第18話 汚れたもの
彼女は、最初から優しい人だった。
「……そう。辛いことがあったんですね。大丈夫ですよ。運命の人はもうじきあなたの前に現れるとカードは言っています」
彼女の温かな手に、私は包み込まれた。今まで誰にも与えられなかったその温度に、私はすっかり取り込まれてしまったのだ。
「これは、 “ 彼女を覗く窓 ” です」
それは、奈谷が占い館から帰る途中の出来事。
突如として現れた黒ずくめの男が差し出すその窓枠には、傷一つ無いガラスがはめ込まれていた。
「呪文を唱えながら窓を引っ掻けば、貴女の望む場所を見ることができます。家や、仕事先や、外出先。彼女の見るものだけでなく、そこで話される会話すら聞くことができるのです。……一度繋げれば、窓の使用回数に制限はありません。ですが、一つだけ注意していただきたい点がある」
朗々と述べられる俄かには信じがたい話は、しかし不思議と全て真実なのだと確信できた。
男は、手にした窓ガラスに真っ黒な爪を立てる。
「――この窓には、死神が宿っている」
引っ掻かれたガラスは、耳奥を穿つような高音で鳴いた。
「一つ窓を繋ぐたびに、その死神は顕現し、使用者の命を奪う。事象自体はどうやっても避けられませんが、逃れる手はあります」
男の手から、どこに隠し持っていたのやら数個の水晶が転がり落ちた。
「それは、他の人間を犠牲にすることです。この過去視ができる水晶を他人に使わせ、そちらに死神を向かわせている間に、貴女は窓を繋げばいい。……ええ、とても一人では難しいことです。ですが、貴女がそのつもりなら、この私も協力して差し上げましょう。……そうです、己の心を満たしたいのなら、他の犠牲など取るに足らぬことです。人間の一生は、全ての望みを叶えるには余りにも短い。名前すら知らぬ他人を顧みる余裕など無い……」
この時の奈谷は、憧れる光坂と少しでも長くいる為に、同じ占い館の占い師になっていた。盲目的になっていた彼女は、思わず両手を伸ばして窓と水晶を受け取ったのである。
それでも最初は、男の発した “ 死神 ” という言葉に窓の使用を躊躇っていた。しかし一度使ってしまえば最後、呆気ないほど簡単に奈谷は転がり落ちていった。
身代わりをさせる為の水晶は、占い館から帰ろうとする客を捕まえて無差別に渡すことにした。この仕事故だろう、それで怪しまれることもなかったのである。
うまくいっていた。男が処理してくれたおかげで、事件が明るみに出ることはなかった。だけど、窓を覗けば覗くほど、現実の彼女に幻滅し、理想だった彼女はいなくなっていく。それでもやめられず、意味のわからない飢餓感と渇きは続き、苦しみは憎しみに変わっていった。ただ、それらを除けば全てが思い通りに回っていたのだ。
それがみるみる綻び始めたのは、持っていた最後の水晶を落としてしまった時からだろうか。
水晶を失ったことに気がつき狼狽する奈谷に、黒い男は優しく言った。
「心配することはありません。あの水晶はちゃんとある人に拾われましたよ。……しかも、うまく使えば邪魔者も消すこともできる、最高の人間に」
「……よく分からないけれど……あなたに任せていれば、大丈夫なのね?」
「勿論。もっとも、それも貴女の意向次第ですが」
――そんな言葉を信じた結果が、この始末だ。私は邪魔者を消し、佳乃の命を飲みたかった。なのに最後の願いは叶わず、今まさにここにいる邪魔者に全てを終わらせられようとしている。
足を車に挟まれ逃げることすらできない奈谷は、歯ぎしりをして悔しがった。
『――貴女が光坂さんに求めていたのは “ 恋人としての繋がり ” なのです』
邪魔者に言われた言葉が、脳内で反響する。打ち消すように、奈谷は声にならない声で叫んだ。
――これが恋なものか!
アンタの言っていることは全部おかしい! こんなおぞましいものが、醜いものが、恋であるはずが……!!
涙がとめどなく溢れてくる。感情が感情で覆われ、もう奈谷には何も分からない。何が間違っていたのか、どこで引き返せなくなったのか、佳乃も黒い男も誰も教えてはくれなかった。
後悔しているのか、憎いのか、それとも愛しさが歪みきっただけなのか。
それすら判断できない激情の渦の中に、奈谷は落ちていた。
――可哀想に。可哀想な奈谷秋姫。
その混乱に滑り込むかのごとく、頭の中に黒い男の声が響く。
――邪魔者は彼女の心を奪うだけでなく、貴女の尊厳すらも殺そうとしているのですね。
……ええ、ええ、ご安心を。私は貴女の味方です。
奈谷は、その声にすがりついた。既に、自分で考えることすらできなくなっていたのである。
男は、いかにも同情的な声色で続けた。
――そうですねぇ……。この男が来てしまったからには、逃げる事は難しい。
ああ、ならば、彼女が想いを寄せる彼を殺してみるというのはいかがでしょう。
そうすれば、あの人の心に貴女の形をした傷を刻みつけられると思いますが。
そして男の声は去った。
同時に、奈谷の右手の中で固い感触が触れる。
愚かな彼女には、自分のするべき事が手に取るように分かってしまった。
「――」
唱え慣れた呪文を口にする。すると、右手の水晶を通して光坂のいる場所に窓が繋がった。辺りに悪臭が満ち始めたが、奈谷は構わず水晶を引っ掻き、次の呪文を唱える。
水晶に、光坂の横顔が浮かび上がった。引っ掻く高音が聞こえているのか、彼女は不安げに辺りをキョロキョロと見回している。
それを見た奈谷は、薄く微笑んだ。
――やっぱり、アナタは醜くて、間抜けな顔をしているわね。
そうして、光坂を収めた目を閉じる。
それが、彼女がこの世界で見た最後の光景になった。
なんて凄まじい悪臭だ。
ハンカチで口と鼻を覆っているにも関わらず、なおも鼻を突く臭いに、僕は涙目になっていた。
胃から込み上げる液体に、えずきそうになる。それを察した曽根崎さんが、ハンカチの上から僕の口を手で覆った。
黙れということだろう。そんなこと、僕にだって分かっている。
頭上の車からは、とても女性のものとは思えない絶叫が絶えず聞こえているのだ。
「ギャアァアグッ……アガ、ゲェェア、ガアアッ!!」
奈谷の呪文が聞こえ始めた直後、曽根崎さんは僕の手を引いて彼女の車の影に身を潜めた。「この場所を離れるには時間が足りない」。彼は早口で説明してくれた。
奈谷は恐らく、最後に僕と曽根崎さんを巻き添えにしようとしたのだろう。
……そんな思惑に沿ってやるものか。いないフリをし、聞こえないフリをしていれば、きっとここはやり過ごせる。
そう信じているはずなのに、彼女のあまりにも惨烈な絶叫に、僕の正気は今にも刈り取られそうだった。
突然、べちゃっという音が隣に落ちる。呼吸も妨げられるほどの激臭にそちらを見ると、青色の液体が車のボディをドロリと伝っていた。
それに混ざるのは、赤黒い欠片と、白い球体の――。
――ダメだ。考えてはいけない。
僕は、必死で頭を空っぽにするようにした。
僕は何も見ていない。知らない。それに気づいてしまえば、きっと自分はまともでいられなくなる。
――想像するな。
彼女の元に何が訪れ、何が起こっているのかを。
本音はひたすらに恐ろしかった。今すぐに悲鳴を上げ、ここから逃げ出してしまいたい。そんな衝動を、僕の口を塞いだ曽根崎さんの震える手だけが引き止めていた。
永遠とも思える時間の中、ふいに絶叫が止まる。
「……」
顔を上げる。曽根崎さんは目を閉じて俯き、息を殺したままだった。
彼がこうなっている以上、状況を確認するのは僕の仕事だろうか。そう思い、曽根崎さんの手をどかして座り直す。
そして頭を持ち上げ、車内を覗き込んだ。
今思えば、この軽率な行動は、異常事態から一刻も早く逃れたいという僕の気持ちがそうさせたのだろう。
次の瞬間、僕はその判断を心底悔やむことになる。
――車内に広がっていたのは、到底この世のものとは思えないほどに汚れた光景だった。
青くドロドロとした液体が、そこら中に飛び散っている。いや、それだけじゃない。赤い、皮のような、ものまで……。
その正体を探るべきではなかった。
しかし何者かに導かれるように、僕の目は運転席に向けられていた。
運転席に奈谷の姿は無かった。代わりにあったのは、赤黒い肉塊とそれに覆い被さる “ 不浄の凝縮 ” 。この世界に慣れた目では視認することすら許されない存在は、ビクビクと脈打つ肉塊に、体内から出した長い針を突き刺していた。
――飲んでいる?
違う、あれは――。
そんな、バカな。
では、何故、今まで。
ああ、そうか。
彼女、だからこそ――。
僕は気づいてしまった。
人という矮小な存在では到底行き着けぬ、救い難い無限の邪悪の一端を垣間見てしまったのだ。
異次元の情報は一握ですら処理することができず、殴られ鷲掴みにされたような脳の痛みの中で、僕の意識は遠のいていく。
倒れる間際、僕の体を受け止める腕を感じた。
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