第137戦:久方の 雲の上にて 見る菊は

 遡ること、二年前――……。


 市内に位置する、とある空手道場にて。


 若々とした活気の良い声が壁を貫通し、外一帯にまで響き渡る中。その音に掻き消されそうになりながらも、がらりと甲高い音が奏でられ。



「あの、ごめん下さい」


「ん? その声は……。おお、桜文か。久し振りだな。暫く見ない間に、また一段と背が伸びたな。ここに来るのは、中学を卒業して以来になるか。

 それで、今日は一体どうしたんだ?」


「はい、師範がぎっくり腰になったと聞いて。それで、何か手伝えればと思って」



 そう返す桜文に、師範は軽く掌で腰を擦りながら。



「そうか、それは助かるよ。なにしろ動くだけでも一苦労でな。人間、歳には敵わんよ」


「そんな。まだまだこれからじゃないですか。それより、どうかしたんですか? みんな、なんだか様子が変だけど」



 桜文はちらりと稽古に励んでいる生徒達へと視線を向けるが、彼等の頬は心なしか、揃ってぽうっ……と紅潮しており。そわそわと落ち着かない様子に、桜文はこてんと首を傾げさせる。


 すると、師範はくすりと笑みを溢し。



「それは、あの子が原因だよ」


「あの子って……」



 師範の指差す方に視線を向けると、そこには一人の少女の姿が。辺りに芳しい花を散らしながらも周囲と同様、力強く手足を突き出している。


 彼女が動く度に、頭の高い位置で一つに結ばれた色素の薄い栗色の髪が大きく左右に揺れ動き。馬の尻尾に似た髪の束を桜文は目で追いながらも、周りの空気に全く溶け込めていないその存在に違和感を覚える。



「へえ、女の子が入ったんですか。珍しいですね」


「それが正式に入った訳ではなく、一時的なんだよ」


「一時的ですか?」


「ああ。なんでも芝居の為とかで。演技の幅を広げる為に、暫くの間、通わせてくれとあの子の母親に頼まれたんだよ。

 いやあ、あの子もあの年頃にしては大人っぽくて美人だが、お袋さんも豪い別嬪でさ。あんな美人に頼まれたら、嫌とは言えないねえ」


「ふうん、芝居か」


「けどなあ。彼女、なかなか筋が良くて。芝居の為だけなんて、正直勿体ないんだよなあ。将来、良い選手になると思うのに」



 師範は残念そうに、肩を落とすが。直ぐにも自身で気を持ち直させ。



「と言う訳だから、みんなの喝を入れ直してやってくれ。まあ、アイツ等も、ただでさえ年頃だからなあ。それがあんな格別に綺麗な子が一緒だと、へらへらするなと言う方が無理な話かもしれないが」



 自分のことは、すっかり棚に上げさせたまま。師範はばしばしと、桜文の背中を思い切り叩いた。






 暗転。






 休憩時間になり、桜文は滴る汗をタオルで拭い取りながら。道場の裏手へと回る。すると、そこには既に先客がおり。



「あ……」



 小さい音ながらも一人の少女を前にして、思わず驚嘆の音が漏れる。


 止めた足と同様、どうするかと。桜文は一瞬迷うも、その場に座り込み。



「ここ、いいよね。俺もこの道場に通っていた時は、いつもここで休んでいてさ。風通しが良くて、お気に入りの場所なんだ。

 どら焼きがあるんだけど、食べる?」



 桜文は彼女の方に向け、どら焼きを差し出すも。



「……いりません」



 ただ一言そう述べると、彼女はぷいと横を向いた。


 一方の桜文は、持て余してしまったそれをどうしたものかと。じっとどら焼きを見つめていたが、結局は口元へと運び。がぶりと一口、大きな口で噛り付いた。



「そっか。このどら焼き、すごく美味しいんだけどなあ。

 もしかして、どら焼き嫌いだった?」


「どら焼きが嫌いなんじゃなくて、人から物をもらうのが嫌い」


「えっと、なんで……?」


「どうせ後で恩を返せって言われるから」



 じとりと半ば睨み付けながら。きっぱりとそう述べる彼女に、桜文はへにょりと太い眉を下げる。


 情けない面をそのままに。



「うーん、別にそんなつもりはないんだけどなあ」



 大口でどら焼きに噛り付きながら、「美味しいのになあ」と。残念そうに繰り返す。


 彼は、頬に付いた餡子を親指の腹で拭い取りながらも。



「名前、なんていうの?」


「……なんで教えないといけないんですか?」


「なんでって、呼ぶ時に困るから?

 暫くの間、師範の代わりに俺が教えることになったんだ。だから名前を知らないと、色々と不便だと思うんだよね」



 彼女は桜文のことをやはり胡散臭そうに。猜疑ばかりが込められた瞳で見つめ……、いや、軽く睨みながらも一寸考えた後、花弁に似た薄桃色の唇を小さく動かし。



「……相模菊」


「そっか。菊さんって言うのか」



 ぽつりと溢す彼女の声を桜文は拾い上げるも、菊は先程以上に眉を吊り上げさせ。



「馴れ馴れしく下の名前で呼ばないで下さい」


「えっと……、なんで?」


「嫌いだから」


「嫌いって、“菊”って名前が?」



 桜文が訊ねると、彼女はこくりと小さく頷いてみせる。


 あまりの彼女の潔さに、桜文はぽりぽりと頬を掻き。



「どうして嫌いなの? 綺麗な名前だと思うけど……」


「菊の花なんて、縁起が悪いだけだもの」


「縁起が悪い? ああ……。確かに葬式やお墓のお供えに、よく使われる花だもんね。

 でも、菊の花って、不老長寿や無病息災を願う花で、決して縁起が悪い訳ではないと思うよ。それに、綺麗だから。だからだと思うよ、そういうのに使われるのって。

 だって、お供えするなら、やっぱり綺麗で長持ちする花の方が良いと思わない?」


「……よく分からない。花なんてお供えしたことないから」


「そっか」



 桜文は新しく袋を開け、もう一度、試しに菊の方へそのどら焼きを差し出すが、彼女が受け取ることはなく。仕方がないとばかり、彼はまたもや自分で食べていく。


 数口で、あっという間に平らげ。ごくんと最後の一口を呑み込ませると、餡子独特の甘さの残る口内を惜しむ一方で、またもや桜文は口を開かせ。



「空手を習っているの、お芝居の為なんだって? 俺、芝居なんて観たことがないからよく分からないけど、役者さんなんてすごいね」


「別に。すごくもなんともありませんよ。親に言われてやっているだけだし」



 言い放つようにそう言うと、菊は踵を返し。すたすたと、道場の方に向かって歩き出す。


 残された桜文は、跋の悪そうな表情を浮かばせ。ただ華奢なその背中を見送ることしかできず。


 稽古に戻った後も、桜文の視線は自然と彼女へと惹き付けられ。終了時間となり、生徒の姿が見当たらなくなった後に、菊は一人漸く道場を後にする。


 ゆっくりとした足取りで石段を下って行くも、その先の光景に自然と眉間に皺を寄せていき。



「何? まだなんか用?」


「うん、用というようなことでもないんだけど。

 あのさ。足、怪我したんじゃないの?」



 彼女の左足を指差しながら。訊ねる桜文から、菊はふいと顔を反らし。



「……別に。軽く捻っただけ」


「軽くって……。たとえ軽くても、ちゃんと治さないと癖になるよ」


「別に私が怪我しようと、アンタには関係ないじゃない」



 煙たそうに、菊はきっぱりと言い述べると、じろりと桜文のことを睨み付ける。けれど、あまり効果はなかったのか。桜文は平然とした顔で、引き続き菊の元へと寄って行き。



「ちょっとごめんね」



 手短にそれだけ言うと、彼はひょいと彼女のことを抱き上げ。抱き上げるがその瞬間、菊はじたばたと手足を大きく振って暴れ出す。



「ちょっと、いきなり何するのよ!」


「何って、直ぐ近くに接骨院があるから。ちゃんとそこで診てもらおうと思って」


「これくらい平気だって言っているでしょう! 病院なんていくほどじゃないわよ」


「駄目だよ、自分判断では。こういうのは、ちゃんと専門家に診てもらわないと」


「いいから早く離しなさいよ。大体、連れて行ったって、お金なんて払えないわよ!

 ただでさえあの道場だって、どうせお母さんがいつもみたいに色目を使って、ほとんどタダで通わせてもらっているくらいなのに」


「だったら、俺が代わりに払ってあげるから」


「なんでアンタの世話にならないといけないのよ!? この、変態っ! 今直ぐ離さないと警察呼ぶわよ!」



 甲高い音を上げ続ける彼女に、桜文はへにょりと太い眉を下げさせ。


 本当に、警察を呼ばれたらどうしようと。彼女のこの剣幕では、やりかねないだろうと。


 その恐怖に怯えながらも、桜文は菊の必死の攻撃を避けつつ。自分の為にも、病院への道を急いだ。

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