分からないが存在している。今更仲良くしたいとは思えないが、さりとて取り替えて欲しいとも思わない。

 ……で、何? 恋人? そんなの頼んで作るようなもんじゃないだろ。 友達も然りだ。


 敢えて選ぶなら健康だけど、それだって自分よりは他の人に元気でいて欲しい。曽根崎さんは三食食べて穏やかに暮らしてくれと思うし、藤田さんにはミートイーターの後遺症が残って欲しくない。阿蘇さんの怪我だって今すぐ一つ残らず消してしまえたらと強く思うし、柊ちゃんにはずっと笑顔でいてもらいたい。だったら光坂さんの骨折も治してあげたいし、三条には立派な先生になってもらってとっとと大江さんをお嫁さんに迎えるべきである。田中さんも、まあ、長生きするならして欲しいし、それならお世話になった六屋さんや烏丸先生にだって……。


 ――でも、そうなると願いが足りない。とても一つでは追いつかない。

 僕への願いは見つからないのに、他の人に使いたい願いばかりが次々と湧いて出てきてしまう。


 僕は、よく分からない気持ちで胸がいっぱいになっていた。


「……願い……は」


 胸が満たされると、今度はスッと頭が冷えた。黒い男を前に、ここ数日で僕が体験した記憶が次々と蘇る。

 穴に落ちた僕。そこで出会った黒い男。水晶。四つ足の不浄。慎司。黒と白の浮浪者によって開いたり閉じたりする異次元。またしても現れた黒い男。

 そして、僕の体が寸分違わず曽根崎さんの隣に現れた事実。


 ――なんだ、そうか。そういうことだったのか。


 バラバラに散らばっていた違和感が突如一つの線として繋がった。一気に地図を広げたような閃きに、くらりと目眩がする。


 よろけた弾みで、僕の顎に触れていた男の手を掴んだ。それから顔を上げ、僕に出来うる限りの挑発的な笑みを使ってやる。


「……決めた。願いを、一つ決めたぞ」

「ええ、聞きましょう」

「――明日、僕はあの穴に飛び込む。その僕を、生きたまま先に穴に落ちた曽根崎さんの元に移動させろ」


 それを聞いた男の口が、耳まで裂けた。喉の奥では、無数の緑色の目が僕を見ている気配がする。


「……それは、私にとって簡単な作業ではありませんが」

「そんなの構うかよ。ムシャクシャするってんなら、少しは気が晴れるよう穴に落ちる僕にゲームを仕掛けたっていい。……とにかくこっちは、穴に落ちる僕の体を三日前に戻し、曽根崎さんの元に連れて行ってくれればそれでいいんだ」

「……」

「できるんだろ? さあ、叶えてみせろ。これこそ、僕が僕に叶えたい唯一の願いだ」


 次の瞬間、完全な闇が僕の目を覆った。

 顔に張り付いた男の手を両手で掴み、力任せに引き剥がす。

 しかし開けた視界の先にあったのは、歯の無い口の無数の大群であった。

 それらは皆僕を向き、僕を囲んでげたげたげたげたと下品に笑う。

 その内の一つが、すぐ耳元で囁いた。


「――大正解」


 強い風が巻き起こる。まともに息すらできず、僕は口を閉じて目を細めた。

 無数の黒い口で埋め尽くされた世界の中で、笑い声は段々と大きくなりわんわんと反響し始める。


 手を伸ばす。闇に溶けそうな曽根崎さんを掴んで引き寄せる。ハッと鋭い目を見開いた彼も、頷いて僕の腕を掴んできた。


 前を睨みつける僕らに答えるのは、耳障りな笑い声か、風の音か。嵐のような強風に耐える人の身を嘲笑うかのように、男の声が通り過ぎていく。


「――私の玩具がまた、増えてくれたようですねぇ」


 轟々という風の音に混じり、曽根崎さんが乱暴な舌打ちをした。

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