第103戦:誰が玉梓を かけて来つらむ
「まさか、幽霊の正体が狸だったなんて……」
「納得というか、拍子抜けというか」
山の中から無事生還し。旅館に戻って来るなり、芒の腕の中に納まっている狸を眺めながら。歩き回った疲れもあってか、牡丹並びに天正家一同は揃って深い息を吐き出させる。
その傍らから、ひょいと紅葉が顔を出し。
「でも、本当に良かった。芒ちゃんが見つかって。急にいなくなっちゃったから、びっくりしちゃった」
「ごめんなさい。あのね、部屋に戻ったら、この子が藤助お兄ちゃんの鞄を漁っていて。それで時計を銜えて逃げちゃったから、追い掛けていたの。
ほら、ちゃんとお兄ちゃんに謝ろうね」
そう芒が狸に話し掛けると、彼の台詞に合わせるみたいに藤助の方を向き。「ごめんなさい」と、狸はぺこりと頭を下げた。
その光景に、藤助は口元を苦ませる。
「ははっ。まさか、狸に謝られる日が来るなんて……」
「それにしても、狸なんて初めて見ましたよ。随分と芒に懐いているんだな」
牡丹がその頭を撫でようと、手を伸ばすも。瞬間、狸の口ががばっと開き。牡丹の手に噛み付こうとするも、寸での所でどうにか躱し。
「うわっ、びっくりしたあ……」
「駄目だよ、牡丹お兄ちゃん。この子、とっても怖がりなんだから。
よし、よし、大丈夫だよ。牡丹お兄ちゃんは、悪い人じゃないからね」
「なんだよ。俺は悪人かよ」
「まあ、まあ。野生の狸だから仕方ないよ。人間にはきっと不慣れなんだ。
あっ、そう言えば。桜文、早く消毒しないと」
「消毒って、何かあったんですか?」
「それがコイツ、熊と闘ったんだってさ。馬鹿だよなあ。引っ掻き傷くらいで済むなんて、さすがだよ」
「ええっ!? 熊って……。本当に大丈夫なんですか?」
「うん。これくらい平気、平気」
驚きを隠し切れないでいる紅葉に、傷口を見せながら笑ってみせる桜文であったが、しかし。突然その箇所に、ただならぬ痛みが迸る。
ふいと顔を下に向けさせると、そこには仏頂面を引っ提げた菊の姿があり。
「……嘘吐き。本当は痛い癖に」
「えっと。そんなに強く叩かれたら、さすがに……」
口答えしようとするも、最後まで言い切る前に。菊はまたしても強く叩き。再び襲って来た痛みに、桜文は悶絶しながら顔を歪ませる。
そんな彼を余所に、菊はその手首を掴むと引っ張り出し。ずるずると、そのままロビーへと連れて行く。
「救急箱、借りて来たから」
手短にそれだけ言うと菊はピンセットで脱脂綿を摘まみ、どばっと消毒液を漬ける。それを傷口へと当てていくが、その度に桜文は軽く目を瞑る。
けれど、意を決すると、おそるおそる、口を開かせていき。
「あの、菊さん? できたらもう少し優しく……」
して欲しいと、続けようとするも。反対に菊は眉間に皺を寄せさせ、緩める所か反って力を込めて押し付ける。その圧力により、アルコールは一層と傷口へと滲み込み。更なる刺激に、桜文は薄らと目の端に涙を浮かばせた。
彼はそれを指の腹で軽く払いながら。
「あのさ。俺の気の所為かもしれないけど、その……。もしかして、怒ってる?」
こてんと首を傾げさせる桜文に、菊はすっと目を細めさせて。
「別に。ただ熊と闘うなんて馬鹿だと思っているだけ」
「馬鹿って、そうはっきり言われちゃうとなあ……」
返す言葉もないとばかり。桜文は、へにょりと太い眉を八の字に寄せる。
つんとそっぽを向く菊を前に、一寸考え込むも。がさごそと袖の中を漁り出して、そして。
「菊さん、はい」
と、何やら手に掴むと、それを彼女の顔目掛けて突き出した。
突然、口を襲った柔らかな感触に、菊はぱちぱちと数回瞬きを繰り返し。
「……なに、これ」
「なにって、お団子。できたらこれで許してもらいたいんだけど、駄目かな?
さっき一緒に風呂に入っていた、お爺さん達にもらったんだ。けど、人数分はさすがにないから」
「みんなには内緒だよ」と、桜文は続けさせ。一方で、菊はもぐもぐと。小さく口を動かす。
それから、ごくんと喉奥へと飲み込ませるや。
「温泉饅頭」
「え?」
「温泉饅頭も食べたい」
ちらりと、菊の視線の先を辿り。売店が目に入ると、桜文は納得顔で頷いて。
「……ああ、いいよ」
そう朗らかに続けさせると、菊は小さく頷いた。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
こうして短い家族旅行も終わりを迎え、帰宅した天正一家。
家の中に入るなり、誰もがもたれ掛かるようソファに座り込む。
「はーっ、さすがに電車に乗りっ放しだと疲れるな。けど、色々あったが、なんだかんだ楽しかったよな。熊に襲われるなんて滅多にできない体験だし、今となっては良い思い出だよな」
「良い思い出って……。あんな思い、俺は二度とご免ですよ」
二度も熊に襲われ掛けた身である牡丹としては、他人事の次兄に対し。むすりと口を尖らせるが、全く効果はなく。
不満を抱きながらもお茶を啜り一服入れていると、ふと一つの鞄がごそりと揺れ動く光景が目に入り。気の所為かと思った矢先、また動き出た。
牡丹は我が目を疑いながらも、小さく口を開かせていき。
「あの、桜文兄さん。兄さんの鞄、動いていませんか……?」
「えっ。動いているって……」
そう言った直後、またしても鞄の形が大きく歪み。牡丹等は、揃って肩を跳ね上がらせる。
「うわっ。やっぱり動いていますよ、その鞄!」
「あっ、本当だ」
「『本当だ』じゃねえよ。お前、一体中に何を入れたんだよ!?」
「何って、特に変わった物は……。財布と着替えくらいしか入れていないぞ」
「ただの服があんな風に動いたりするもんか! 取り敢えず、開けてみるぞ」
このまま討論を繰り返していても拉致が開かないと。梅吉はジッパーを掴むと、一気に動かす。
刹那、ひょいと黒い塊が中から飛び出し。
「うわあっ!? ……って、え……、た、狸……?」
「この狸って、もしかして……」
牡丹が結論を出すよりも先に、芒が狸の前へと躍り出て。
「あっ、あの子だ!」
と、声を上げ。一方の狸も芒へと飛び付き、自身の肢体を彼の胸へと擦り付ける。
「この狸、山に逃がしたはずだよな?」
「うん。でも、元々あの部屋によく出入りしていたみたいだし、それで桜文の鞄に……って所かな」
「おい、桜文。鞄の中に狸が入っているのに、気付かなかったのかよ?」
「なんか重たくなったような気がするとは思ったけど、全然気付かなかったなあ」
へらへらと能天気にも笑っている桜文に、梅吉は呆れ顔を浮かばせ。その隣では道松が、怪訝な面で問題の狸をじろじろと見つめ。
「それで。この狸、どうするんだよ?」
「どうするって言われても。元いた山には、とても帰しに行ける距離ではないし……」
「その辺に逃がす訳にもいかないしなあ。こうなったら、ウチで面倒見るしかないだろう。
おっ、この狸、雌だぞ。良かったな、菊。仲間が増えて」
けらけらと笑い出す梅吉だが、そんな彼目掛け、菊の手元から勢いよくクッションが飛んで来る。それは見事、次男の顔面へと命中し。
梅吉はすっかり赤くなった鼻を擦りながら、空気混じりの声を漏らす。
「いっつう……。菊のこの暴力的な性格は、やはりなんとかしないといけないな」
「それより、お前のその余計な一言を言う癖を直した方が早いと思うぞ」
「俺も藤助兄さんの意見に同意です。それより、ウチで面倒を見るって、狸なんて飼えるんですか?」
「調べた所、飼えなくはなさそうですが……」
「それじゃあこの子、ウチで飼ってもいいの!?」
「飼ってもいいって言うか、天羽さんにも相談しないとだけど……」
困惑顔を浮かばせている兄達を余所に、芒は、ぱあっ……! と、大きな瞳を輝かせ。
「わーい、わーい!
そうだ、名前。名前を付けてあげないと。ううんとねえ、お月様みたいに真ん丸しているから、満月……。うん、今日から君の名前は満月だよ」
「芒、女の子に丸いなんて言っちゃ駄目だぞ」
きゃっきゃ、きゃっきゃと甲高い音を上げている末っ子に、冷静に忠告をしている次兄を遠目に眺めながら。そういう問題ではない気がすると、牡丹は思いながらも声に出すことはせず。代わりにグラスに口を付け、ごくんと一口飲み込んだ。
こうして家族旅行をきっかけに、また一人……ではなく一匹が、なんの前触れもなく。突如、天正家に仲間入りした。
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