第098戦:さ丹つらふ 君がみ言と 玉梓の

 せっかくの家族旅行も、部屋の事情により一変し……。


 なんだか波乱の空気が流れている中、宿自慢の温泉に浸かりながら。紅葉は鬱蒼とした瞳を揺らし、ゆっくりと薄桃色の唇を開かせる。



「ねえ、菊ちゃん。私達の部屋、それなりに広いじゃない? だからね、その……。さすがに全員は無理だけど、あと何人かは寝られると思うの」


「確かにそうね。けど、一体何が言いたいのよ?」


「だからね、私達の部屋に……」



 もじもじと、頬を赤らめながら。紅葉が続きを口にしようとするも、その前に。


「絶対に嫌」

と、彼女の先を読んだ菊が、きっぱりと反論を述べる。


 端から予想はできていたものの、簡単に結論を下されてしまい。けれど、それでも紅葉は策を巡らせ。



「だって、藤助さんが可哀想だし、それに、牡丹さんだって……」


「なに。もしかしてアンタ、アイツと一緒に寝たいの?」



 じとりとした瞳を以って見つめ返してくる菊に、紅葉はますます頬を紅潮させる。



「菊ちゃん!?? 違うもん、そうじゃなくて。もしも本当に幽霊が出たらって、そう思うと……」


「アンタまで、何を馬鹿なことを言っているのよ。幽霊なんている訳ないじゃない」


「でも……」



 しゅんと頭を下げる紅葉に、菊は最早呆れたとばかり。乾いた息を吐き出しながら。それでもまだ何か述べようとする彼女に、聞く余地もないとばかり。


 菊はもう一度、一拍の間を置くことなく。ぴしゃりと強く言い放った。






✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎






 一方、男風呂の方はと言えば。


「なあ、藤助。いい加減、機嫌直せよー」

と、ただならぬオーラの放たれている背中に向け。梅吉は飄々とした声を掛ける。


 けれど、その先の人物の表情は、良くなる所か悪化する一方で。



「梅吉の馬鹿。芒だっているのに、あんな部屋を選ぶなんて」


「だって、あまりの安さについ。それに、スリルがあって面白いかなと思って」


「ただの家族旅行に、そんなスリル求めないでよ!」



「信じられない!」と、藤助は顔を真っ赤に染め。一際強く言い返す。


 そんな兄達の様子を、牡丹は遠目に眺めながら。



「藤助兄さんの機嫌、まだ直らないのか。本当、梅吉兄さんには困ったものだよ。

 そう言えば、菖蒲は知っていたのか? あの部屋の事情を」


「きちんと説明はされませんでしたが、大方こんなことだろうとは思っていました」



 やはり菖蒲は、特に顔色を変えることなく。淡々とした調子でそう述べる。


 彼等の遣り取りに、相変わらずだと。旅先でも代わり映えしない我が家の様子に、あまり遠出している気分にならないと。牡丹は自然とそう思わされるも。



「それで、部屋を荒らしている犯人だけど……。菖蒲は本当に幽霊の仕業だと思っているのか?」


「そうですね。僕は今まで一度もそういった心霊現象を体験したことがないので、どちらかと言えば信じてはいません。しかし、そうでないと断言するのも早急かと思われます。それに、夜になれば分かることですから」



 至って冷静な姿勢を維持させたままの菖蒲に、それもそうだと。いつまでも杞憂に浸っていても、仕方ないかと。


 牡丹は割り切らせると、ぽちゃんと肩まで身体を浸からせる。



「お兄ちゃん。僕、もう出るね」


「それなら俺も出るよ」


「おい、藤助。いい加減、芒を離してやれ。いくら怖いからってなあ……」


「だってえ……」


「それでは、僕も先に失礼します」


「そうだなあ。俺も、そろそろ出よっと」



 芒を発端に、牡丹達は揃って湯船から上がり。ぞろぞろと、連れ立ってその場を後にする。


 未だ湯に浸かっている梅吉は、

「なんだよ、揃いも揃って。せっかくの温泉なんだから、もっと堪能すればいいのに」


「勿体ねえなあ」と、口を小さく尖らせながら。けれど、それ以上は口にすることなく。黙ってその背中を見送った。


 梅吉同様、取り残された萩もそちらに視線をやりながら。



(なんで俺が牡丹とその兄貴達と、一緒に旅行なんかと思っていたが。でも、特別に目を瞑ってやるか。

 なんせ、この壁の向こうには……。)



 ちらりと、男湯と女湯とを区切っている柵に目をやるも。



「『ああっ。この壁の向こうには、一糸まとわぬ紅葉さんが……!』なーんて、やらしい妄想でもしているのかなあ? 牡丹達とは違って、萩はお年頃だなあ」



 突然、脳内の声と同調するよう。下卑た声のした方に視線を向けると、いつの間にか直ぐ横には、にやにやと気味の悪い笑みを浮かばせている梅吉の顔があり。



「いやあ、若いっていいなあ。うん、うん、羨ましいねえ」


「げっ、牡丹の兄貴。あの、勝手な想像は止めて下さい。誰がそんなこと……」


「ふうん。お前、なかなか良い身体をしているじゃないか。何か運動でもしていたのか?」


「ちょっと、ベタベタ触らないで下さいよ」


「なんだよ。男同士、気にすることないだろう?」


「そういう問題じゃなくて。それとも、そういう趣味でもあるんですか?」


「まさか。俺だって、触るなら女の子の方が良いよ。ていうか、栞告ちゃん一筋だし」



 梅吉は、嫌がっている萩をさらりと躱し。いつものマイペースさで、彼を翻弄し始める。


 そんな中、萩はじとりと目を細めさせるも。その視線の先の人物は、全く気にしている様子もなく。



「なんだよ、その目は」


「いえ、別に。紅葉さんを出汁に、俺までこんな辺鄙な所に連れて来て。一体どういうつもりなのかと思って」


「なんだよ、まるで俺が何か企んでいるみたいな言い方をして。心外だなあ。可愛い弟の元・義理の弟と、純粋に親睦を深めようとしているだけじゃないか。

 お前とは一度、腹を割って話してみたいと思っていてな」


「ああ? 話って……」


「そうだなあ。正確に言えば、取り引きかな」



 やはり、胡散臭いとばかり。にたりと怪しげな笑みを唇に乗せている梅吉に、どうしたものかと。


 萩は身体全体を巡っている熱を気に掛ける余裕もなく、怪訝な面を浮かばせた。






 暗転。






(まさか、あれくらいの情報を提供しただけで。紅葉さんの誕生日に血液型、趣味に好きな食べ物、その他諸々と。こんなにも貴重な情報が手に入るなんて……!

 これでまた、紅葉さんに近付けたな。

 なんだよ。牡丹の兄貴の割には、)



 なかなか良い奴じゃないかと、萩は単純にも。処理し切れずにいる熱をそのままに、にやにやと頬を綻ばせる。


 その気分を引き摺りスキップ混じりで館内を歩いていると、お土産売り場にお目当ての人物の姿を見い出し。小走りでそちらへと近付いて行くも。



「あっ。見て、見て、菊ちゃん。この狸のキーホルダー、可愛い! 恋愛成就のお守りだって。どうしようかな。うん、せっかくだから、買っちゃおっと。

 ふふっ。何か良いことがあればいいなー……って、あれ。菊ちゃんは買わないの?」


「いらないわよ、そんな物。アンタって、本当にこういうファンシーな物が好きよね」



 またもや呆れがちに返す菊に、紅葉は小さく頬を膨らませて。つんと拗ねた表情を浮かばせる。


 そんな彼女達の遣り取りを目の当たりに、つい先程までの陽気な気分はすっかり一変。萩はひくひくと思い切り頬を引き攣らせ、そして。がくりと膝から崩れ落ちた。


 あまりのショックに、いつまでも立ち上がることができず。どよどよと全身に黒い影をまとっていると、急に頭上にすっと黒い影が掛かり。



「おい、萩。そんな所に座り込んで、何をやっているんだよ。もしかして、湯に浸かり過ぎて逆上せたのか?」



 不意にひょいと現れた敵を前に、萩の中で鬱蒼とした感情よりも、怒気の方が容易に勝ってしまい。ぶるぶると、激しく肩を震わせる。そして、思い切り、下唇を噛み締めて。



(紅葉さんのことを色々と知れてすっかり浮かれていたが、やはりこのままでは。別に与四田に言われたことを気にしている訳ではないけれど、たとえ牡丹が紅葉さんを好きになることはなくても、コイツがいる限り、紅葉さんが俺のことを見てくれることもない訳で……。

 ああ、そうだ。手っ取り早く紅葉さんを振り向かせる為には、やはり牡丹に勝つしか他に方法は……。)



 方法はない――! と、簡単にも結論に至ると、萩は勢いよくその場に立ち上がり。牡丹のことを鋭く睨み付けながら、びしりと彼の鼻先へと人差し指を突き付けて。



「勝負だ、牡丹――!!」


「はあ……?」



 突然の展開に頭が付いていけず、素っ頓狂な音を上げながら。訳が分からないと、牡丹は間抜け面を浮かばせる。


 けれど、一方の萩は、一人勝手に熱く燃えており。一度こうなってしまった彼を止めることは不可能そうだと。今までの経験から自然と悟ると、面倒なことになりそうだと。


 休まることのなさそうなこの旅に、牡丹は一つ、乾いた息を吐き出した。

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