第16話 四つ足の記憶

 どうして、アイツが。

 ここは廃墟でもなんでもない、ただの住宅街だというのに。


 だが悠長に考えている余裕はなかった。四つ足は一度全身を縮めた後、凄まじい速度でこちらに向かってきたのである。


「逃げるぞ!」


 言われるまでもなかった。僕らは踵を返し、元来た道を走った。

 しかしあの速度である。まず撒くことはできないと見た僕は、角を曲がった所で鞄の中にしまっていた折り畳み傘を取り出した。


 四つ足が追いつく。きっと慎司に飛びかかるだろうと予想していた僕は、彼に向かって傘を構えた。

 ――逃げ切れないのなら、立ち向かうしかない。こんなものがどれほど効果的か分からなかったが、何もしないよりマシだろうと思ったのだ。


 けれどすぐ見当違いを思い知らされる。僕は横から飛びかかってきた腐臭の塊によって、地面に叩きつけられたのだ。


「景清!?」


 不意打ちをくらった体では受け身すら取れなかった。したたかに打った頭はぐわんぐわんと揺れ、視界を朧げにする。それでも、眼前にあの汚らわしい四つ足が迫ってきていることだけは理解できた。


 ――まずい。

 僕は、慎司に向けて声を振り絞った。


「お前だけでも……逃げろ……!」

「おう、分かった!」


 物分かりいいねぇ!

 いや別にそれでいいんだけどさ! でももっとこう何かあるだろお前!


 慎司の足音が遠ざかっていく。四つ足は首を持ち上げて慎司と僕を交互に見たが、まずは僕を仕留めることにしたらしい。殊更大きく口を開け、頭を反らす。

 青みが強い紫色の粘液が垂れ、僕の服の一部を溶かした。のしかかられて身動きが取れないはずなのに、何故か重みは感じない。

 そして、細長い舌が僕に向かって勢いよく突き出された。


「――ッ!」


 間一髪、首をズラして避けた。飛び散った汁が剥き出しの肌に触れ、酸の痛みに声を漏らす。

 舌が地面から引き抜かれた。きっと、次は仕留められるのだろう。

 ダメ元で、右手に持っていた傘を四つ足の横っ腹に思いきり突き立ててやる。しかし傘は何の手応えも無く、腐った飛沫を散らせて貫通するだけだった。


 ――ヤバい。マジで打つ手が無い。


 どうしよう。そもそもなんでコイツは慎司を狙わなかったんだ? あれだけ執拗に慎司だけを、曽根崎さんだけを狙っていたのに。この数日で何か変化があったというのだろうか。


 ――まさか、侵食が進んでいる?


 ……侵食? 侵食ってなんのことだ。コイツは何かに侵されているのか? 何かって何に……。

 ダメだ思い出せない。もう少しで、あと少しで全てが見えそうなのに――!


 バケモノがまた上向きにのけぞる。

 そして次こそ僕の首に鋭い舌を突き刺さんとすべく身を震わせた、その時だった。


「景清!」


 空中からバサリと何かが降ってくる。それは四つ足の体を覆い、一瞬だけ動きを封じた。

 この隙を彼が見逃すはずがない。コートに包まれた四つ足の体は長い足に蹴り飛ばされ、僕の体は自由になった。


「立てるか!?」


 慎司である。

 僕は頷き、彼の手を借りて身を起こした。


 二手に分かれるべきかとも考えた。だが、僕の体は勝手に慎司の手首を掴み直し、走り出していた。


「……次はねぇぞ」


 僕の隣で、慎司が呟く。


 幻覚の手が、僕の目を覆っていく。

 幻聴の声が、僕の耳を塞いでいく。


「だから、早く思い出せ」


 思い出すな。あの記憶は君を蝕む。


「景清」


 景清君。


 角を曲がる寸前、僕は振り返った。四つ足は未だ、コートを振りほどこうと体を捻らせている。

 ――その隙間から、空虚な眼窩がこちらを捉えた。


 見つかった。


「……ッ!」


 慎司が僕を突き飛ばす。四つ足の視界に一人立つ彼の姿が、穴に落ちていった曽根崎さんと重なった。

 バケモノが駆けてくる。今度は迷いなく、慎司のみを狙って。

 ……彼のことだ。三十一歳になるまでは死なないという確定した歴史を知っているからこそ、こんな一か八かに賭けたのだろう。死ぬかもしれない僕を襲わせるよりも、こちらの方が二人とも生き残る可能性が高いと信じて。


 ――ふざけんなよ。


 その瞬間、脳の奥で何かがブチリと切れる音がした。脳に纏う幻覚を払い飛ばし、あの日見た世界を引きずり出す。


 ――僕はアンタに庇われなきゃいけないほど、弱い人間じゃねぇんだよ!


 まばたきするほんの僅かな時間。土石流のように、当時の記憶が蘇った。


 脈打つ赤黒い肉塊。それに覆いかぶさる、青色の粘液をまとう“不浄の凝縮”。

 細長い舌は肉塊に突き立てられ、同族にせんとすべく己の体液を注ぎこむ。体液は肉塊の中で混ざり合い、赤黒い色から濁った赤紫色へと変化していく。


 身の毛もよだつような、汚らわしい光景。人から不浄へと生まれ変わる、吐き気を催す醜悪な変容。


 ――ああそうだ。そうなのだ。


 理解した情報を、逆流してきた胃液と飲み込む。


 ――これまでの彼女は、この変化の過渡期にいたのだ。

 ならば、今の彼女は既に――!


 あとの行動は考えるまでもなかった。僕は崩れかけた体勢を立て直すと、慎司の前に飛び出し四つ足と対峙した。


「お前、何を……!」

「慎司、今すぐ着てるセーターを脱いで!」


 指示を飛ばした後、すぐに僕も上着を脱ぐ。そして、闘牛士がするように胸の前に構えた。

 思った通り、四つ足は突如現れた僕の存在にも進路変更をしようとはしなかった。


「奈谷さん」


 人だった頃の名を呼んでみる。しかしやはり、彼女からは何のアクションも返ってくることはなかった。


 ……こんな状況だというのに、僕は急にこの人が哀れになった。


「……あなたはもう、光坂さんの名前も思い出せないんでしょうね」


 四つ足が上着に突っ込んでくる。鋭い舌が着ているシャツを掠めたが、なんとか避けることができた。そのまま手を離して四つ足の頭を上着で覆い、慎司に声を荒げる。


「慎司! 今のコイツは多分嗅覚のみで周りを判断してる! 脱いだセーターを風上に投げて!」


 丸められたセーターが宙をよぎる。上着をかぶせられた四つ足は、身をよじらせてセーターに飛びついた。


「行こう!」

「おう!」


 ダメ押しで自分の服も脱いで、遠くにぶん投げる。四つ足がそれに向かっていったのを確認した僕らは、寒空の下、命からがら逃げ出したのであった。

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