第11話 見覚えのある影

 雨の降る廃墟に、不気味な浮浪者が描いた異次元に繋がるグラフィティアート。

 都市伝説の語り部となるには、まさにうってつけの場所だというのに――。


「よーし、景清! そこ動くなよ! ……もう少し、右に位置をずらして……ん? なかなかピントが合わねぇな……。おい、何突っ立ってんだ! 左に寄れ!」


 そんなことお構いなしの曽根崎慎司は、都市伝説の正体を探るべくイキイキと瓦礫の隙間に隠しカメラを設置していた。

 ちなみに僕は、敏腕カメラマンの言う通りの場所に動くだけの厄介なお仕事をしている。


 ……ところでこの絵って、いきなり異次元に繋がったりしないよな?

 

 恐々としながら立っていること数分、慎司は無事にいい按配の場所を見つけたらしい。適当なボロ布でカメラを覆い、少し離れた場所から確認する。


「よし、一応これならバレねぇかな。後は肝試し目的のバカに見つからなきゃいいんだが……」

「そこは大丈夫なんじゃない? 雨だしさすがに今日は来ないと思うけど」

「わかんねぇぞ。バカは想像のつかないことをするからバカって呼ばれるんだ」


 慎司はわざとらしく僕を見ながら言う。……考え過ぎかな? ちょっと視線を避けようとしたらめちゃくちゃ追ってきたけど、考え過ぎかな?


 とにかく、カメラさえ設置してしまえば後はすることは無い。僕と慎司は連れ立って、じめじめとした匂いのする廃ホテルを後にしようとした。


「……本当に、あそこに飛び込めば元の世界に帰れるのかな」

「お前が言うならそうなんじゃねぇの?」


 チラチラと後ろを振り返りつつ、僕は慎司と言葉を交わす。


「ねぇ、慎司もあの目って見たよね?」

「目って何だよ」

「緑の目だよ。あったろ、絵が剥がれた裏にうじゃうじゃ」

「へぇ、お前そんなもん見てたのか。俺はてっきり一時的に頭がおかしくなったのかと」

「え、じゃあ見てないの?」

「俺には真っ黒闇になってるようにしか見えなかった。……そうか。俺とお前で見てるものが違うってパターンもあるのか」

「あ、それで思い出した。なぁ慎司、お前あの時『まだ足りない』って言ってたけど、あれって一体どういう……いてっ!」


 僕の三歩前を歩く慎司が、何の前触れも無くぴたりと立ち止まる。おかげで彼の背にぶつけることになった僕は、鼻を押さえて涙目で非難した。


「おい慎司、いきなり何して……!」

「景清」


 だが、上から降ってきた慎司の声は、さっきとは打って変わって張り詰めたものになっていた。くっきりと恐怖の色が滲んだトーンに、僕の背筋は否応無しにゾクリとする。


 ――どうした、と聞く必要は無かった。前を向けば、彼が何故そうなったのかがすぐに分かったからである。


 僕らの向かう、出口へと至るエスカレーターの前。

 慎司の見開かれた真っ黒な目が凝視する、その場所に。


 ――見覚えのある、四つ足の影があった。


「……!」


 そいつはどういう理由からか、腐った体液を滴らせるだけでその場から動かなかった。

 細長い舌を垂らす裂けた口は笑顔にも似ていて、まるで僕らが縄張りに飛び込んでくるのを待ち構えているかのようだ。


 ……なんでだ。なんで、アイツがいるんだ。

 アイツは、昨日逃げて行ったはずじゃ……。


 震えて棒立ちになる僕の隣で、慎司は顎に手を当てて何やら考えている。こんな時に何をと思ったが、彼が冷静でいてくれたおかげで僕も少し落ち着いてきた。

 やがて、慎司は小さく低い声で僕に話しかける。


「……なぁ景清。一つ聞きたいんだが」

「な、何」

「お前、本当はあの四つ足のバケモノの弱点を知ってるんじゃないのか?」

「え? いや、知るわけないだろ。あんなもん見たのすら初めてで……」

「初めて? だったら何故お前は、バケモノは水晶から現れると断言できたんだ。そんなことを言い切るには相応の根拠が必要だ。お前は何を根拠にそう言えた?」

「そ、それは、この水晶はそういうものだって教えられてたから……」


 ――あれ?


 話している内に、ふと違和感のようなものが胸にこみ上げてきた。


 ――言われてみれば、確かにそうだ。僕が聞いたのは、“水晶を覗いた人間に死は訪れる”という内容だけである。

 どうして、僕はこのバケモノのことを知っていたのだろう。


「……気づいているかもしれないが、ヒントをやろう」


 悩む僕に、慎司はバケモノから目を離さず言った。


「俺は、あの四つ足には知性があると思っている」

「知性?」

「そうだ」

「なんで? 人間の姿に近いから?」

「人間の姿に近い? はっ、ありゃ人間そのものだよ。骨格、体格、目の位置、口の位置、その他諸々。一目見りゃ元は俺たちと同じものだったってすぐに分かる。……普通の人間なら全身の皮を剥がされ腐った状態で生きていられるわけがないが、事実ああやって動ける体にされているんだ。知性が残っている可能性だって無くはない」


 加えて――と慎司は続ける。


「アイツは、その気になれば一瞬で動けるだろうのに、ああやって待ち伏せるだけで微動だにしない。それは何故か?」

「……」

「俺には、なんとなく理由が分かる。――怖がらせたいんだよ。俺たちを」


 その指摘に、顔から一気に血の気が引いた。

 ――知性が残っているだけではなく、明確な悪意を抱いている。

 あんな恐ろしいものが。

 僕たちに向けて。


 ……だけど、僕はアイツのことなんて……。


 ズキン、と頭が痛んだ。

 夢で見た、前方がひしゃげた車を思い出す。

 暗い世界。夜。隣にいた曽根崎さん。中にいた呻く女性。挟まれた足。


 なんだ。なんだこの光景は。


「……ッ」

「どうした」

「……何か、思い出せそうなんだけど……」

「いいぞ。ただ単に忘れているだけだって可能性もある。俺が思うに、あれもきっと黒い男とやらから仕掛けられたゲームなんだ。……そして、ゲームなら攻略法がある」


 慎司の言葉に、僕は頷いた。

 何故か既視感のある光景に、夢で見た光景。

 このゲームに勝つ為に、僕は何を思い出さなければならないのだろう。


「……来るぞ」


 彼の言葉通り、四つ足はゆらりと動いた。……アイツはまた慎司を狙うのだろうか。無意識に彼を自分の背中に押しやり、僕は彼女と対峙する。


 ――彼女?


 ああ、そうだ。あの人は、女性なのだ。

 ウェーブのかかった栗色のロングヘアが美しい、グラマラスな人。


 長い舌の先から紫色の粘液が落ちる。心なしか、その部分から垂れる液は他のものより青みが深い気がした。

 四つん這いの手足を動かして、ぎこちなく四歩、五歩近づいてくる。だけど、人間の構造のままなら、あの体勢だとそこまで速く動けないはずだ。


 なのに。


 一度ぶるりと体を震わせた後の獣じみた跳躍は、とても人間のものとは思えなかった。


「慎司!」


 四つ足は僕の頭上を越えて慎司に襲いかかる。押し倒された慎司は、どこか打ったのか短い悲鳴を上げた。


「……ぐっ!」


 四つ足は慎司の手足を押さえ込み、上から舌を垂らす。どろりとした粘液が、彼の顔に落とされようとしていた。


「やめろ! 離れろ! このっ……!」


 体をどかそうと石をぶつけるが、バケモノは全く反応しない。ニヤニヤと笑いながら、慎司に覆いかぶさっている。

 まずい。やめろ。ダメだ。眼前の光景に焦りと苛立ちを募らせた僕は、気づけばとある名を叫んでいた。


「――やめてください! 奈谷さん!」


 ――瞬間、グルン、と首がこちらを向いた。


 慎司に垂らされるはずだった粘液の塊が、傍らに飛び散る。布切れとコンクリートが、じゅうと音を立てて少し溶けた。

 僕は、何の光も存在しないがらんどうの眼窩に見つめられていた。


「……」


 鼻が曲がるような悪臭だ。

 腐って、膿んだ、死の匂い。

 だが、呼吸を必要としない目の前の存在から放たれるそれを、僕の嗅覚は確かに覚えていた。


 感情は、見えなかった。

 だけど、その口はもう笑っていないように感じた。


「……」


 四つ足のバケモノとなった元人間は、フイと慎司の体から降りる。そして、またしても目にも止まらぬ速さで視界からいなくなった。


 後には、呆然とする僕と仰向けに転がる慎司だけが残されるばかりである。


「……やっぱりお前、あのバケモノのことを知ってたんじゃねぇか」


 そうしてぼそりと聞こえた慎司の一言で彼の無事を知り、僕は肩の力を抜いたのであった。

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