第17話 あの絵の意味は

「ここまで来れば大丈夫か」


 伝う汗を拭い、息を切らせて慎司は言った。逃げ足に自信があるとはいえ、あの距離を走るのは相応にきつかったらしい。

 僕は辺りを見回してから、大きく深呼吸をした。


「……最初、マジで逃げたかと思ってたよ」

「上れそうな塀が無かったら逃げてたな。整備された街並みに感謝しろ」

「いや、感謝するのは慎司にだよ。助けてくれてありがとう」


 首に飛び散っていた四つ足の体液を自分の服に擦り付けつつそう言うと、彼は微妙な表情をした。どういう感情なんだ、それ。


「……とにかく、もう廃墟にいないからって、アイツは出てこないとは思わない方がいいな」


 そっぽを向いてしまった慎司の言葉に、頷く。

 しかし一息つこうとした瞬間、胃を突き上げるような吐き気がこみ上げてきた。腐臭、飛び散った眼球、青い粘液、脈動する赤黒い肉塊、細長い舌――そうだ。僕はようやく記憶を取り戻したのだ。

 ならば早く彼に伝えねばならない。


 流石にシャツ一枚では廃墟に行けないので、僕らは一旦慎司の家に帰ることにした。その道中、僕は気持ち悪さを堪えながら、思い出した四つ足について話す。


「……するってぇと何かい、ありゃあ完全にバケモノになる途中の存在だったってワケかい」

「そう……なんだけど、何で突然江戸っ子になったんだよお前」


 僕のツッコミを無視し、エレベーターを待つ慎司は顎に手を当てて考えている。


「だとしたら、これまでのアレコレにも説明がつけられるな。最初に現れた時はまだ人としての理性も五感も健在だったから、俺らの声にも反応できたんだ」

「五感? 眼球が無いのに?」

「あ、そうだったな。じゃあ目は見えないとして、嗅覚と聴覚頼りで判断していたのかもしれない。動きが荒く、かつ鈍かったのはそれが理由だ」


 エレベーターが到着する。それに乗り込み、部屋のある階のボタンを押した慎司は疑問を口にした。


「……でも、目が見えないなら何故、一番最初に景清が立ち向かった時に四つ足は怯んだんだ? どう考えても鉄パイプが見えていたからとしか……」

「ああ、それはあれじゃない? 僕が『ぶっ刺してやる』って言ったからとか」

「どういうことだよ」

「四つ足はバケモノに舌をぶっ刺されてあの姿になったんだ。だから、その時のことを恐怖の記憶として覚えていてもおかしくない」

「なるほどな」


 慎司がクシャミをする。つられた僕が大きなクシャミをしたと同時にドアが開き、僕らは慎司の部屋がある階に出た。


「で、バケモノ化が進んで、四つ足はとうとう嗅覚でしか知覚できなくなったってことか」

「そう。僕が慎司の名前呼んだ時も、四つ足は迷った挙句僕を狙ったからね。もし耳が聞こえていたなら、ちゃんと慎司を狙ったと思う」

「けれどどうしてそれでお前が狙われたんたんだ? まさか、もうヤツは無差別に人を襲う存在になっているだなんて言わねぇよな?」

「……いや、そこは単純に僕と慎司を間違えただけだと思うよ」

「間違えた?」

「うん。これは推測なんだけど、今の僕らの体臭ってかなり似たものになってるんだ」


 その言葉を聞いた慎司の喉から、素っ頓狂な声が出た。

 気持ちは分かる。が、気にせず続けた。


「僕がここへ来て一週間足らず。その間ずっと僕らは同じ部屋で寝て、同じものを食べて、同じ洗剤で洗った服を着ている。しかも今、慎司は禁煙してるしね。少なくとも以前四つ足が現れた時より、僕らの匂いは近くなっているはずだ」

「……だから、嗅覚に頼るしかなくなって間も無い四つ足は、俺とお前の匂いを区別できずに間違えたってことか」

「そうなるね」

「影武者ご苦労さん」

「ウゼェ」


 鍵を開け、部屋に入る。また四つ足に出くわすのではないかと身構えたが、そんなことはなかった。


「……とりあえず、嗅覚を頼りにしてるってんなら、まだ手の打ちようがあるな」


 ボソッと慎司が言う。どうやら何か考えがあるらしい。詳しく聞こうとした所、彼は僕を振り返った。


「――なぁ、景清」

「何?」

「改めて聞くけどさ、お前は本当に未来に帰るつもりなんだな?」


 何を今更。

 背の高い彼に、僕はしっかりと頷いた。


「そうか」


 対する慎司は、いつも通り感情の読めない冷めた目をしている。


「だったらいいんだ。俺は、俺の解いた謎の答え合わせをするだけだ」


 答え合わせ?


 訝しげに目を細める僕の前で、バサリと写真や紙の束が置かれる。それは、慎司がここ数日ずっと眺めていた浮浪者によるグラフィティアートの資料だった。


「聞け、景清。俺は約束通り、あの絵の謎を解いてやった」


 その一言に驚いて慎司を見る。テーブルを挟んで向かい合わせになった彼は、僕の表情にニヤリと口角を持ち上げた。


「気になるか?」

「そりゃあもう」

「だったら座れ。今から俺が教えてやる」


 促され、テーブルの前に腰を下ろした。


「本当は、今日の分の資料を確認してから言おうと思ってたんだけどな。四つ足の事も考えると、あまり時間も無さそうだから、今言うことにする」

「……」

「さて、まずは“あの絵は何なのか”だが。……これはそもそも、条件を片っ端から並べてみりゃあすぐに分かることだったんだ」

「え、そうなの?」

「おう。考えてもみろ。白と黒に分かれた二人が、原則一筆ずつ交互に線を足していく。そしてそのスパンは不規則で、他者の介入を何より嫌う」

「うん」

「これ、何かに似ていると思わないか?」


 何かに似てる? なんだろう。

 連想ができず全くピンときていない僕の顔に、ヤツは小さくため息をついた。


「ヒント、チェス」

「?」

「ヒント、オセロ」

「?」

「ヒント、将棋」

「白黒じゃなくない?」

「根本は同じなんだよ考えろ」

「いや考えろったって全部ゲームだねとしか……」


 その単語が口から出た瞬間、慎司は「ビンゴ!」と指を鳴らした。


「やっと出たじゃねぇか」

「出たって……え、まさかゲームのこと?」

「その通り。あいつらはまさに、廃墟の壁を使ってゲームをプレイしてたんだよ」

「は、あああぁ!?」

「一対一で交互にやりとりをする。難しい手を指されれば長考し、横槍を入れられると激怒する。……ほら」


 唖然とする僕の前で、彼は愉快そうに両手を広げる。


「――これがゲームじゃないなら、なんだってんだ」


 時刻は午前十一時。

 曽根崎慎司による、謎解きが始まった。

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