第10話 変異
翌朝、僕は藤田さんに揺り起こされた。
「まったく、お寝坊さんとはだらしないな! しっかりしろよ、景清!」
「む……もう朝ですか、簀巻き全裸さん……」
「簀巻き全裸さん!?」
どんなに叔父面を引っ提げてこようと、僕は昨晩の彼の姿を見ているのである。何も心に響くはずがなかった。
乱れた浴衣で起き上がり辺りを見回すと、もう既に皆着替えて各々好きなようにやっていた。同じ時間に寝たであろう曽根崎さんですら、いつもの暑苦しいスーツをビシッと着用している。いや、あの人寝てないのか。不眠症だもんな。
「……しかしさ、なんで旅館の浴衣って、どんなにしっかり着てても朝になったら事後みたいな乱れ方すんだろね」
「知るかよ」
簀巻き全裸さんが、僕をジロジロと眺めながら言う。その視線を二本指で潰しつつ、僕は立ち上がった。
「羅生門の老婆か?」
これは、僕が起きたことに気づいた曽根崎さんの開口一番である。なんだよ、そんなに酷い見た目かよ。下人の行方は誰も知らねぇぞ。
曽根崎さんの隣に座る阿蘇さんは、頭でも痛いのか眉間を指で押さえうつむいていた。
「阿蘇さん、どうされたんです?」
「悪夢を見たんだとさ」
「悪夢?」
「それより着替えてきなさい。朝餉の連絡をその格好で迎える気か」
それもそうだな。僕は殆ど用を為さなくなっていた浴衣を脱ぎ捨て、手早く服を着る。
ちょうど靴下を履いた所で、襖が開いた。そこに膝をついていた男性に、藤田さんが明るく声をかける。
「ああ、勝さん。昨日はどうも」
「藤田さん、二日酔いは大丈夫ですか」
「オレ、酒は翌日に残らない体質なんですよ。朝ごはんですか?」
「ええ、ご用意できましたので、皆様ぜひ広間までお越しください」
にこやかな男性は、それだけ言い残して去っていった。
……あれも、オカエリ様の力で若返った人なのだろうか。
言いようの無い感情を胸に曽根崎さんを見上げたが、彼は別の何かに意識を傾けているようで、僕に一瞥すらくれることは無かった。
代わりに、彼は下を向く阿蘇さんに呼びかける。
「……忠助」
「何?」
「さっきの人、昨日の宴会にいたか?」
「え? ああ、勝舞さん? どうだっけな……」
阿蘇さんも思い出せないようである。曽根崎さんは無精髭の残る顎に手を当て、黙ってしまった。
しかしそれを遮るように、藤田さんが曽根崎さんの手を取りながら言う。
「行かないんです? オレお腹空きましたよ」
「うん、すぐ行く。今日も忙しくなりそうだから、しっかり腹ごしらえをしておかないとな」
「兄さん、今日はどこに行くつもりなんだ」
「そうだな、件の祠に行ってみようと思ってる」
恐らく下見のつもりなのだろう。阿蘇さんは億劫そうに立ち上がりながらも、意外にも素直に頷いたのだった。
その祠は、旅館から二十分ほど走った山の中にあった。鬱蒼と茂る木々の中に紛れながらも、頻繁に人が出入りしているのか踏み固められた道ができている。
「祠というより、洞窟だな」
曽根崎さんが、ぽっかりと穴の空いたその入り口に手をかけながら言う。
「元々岩穴があったのを手を加えて祠にしたのかな。少し中に入ってみよう。景清君も来い」
「はい」
「あ、待って、景清!」
お呼びがかかったので洞窟に入ろうとしたのだが、その前に藤田さんに止められた。その顔は、一体どうしたのか真剣な色を宿している。
「ちょっと話したいことがあるんだ」
「それ、今じゃないとダメですか?」
「ダメ」
そこまで言われたら、聞かないという選択肢は取れない。僕は曽根崎さんに謝ると、藤田さんの隣に行く。
「仕方ない、私一人で行ってくるよ」
「……いや、兄さん、俺も行くよ」
そう申し出た阿蘇さんだったが、その様子はおかしかった。頭に片手を当てて、ずっと気分が悪そうにしている。運転している時はそうでも無かったのだが、この場所に来てからより悪化している気がした。
「阿蘇さん、車で休んでいたらどうです」
「大丈夫。兄さんを一人で祠に行かせたくない」
「大袈裟だな、忠助は。この歳になったら乳母は不要だよ」
「……」
曽根崎さんの軽口に返す事なく、阿蘇さんはふらりと祠の中に入っていった。そうなれば、曽根崎さんも追いかけないわけにはいかない。一度だけ僕を見ると、何も言わずに走っていった。
……ただの二日酔いであればいいのだけど。心配ではあったが、まずは藤田さんの話から聞こうと体を向ける。
「で、どうされたんです?藤田さん」
藤田さんは、いつも通り柔らかな笑みを浮かべていた。
だが、彼の口からこぼれた質問に、僕は一瞬で体を強張らせる。
「……昨日さ、曽根崎さんと旅館を抜け出したよね?あれ、何してたの?」
――違う。
僕の直感が、脳内で囁いた。
なんだ? 何が違うんだ?
……そうだ。こういう時、藤田さんなら確実に下ネタに持っていくはずなのだ。二人で旅館を抜け出すなんて、この人がからかうには最高のネタだろう。
いや、まだ分からない。ここから下ネタに持っていくのかもしれない。僕は、努めて自然に笑ってみせた。
「……曽根崎さんが村内をドライブしたいと言ったので、二人で出掛けてたんですよ」
「車で?」
「ええ」
「なら、だいぶ遠くまでも行けるね。自販機だったり、コンビニだったり……資料館だったり」
思わぬ単語に、心臓がドクンと跳ねる。じりと後ずさりし、それでも目だけは離さず藤田さんを観察する。
……見た目は、完全に藤田さんだ。なのにその言動は、いつもの彼とはまったく乖離していた。
「……そこは、ラブホテルとか言わないんですね?」
「なんで? 景清と曽根崎さんはそういう仲じゃないだろ?」
「ええ、そうですよ。だけど藤田さんには、その辺り死ぬほど茶化されてきたんで」
僕の言葉に、初めて藤田さんの目に無機質な影がよぎった。
――ああ、変異してしまっている。
どうしようもないほどに、僕はそう確信した。
「景清」
藤田さんが一歩寄る。
怖い。何をどうすればいい。何も気づいていないふりをして彼に何が起こったか聞き出すべきか。それよりも、藤田さんが右手に持っているあのハンカチを警戒すべきか。
何も返せないまま、時間だけが過ぎていく。藤田さんの顔には、見慣れた笑顔が張り付いていた。
――いや、待てよ。
ふと、僕は気がついた。
――藤田さんがこうなっているとするならば、もしかして、阿蘇さんも……?
「曽根崎さん!! 逃げてください!!」
後先を考える余裕は無かった。僕は洞窟に向かって振り返り、あらん限りの声を張り上げていた。
鼻と口をハンカチで覆われ、茂みから伸びてきた数本の腕に体を拘束されたのは、それとほぼ同時だった。
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