第146戦:春の心は のどけからまし
いつまでも、その場に立ち尽くしたまま。次第に小さくなっていく華奢な背を見つめ続けていた萩だが、不意にぽつりと呟き。
「それで。どうするんだ?」
「どうするって、なにが?」
「だから、このこと。……牡丹に言うのか?」
萩の視線を受けながら、竹郎は一寸考え込むも。
「彼女の気持ちに、あの牡丹が気付いていると思うか? このことを話せば、そのことも自ずと知れちゃうだろう」
そう述べる彼に、萩はすんなりと納得し。
「……それもそうだな」
小憎たらしい男の顔を思い描きながら、小さく頷いて見せる。
「それにしても、本当に可愛くないよな。脅されているっていうのに、それらしい顔の一つもできないのかよ」
「お前、それ。本気で言っているのか?」
「はあ? どういう意味だよ」
「いいや、別にー。ただ、お前がそう思っているなら、やっぱり天正菊は女優だなと思って」
やはり訳が分からないと、首を傾げさせる萩だが。不意に遠くの方で、どさりと鈍い音が耳を掠める。音のした方に顔を向けると、先程まで普通に歩いていたはずの菊が、何故か地面に倒れ込んでいた。
彼は、咄嗟にそちらへと駆け寄り。
「牡丹の妹……?
おい、牡丹の妹? しっかりしろ!」
「……らないで……」
「え……」
「触らないで、触れないで……」
「なっ……!」
(この女……!!)
萩は、思わず拳を強く握り締め。
「あのなあ! こういう時くらい、もっと可愛げのある……」
「お願い、誰も……。誰も、触らないで……」
「……なんだ、譫言か……?」
閉ざされたままの瞳に、萩はそう漏らすも。その問いに答えてくれる声は、どこにもなく。
「おい、足利。取り敢えず、保健室に連れて行くぞ」
「あ、ああ……」
竹郎に促され、萩は菊を抱き上げるも。
(コイツ、見た目以上に軽いな……。)
そう思う一方で、保健室への道を急ぎ。
閑話休題。
「あの、菊が倒れたって聞いて……!」
「来たんですけど」と、軽く息を切らしながら。藤助と、その後ろから道松も続く。
「軽い貧血だから、少し休めば大丈夫よ。今はぐっすり眠っているわ」
「そうですか。そしたら、あと二時間で授業が終わるので。もし菊が目を覚ましたら、迎えに行くから待っているよう伝えて下さい」
そう保健医に伝言を託すと、四人は深閑とした廊下を歩いて行き。
「えっと、萩くん達が、菊のことを保健室まで運んでくれたんだって? ごめんね、ありがとう」
「いえ、そんな。困っている人を助けるのは、人として当然ですから。なあ、足利」
「おい。保健室まであの女を運んだのは、俺だぞ。ったく、本当に調子の良い奴だ。それより。
……お宅の妹、演劇部の部長に脅されていましたよ」
「演劇部って、もしかして石浜くんのこと? 脅されていたって……」
「内容は、先輩達なら簡単に想像が付くんじゃないかと思いますが」
「そっか。うん、石浜くんならやりかねないな……」
萩のその一言により、全てを把握したのだろう。へらりと弱々しい笑みを浮かばせる藤助の傍ら、道松は元々鋭利な眉を更に尖らせ。
「あの野郎……!」
「道松? ちょっと、どこに行くの? 教室はそっちじゃないだろう」
「どこって、アイツを絞めて来る。アイツのクラス、今の時間は体育だったよな?」
「絞めて来るって……。駄目だよ、そんなことしたら! それこそ相手の思う壺だよ」
今にもその場から駆け出して行きそうな道松を、藤助は彼の肢体にまとわり付いて必死に引き止め。
「あのう、先輩方。一応、俺流の口止めはして置きましたけど。でも、確実な保証はできませんし、石浜部長、しつこい性格をしていますからね」
「それで。どうするんですか?」
「どうするって……」
「与四田の言う通り、あの先輩がこのまま素直に引き下がるとは思えませんが」
「どうするも、こうするも……」
「いっそのこと、バラしちゃった方が良いんじゃないですか? あの女のことだから、どうせ誰にも……、先輩達にも隠しているんでしょう? 正直に、知っているって。気付いているって言っちゃった方が、お互い楽になれるんじゃないですか?」
すっと瞳を細めさせ。見つめて来る萩の視線から、それでも藤助はさらりと逃れ。
「それは、できない。それだけは……」
「できないって、そんなに難しいことですか?」
「うん……。だって、言っちゃったら、ここにいられなくなったら、行き場なんてないもの。他に行く所なんて、俺と同様、菊にはないから。だから、今まで通りを装うしか、他に方法は……」
最後の方は、ほとんど空気混じりで音にはなっておらず。しかし、容易に想像でき。
もう一度、口先で藤助は繰り返させるが、その呟きは静けさに呑み込まれていくばかりであり。傷跡一つ残す所か、淡々と時間だけが、通常通りに授業が展開されている教室とは独立して経過していった。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
日は移り、翌日の天正家にて――。
「ただいまー!」
と、玄関先から飄々とした声が上がり。その声を聞くや、芒はぴょんとその場で高く飛び跳ねる。
「あっ。桜文お兄ちゃんだ! お兄ちゃーん!」
「おー、芒に満月も。ははっ。二人とも小さいままだなー」
「そりゃあ、そうだろう。一週間程度で、そう簡単に背が伸びるもんか。
なあ、牡丹」
「梅吉兄さんってば、どうしてそこで俺に振るんですか。嫌味ですか?」
梅吉に向け、じとりと牡丹が瞳を鋭かせる傍ら。芒はきゃっきゃ、きゃっきゃと甲高い音を上げながら、勢いよく桜文へと飛び付く。
「あのね、満月もね、お兄ちゃんがいなくて寂しかったって」
「そっか、そっか。俺も寂しかったぞ。いやあ、なんだか懐かしいな……って、あれ。菊さんは?」
芒を抱き上げたまま。きょろきょろと室内を見回す桜文に、一同はつい口を閉ざしてしまう。
けれど、周囲からの視線を受け。藤助は嫌々ながらも代表して口を開かせていき。
「えっと、菊はその。もう寝ちゃったみたい。ここ最近、疲れているみたいでさ」
「そっか。菊さん、寝ちゃったのか」
こてんと首を横にさせ、暫くの間、桜文は天井へと視線を向けさせるも。
「桜文、ご飯食べよう。もう用意できているから」
そう藤助に呼び掛けられ。食卓の方を向くと、いつの間にか誰もが自席へと着いており。
桜文も返事をすると、漸く芒を床へと下ろし。元気良く駆けて行く弟に倣い、彼も自分の席へと腰を下ろした。
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