第119戦:妹が名に 懸けたる桜 花咲かば

 夕食も終え、一段落着いている天正家にて――……。


 台所で、がしがしと。やや乱暴に水気の残る頭をタオルで拭きながら。ふんふんと、牡丹は小さく鼻歌を口遊む。


 冷蔵庫の中から流れ出て来る冷気に、心地良さを感じる一方。次第に首は傾いていき。



「あれえ、アイスないかなあ。テレビのシーエムを見たら、無性に食べたくなっちゃったのに……っと、あった、あった。最後の一つだ」



「ラッキー」と単純にも、牡丹はすっかり上機嫌に。漸く見つけ出したそれを手に握り締めながら、ソファへと深く腰を掛ける。


 早速とばかりカップの蓋を開けると、まだ薄らとだが凍っている表面にスプーンを入れ。そろそろと、口元へと運んでいき――。



「うん、美味い! チーズケーキ味なんて初めて食べたけど、なかなか美味しいな。やっぱり風呂上りのアイスは最高だよなあ。

 でも、藤助兄さんにしては珍しいな。単価の高いカップアイスを買って来るなんて」



 通常の彼ならお買い得用のアイスばかりなのにと、気には掛かったものの。それは直ぐにも舌先から伝わって来る甘美により、簡単にも消え去り。


 もう一口と、スプーンを口に運んだ瞬間。しかし、突然、頭に鈍い衝撃が降ってきた。


 その痛みに悶絶しながらも振り返ると、そこには鬼の形相をした菊の姿があり。右手には、おそらく牡丹の頭部を殴った凶器だと思われる雑誌を丸めて持っていた。



「いっつうっ……。おい、いきなり何をするんだよ!」


「アンタが人の物を勝手に食べるからでしょう、この泥棒!」


「えっ? でも、名前なんてどこにも書いてなかったぞ」



 牡丹は手にしていたカップと、その蓋まで。ぐるりと見回すが、やはりそれらしい物はどこにもなく。怪訝な面を浮かばせる。


 天正家ルール・冷蔵庫に物を入れる際は、名前を書くこと――を思い返しながら。もう一度見直すが、やはり見つからない。



「なんだよ、やっぱりどこにも書いてないじゃないか。名前の書いていない物は、誰の物でもない。早い者勝ちだってルールだろう?」


「直ぐに食べるつもりだったから書かなかったのよ。それは私が買って来たアイスよ、いいから早く返しなさいよ!」



 正論を述べているにも関わらず、それでも菊は聞く耳を持たないとばかり。ばしばしと、丸めた雑誌で叩いてくる。


 そんな妹からの攻撃に、牡丹は腕で庇うもあまり効果はなく。



「いたっ、いたたっ。分かったよ、分かった。返せばいいんだろう、返せば。返すから、ほら」



 せっかく些細な幸福に浸っていたのにと、不満が残るものの。牡丹は名残惜しくもカップを菊に向けて差し出すが、直ぐにもまた鈍い衝撃が襲い掛かり。



「おい、何をするんだよ! 痛いじゃないか」


「アンタの食べ掛けなんて、汚くて食べられる訳ないでしょう!」


「汚いって……。悪かったな、汚くて! 大体、返せって言い出したのはそっちじゃないか。明日、買って来るから。それでいいだろう」


「何を言っているのよ。今直ぐ買って来なさいよ」


「えー、せっかく風呂に入ったのに。外に出るなんて」


「アンタの事情なんて知らないわよ。いいから早く買って来なさいよ!」



 ぶつぶつと反論を述べる牡丹に、問答無用とばかり。菊は引き続き、牡丹のことを叩きまくる。


 成す術もなくただ叩かれていると、不意に外側から扉が開き。



「お風呂って、今、誰か入っている? ……って、あははっ。何をしているのかよく分からないけど、本当に二人は仲が良いね。新しい遊び?」


「これのどこが仲の良いように見えるんですか!? 一方的に俺が叩かれているだけなんですけど」



 相変わらず能天気な三男に、牡丹は必死になって訴え。






 閑話休題。






「ふうん、菊さんのアイスを牡丹くんが食べちゃったと……。分かった、俺が買って来てあげるから」



 叩かれながらも口を動かす牡丹から事情を聞き。桜文は、そう菊を宥める。


 こうして、その場はどうにかまとまり。桜文と、それに続き菊もリビングから退出したことにより、室内は静まり返り。テレビの音ばかりが響き渡る部屋の中で、牡丹はすっかり溶けてしまっているアイスを勿体なさからどうにかスプーンで掬い取って食べていたが、ふっと乾いた息を吐き出させ。



「たかがアイスくらいで、あんなに怒るなんて。菊も子供だなあ」



 本人が聞いたら、確実にもう一発は殴られていただろう台詞を易々と吐き出した所で、ピンポーンと、甲高い音が鳴り響き。


 夜分遅くに一体誰がと不審に思いつつも、重たい腰を上げ。牡丹は玄関へと向かう、が。



「なんだ、萩かよ。こんな時間に何の用だよ?」


「風呂が壊れたから借りに来たんだよ」


「借りにって、ウチは銭湯じゃないぞ」



 牡丹はむすりと眉間に皺を寄せさせるが、構われることはなく。萩は靴を脱ぐと、勝手に奥へと進んで行く。



「あっ、おい。ちょっと待てよ」


「なんだよ。たかが風呂くらいでケチケチするなよ」


「そうじゃなくて。今は菊が……」



「入っているから」と、言い切るよりも先に。がちゃりと浴室の扉が、萩の手によって開かれてしまい。



「あ……」



 短い音が萩の口から漏れると同時、目にも止まらぬ速さの拳が扉の隙間から飛び出し。それは見事、萩の右頬へと直撃した。


 バタンッ――! と、扉の閉まる音が強く響き渡る中、萩はすっかり赤くなっている箇所を手で擦るが、それはなんの気休めにもならず。ただただ痛む頬をそのままに。



「いっつう……。

 おい、牡丹。お前の異母妹は、なんでこんな時間に風呂に入っているんだ!?」


「仕方ないだろう、ウチは人数が多いんだ。全員が入り終わるまで時間が掛かるんだよ。

 それより、後でちゃんと謝っておけよ。ただでさえアイスのことで怒っているんだ。これ以上機嫌を損ねられたら、こっちにまで被害が及ぶだろう」


「アイス? 一体何の話だよ」



 首を傾げさせる萩を置き去りに、玄関先からガチャガチャと音が鳴り出し。続いて、リビングの扉が開かれ。



「あっ、桜文兄さん。おかえりなさい。本当に済みませんでした」


「そんな、気にしないで。ランニングがてら行って来ただけだし。

 えっと……、それで菊さんは?」


「風呂に入っていますが、もう出て来るかと……。あっ、出て来ました」



 指差す牡丹の動きに従い、桜文は後ろを向き。コンビニのロゴの入ったビニル袋を室内へと入って来たばかりの彼女へと差し出す。


 けれど、受け取った菊は、何故か予想とは裏腹の表情を浮かばせており。



「チーズケーキ味がない……」


「ああ、うん。それが、その味だけどこにも売っていなくて。代わりに別の味では駄目かなあ? ほら、色々買って来たから」



 桜文は、へらりと太い眉を下げ。ごろごろと袋の中で転がっているアイスを取り出して見せるが、菊はむすりと口を小さく尖らせたままであり。



「……嫌。チーズケーキ味でないとやだ」



 牡丹のことを思いっ切り睨み付けながら。彼女は頑なにそう繰り返す。


 そんな妹の態度に、どうしたものかと。困惑顔を浮かばせる牡丹と桜文だが、その様子を傍から見ていた萩は、横から飄々と。



「ハーゲンダーツのチーズケーキ味って、期間限定だろう。もうどこにも売っていないと思うぞ。丁度切り替えの時期だから」


「えっ、そうなのか?」


「ああ。あのメーカーのアイスは、いつも月のこのくらいの時期にラインナップを入れ替えているからな。俺も店に残っていた最後の一つを運良く買えたくらいだし、もう手に入らないと思うぞ」


「そうか。それじゃあ、もうどこにも売っていないのか……って。おい、萩。買えたってことは、もしかして……」


「ああ。風呂から上がったら食べるつもりだ」



 ふふんと鼻息荒く、得意気に述べる萩を余所に。牡丹の頭上に、ぴんと豆電球が閃いて。



「だったら、萩のをもらえばいいんだ。なんだ、これで解決だな」


「はあ? 何を勝手なことを言っているんだ。どうして俺のアイスをお前の妹にやらないといけないんだよ」


「別にいいだろう、アイスくらい。それに……」



 ちらりと視線を動かす牡丹のそれを追い。辿り着いた先の菊に焦点を合わせれば、彼女はぼそりと口を小さく動かし。



「さっきのこと、紅葉に言い付けてやる……!」



 瞬間、萩の顔は見る見る内に蒼白していき。気付けば天正家を飛び出し、けれど、直ぐにもまた姿を現すと、荒い息をそのままに例のアイスを菊へと差し出す。


 恨めし気な眼差しで見つめて来る萩を気に掛ける様子もなく、菊は受け取ると早速念願のアイスを食べ始める。満足気な表情を浮かばせる彼女に、桜文は、

「良かったね」

と、ただ一言。薄らと、笑みを添えて。もう一度、「良かったね」と。


 先程よりも一段低い声音で、彼女にだけ聞こえるよう繰り返した。

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