第090戦:魂は 身をもかすめず ほのかにて

 ぶらんぶらんと頼りなくも足は地から離れ、数メートルという高さから萩は床を見下ろしながら。



「あの、ちょっと……!」



(おい、おい。なんだよ、なんなんだよ、この展開は!? せっかく紅葉さんと一緒に花火が見られると思っていたのに、一体どこに連れて行く気なんだ。

 俺が何をしたと言うんだよ……! って、そう言えば。前に牡丹を探しに来た時、この人のことを騙して家まで案内させたっけ。まさか、今頃になってそのことを……。)



 仕返しとばかりボコボコにされるのではと、つい嫌な想像をしてしまい。また、自分を担いでいるこの男は、確か柔道の大会で入賞ばかりしていたよなと。萩の全身からは、更にだらだらと冷や汗が流れ出す。


 けれど、突然桜文の足が止まったかと思えば、漸くひょいと床に下ろされ。


 久し振りの地面の感触を確かめながらも萩はおそるおそる、桜文の顔を見上げていき。



「えっと、その……。あの時は、」



「済みませんでした!」と先手必勝とばかりに謝罪しようとするも、不意に、「あのさ」と横から口を挟まれ。萩は内心どきりとさせながらも開き掛けていた口を閉ざし、おとなしくその続きに耳を傾けさせる。



「俺、ちょっと急用ができて。だからその間、代わりに菊さんのことを見ていて欲しいんだけど、駄目かな?」


「えっ。見ていてって……」



(なんだ。)



 そんなことかと、萩は思わず呆気に取られ。二の句を告げなかったことが、おそらく了承の意味と取られてしまったのだろう。


「それじゃあ、菊さんのことお願いね」

と。言うなり桜文は、早々とその場から駆け出した。


 その声によって萩は我に返り、咄嗟に彼を返り引き止めようとするも間に合わず。



「……って、どうして俺が牡丹の妹を見ないといけないんだよ」



 せっかく紅葉さんと花火が見られるチャンスだったのに……! と、今日はとんだ厄日だと思う傍ら。頼みを断ったりしたら、それこそボコボコにされるのではないかと。また、ポケットに入れっ放しだったキーホルダーのこともあり。結局は、ぶつぶつと愚痴を溢しながらも彼は保健室へと向かう。


 念の為、軽くノックをし。それから中に入ると、目に飛び込んで来たのはベッドではなく、何故か床に伏している菊の姿で。


 その光景に萩は一瞬ぎょっとしたものの、直ぐに事情が分かり。先程よりもわざと強く手の甲で戸を叩きながら。



「おい、牡丹の妹。地面に這い蹲って、一体何をしているんだ。もしかして、探し物か?」


「だったらなんですか? 足田先輩には、関係ありませんよね」



 やっと萩の存在に気付いた菊は、一瞬顔を上げさせるも。直ぐにまた床と睨めっこを再開させる彼女に、相変わらず可愛くないと。


 萩は額に青筋を立てるが、一つ咳払いをして調子を整えさせ。



「もしかして、お目当ての物はこれか?」



 ちょっと得意気に、今度は例のキーホルダーを掲げながら問い掛ける。


 すると、菊は一寸間を空けさせるも、それが目に入った瞬間、薄っすらと口を開かせていき。簡素ながらも素直に礼を述べる。


 それに対し、萩はぽかんと口を半開きにさせたまま。暫くの間、本人の意思とは無関係に間抜け面を浮かばせ。



「その顔はなんですか?」


「いや、その。お前が素直に礼を言うなんて……」



 やはり、先程の出来事をいま一つ信じられず。萩はぱちぱちと、何度も瞬きを繰り返す。


 しかし、いつまでも疑っていても仕方ないかと割り切らせると、近くの椅子へと腰を下ろし……、いや、下ろそうとしたが、その直前。菊がそれをさっと横に引いたことにより、萩はそのまま盛大に床へと尻餅を着いてしまい。


 突如襲って来た痛みに、彼は顔を歪ませ尻を擦りながら。



「おい、牡丹の妹! 一体どういうつもりだ、痛いじゃないか!」


「どういうって、それはこっちの台詞です。用は済みましたよね? なのに、いつまで居座るつもりですか」


「いつまでって、お前の兄貴が戻って来るまでだよ」


「はあ?」


「だから、頼まれたんだよ、お前の兄貴に。急用ができたから、用事が片付くまで自分の代わりにお前のことを見てくれって。

 俺だって本当は、紅葉さんと花火を見る予定だったんだぞ。それなのにだなあ……!」



 萩は菊から椅子を奪い取ると、今度はきちんとそれに腰を下ろし。



「ていうか、そもそもどうして俺なんだよ。よく考えれば、あの場には牡丹もいたんだ。何も俺でなくても……って、もしかして。まさか、兄妹揃って俺の恋路の邪魔をする為に……!」



 ふと頭を過ぎった考えに、萩はさっと顔を蒼くさせ。そういうことかと納得し掛けるも、その矢先。



「違うわよ」


「え」


「あの人は、そういう人じゃない。大体、気付いてすらいないわよ。アンタが紅葉を好きだってことを。あんなに態度に出ていて分かり易いのに。ただ鈍感で馬鹿なだけよ」



「馬鹿なのよ」と、おまけとばかり。菊はきっぱりとした声でそう述べる。


 そんな彼女に、萩はきょとんとした顔付きで。



「馬鹿って……。たとえ半分しか血が繋がっていなくても、お前の兄貴だろう。それなのに、何もそんな風に言うことないだろうが。

 お前が倒れた時だって、ここまで運んでくれたじゃないか」


「だから馬鹿なのよ」



 手の中のキーホルダーを見つめながら、菊は間髪入れず小さな声で繰り返す。彼女の指先はその輪郭をなぞり。何度も何度も、飽きることなく。同じ箇所を行き来する。


 その様子を萩は盗み見るみたいに、なんとなくだが居心地の悪さを感じながら。



「なあ。そのキーホルダー、そんなに大切な物なのか? 随分とボロっちいが……って、おい、訊いているのか? こっちは話し掛けているんだぞ」


「どうして先輩に、教えないといけないんですか?」


「どうしてって、ただの世間話だろうが」



 じろりと鋭い目付きで見返して来る菊に萩は一瞬躊躇させられるも、気を持ち直させ。もう一度、訊ね直す。


 けれど、結果はやはり変わらず。一向に口を開こうとはしない菊に、萩は更に眉間に皺を寄せさせる。



「本当に可愛くないなあっ! そういう性格だから、本当は言えなかったんだろう!?」


「言え……な……」


「ああ。本当は、ちゃんといたんじゃないのか? ミスター黒章に指名したかった相手が、好きな男が。けど、そんな性格だから、素直に言えなかっただけなんだろう。ああ、そうだ、そうなんだろう」



「そうに違いない!」と、半ば吐き捨てるよう。そう言い放つと萩は形勢逆転とばかり、勝ち誇ったような笑みを浮かばせる。


 すっかり得意になっている萩だが、それとは裏腹。菊は相変わらず冷めた表情をさせたまま。



「……そうね」


「え……」


「別に誰でも良かったのよ。アンタじゃなくても、誰だって……。

 桜文兄さんなら、どうせ花火が終わるまで戻って来ないから。先輩は、紅葉の所にでも行けばいいじゃないですか」


「行けばいいって……」



 萩は、ちらりと窓の外を眺め。



「花火、もう始まっているぞ」



 窓を開けて身を乗り出してみるが、音ばかりが遠くに聞こえ。



「ここからだと全然見えないな。音しか聞こえないぞ」


「だから、早く紅葉の所に戻ればいいじゃないですか」


「なんだよ。今日は散々邪魔した癖に、今更になってそんなことを言い出すなんて。一体どういうつもりなんだ?」


「どういうもこういうも、別に意味なんてありませんよ。それより、早く行かないと終わってしまいますよ」


「そんなこと言われても。お前の兄貴、まだ戻って来ねえし。あの人には、借りがあるからな。それに、逃げたりしたら、ぶん投げられそうだし……」


「なんですか、それ」



 桜文の姿を思い出し。その陰に脅えている萩に、菊は呆れた表情を浮かばせる。


 その間にも、花火の音ばかりは鳴り続け。鳴り続けていたものの、その音も次第に途切れていき。



「……花火、終わったみたいだな」



 萩がぽつりと呟くが、菊は俯いたまま。その瞳は、変わらず手の中を見つめている。


 そんな彼女に性懲りもなく。萩は声を掛けようと口を開き掛けたが、その刹那。外側から扉が開き。



「菊ちゃん!」


「紅葉……。なにしに来たのよ」


「なにしにって、さっき桜文さんが来て、なんだか様子がおかしかったから。菊ちゃんのこと、大丈夫とは言っていたけど、でも、やっぱり心配で……」



 そう言うや抱き着く紅葉に、菊は面倒臭さそうに。ぐいとその肢体を押し返して、適当にあしらう。


 そんな彼女達の様子を萩は呆気に取られて眺めていたが、紅葉にやや遅れを取りながらも続いて牡丹が中へと入って来て。



「なんだよ、萩ってば。桜文兄さんと一緒に出て行ったと思えば、ここにいたのか。こんな所で、何をしているんだよ?」


「何をしているって? それはだなあ……」



 能天気な面を浮かばせている牡丹を前に、萩は今日一日の出来事をふと思い返し。急に込み上げて来た怒りに素直に従うよう、彼の方に詰め寄るが、しかし。牡丹の手にしている物が目に入ると、自然と体が停止してしまい。



「げっ、それは……っ!??」


「ん? ああ、これか」



 嫌な記憶を回顧させられ精神的にショックを受けている萩を余所に、牡丹は手に持っていた物――ステッキを、ぐいと菊の前へと差し出し。



「ほら、これ。お前にやるよ」


「やるって……。なに、これ」


「なにって、ウエディング・ベリーのステッキだよ。本郷が記念にくれたと言うか、押し付けられたというか。

 とにかく、俺はいらないから。お前にやるよ」


「……いらない」


「えっ?」


「こんな玩具、いらないわよ」



 いつもの如く、つんと言い放つ菊に。



「なんだよ。お前も好きだったんだろう? ウエディング・ベリー」


「はあ? なにそれ」


「なにって、アニメだよ、アニメ。昔やっていた女の子向けの……、ええと、変身バトルアニメだっけ。お前だって見ていたんだろう」



 宮夜の熱弁を思い出しながら説明してやるも、菊の表情が変わることはなく。知らないと言い張る彼女に、牡丹は眉を歪ませ。



(あれ、おかしいな。菊が好きだったって、桜文兄さん、そう言っていたのに……。)



 いつもの照れ隠しか、はたまた本当に忘れているだけなのか。



(まあ、紅葉もあまり覚えていないと言っていたからな。小さい頃の記憶なんて、そんなものか。

 それに、たとえ好きだったとしても、さすがに高校生にもなって、こんな玩具を欲しがる訳もないか。)

と、彼女の態度から見ても、嘘を吐いているようには見えず。きっと後者だろうと牡丹は納得したものの、けれど、手に持て余してしまったそれをどうするものかと。



 彼はステッキと睨めっこをし続けるが、他に良いアイディアは浮かばず。代わりに一つ、乾いた息を吐き出した。

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