第070戦:霍公鳥 鳴く羽触れにも 散りにけり

(結局……。)



 ほとんど何もできなかったなと、昨日のことを振り返りながら。藤助は乾いた息を吐き出させる。


 第一の作業として、冷蔵庫に入っている食材の確認から始まり。消費期限の近いお肉や傷みやすい野菜をピックアップ。


 その後、実際に作り始めるが、前の作業に時間を費やしてしまい。加えて、時城の明らかに慣れていない包丁の扱い具合が原因で、早速行き詰まり。時間も時間であった為、残りの作業は藤助一人でほとんど片付けてしまい、一日目は虚しくも終了した。



(まずは、包丁を扱えるようになる所からかな。……道のりは長そうだな。

 小長狭さん、料理が上手くなるまでは、彼氏に会わないと言っていたけど……。)



 会えるようになる前に、自然消滅してしまうのではないかと。藤助の胃にはますますプレッシャーが掛かり、きりきりと勝手に痛み出す。



(けど、唯一の救いと言えば。)



「藤助くん、今日もよろしくね」

と、やはり満面の笑みで出迎える時城に、彼女が決してめげることがない所か、豪く前向きなことだと。それだけを支えに藤助は、暗い面持ちを振り払いながらも時城の隣へと並ぶ。



「それで、今日は何を作るの? 昨日はほとんど何もできなかったけど……。でも、今日はしっかりやるからね!」


「そうですね。やはり傷みやすい食材を優先して使いたいので、アスパラガスの肉巻きに、ひじきの煮物、タコときゅうりの酢の物とあさりの味噌汁はどうですか?」


「わあっ、どれも美味しそう! でも、あさりって、砂抜きとか塩抜きをしないといけないんじゃなかったっけ? それだとすごく時間が掛かるんじゃあ……」


「それなら大丈夫です。裏技を使うので」


「裏技って?」



 こてんと首を傾げさせる時城を余所に、藤助は給湯器のお湯の設定を弄り。



「五十度のお湯を使うんです。この湯に十五分ほど漬けるだけで、砂抜きと塩抜きが同時にできるので早くて簡単です」


「へえ、そうなんだ。知らなかった。でも、その方法なら時間も短縮できるし、手間が掛からなくていいわね」


「はい。ただし、火傷には気を付けて下さい。あと、お湯の温度が五十度より低いと菌が繁殖してしまい、逆に高いと煮えてしまうので注意が必要ですが……。この水道は給湯器で温度設定ができるようなので、その点は大丈夫ですね。

 待っている間に、他の作業を進めましょう。そうですね、簡単な酢の物を作っちゃいますか。それでは材料を切っていきたいのですが……」



 藤助は、ちらりと時城の顔色を窺うよう。一瞥するも。



「はーい! 教えてもらった通り、切っていけばいいんでしょう?」



 心配する彼を他所に、時城はにこにこと。包丁の柄を握り、小さく鼻歌を口遊みながらリズム良くきゅうりを輪切りしていく。


 けれど。



(ああっ、やっぱり! いつの間にか、左手がすっかりお留守に。

 けど、下手に声を掛けると反って……。)



 危ないよなと、思った瞬間。



「――っ!??」



 藤助の予想通り、ガタンッと鈍い音と共に。時城の声にならない悲鳴が、その場に強く響き渡った。






 暗転。






「血は止まっていますし、幸い傷口もそんなに深くはないので大丈夫だとは思いますが……。思いの外、出血をしているので。念の為、もう少し休みましょう」



 そう告げると藤助は救急箱から絆創膏を取り出し、ぺたりと彼女の患部へと貼り付ける。


 すっ……と、その指先から顔を上げ。



「痛みますか?」


「ううん、大丈夫。これくらい平気、平気。けど、失敗しちゃったなあ」



 時城は弱々しいながらもへらりと頬を綻ばせ、咄嗟に笑みを取り繕う。


 しかし、一方の藤助の表情は全く変わることなく。じっと、彼女のか細い指先を見つめており。その視線の先に気付いた時城は、ふうと軽く息を吐き出させ。



「変なの。指を切ったのは、私なのに。それなのに、藤助くんの方が痛そうな顔をしているなんて」


「いえ、そんなことは。ただ、済みませんでした」


「どうして謝るの? 藤助くんは何も悪くないじゃない。私が勝手に切っただけよ」


「しかし、俺が付いていたのに怪我させてしまって。それではなんの為にいるのか……」



「分かりません」と、紡ぐよりも先に。突然、ぐいと右の頬を思い切り横に引っ張られてしまい。代わりにそれは、判別不能な言語として吐き出された。


 頬を引っ張っていた手は直ぐに放されるが、若干残った痛みに藤助は思わず手を添え撫でていると、時城の顔がぐいと近付き。



「だから、これくらい平気だってば! 掠り傷の一つや二つ、端から覚悟していたわよ」


「あの。掠り傷ではなく、切り傷だと思うのですが……」


「もう、人の揚げ足を取らない!」



 今度は反対側の頬を引っ張り出す時城に、藤助は不自由な口をそれでも必死に動かし。どうにか謝罪の言葉を述べたことで、漸く解放してもらえ。



「ふむ、分かればよろしい。ほら、いつまで痛がっているの? 早く再開しましょう。……けど、その前に。

 一つ言って置くけど、藤助くんは私を守る為にいるんじゃないの、私に料理を教える為にいるのよ。だから、たとえ私が指を切ろうが火傷しようが、細かいことは気にしなくていいの」


「ですが……」


「なによ。今度は両方いっぺんに引っ張ってもらいたいの?」



 じとりと細めた瞳で狙いを定める時城に、続きは自然と呑み下され。藤助は、未だ薄らとだが赤みの残る頬を咄嗟に手でガードする。


 すっかり怯えている彼に、時城はそれでも容赦なく詰め寄り。



「あのね、私は残念ながら器用ではないから。あと何回かは、きっと指を切ると思うわ。さっきも言ったけど、それくらい覚悟しているの。苦労せずに上手くなれるなんて、ちっとも思っていないんだから。それに、ほら。失敗は成功の元って言うじゃない。この傷は、その為の代償みたいなものかもね。だから、これくらい平気よ。

 うん。絆創膏だって、まだまだたくさんあるし。それでも足りなければ、買い足せばいいだけなんだから」



 そう言うや、にっこりと笑って見せる時城に。



(あと何回……、)



 指を切るつもりなんだろうと、訊ねたかったものの。その先の光景を思わず想像してしまい、怖さ故に結局は訊けずじまいで。



(本当に、この人は……。)



 どこまで前向きなんだろう――と。……やる気が多少空回っているような気がするのは、目を瞑りながらも。


 やはり危なっかしい手付きで引き続ききゅうりを刻んでいく時城に、藤助はくすりとつい笑みを溢してしまうが……。


 目の前の敵と必死に戦っている彼女には、どうやらその音は届かなかったようである。

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