第033戦:はるばるきぬる 旅をしぞ思ふ

 問題の夜から一夜明け。牡丹は意気消沈と、ぐったりと机に突っ伏している。思い起こされるのは、昨夜の次男との遣り取りばかりだ。


 まさかその所為で、自分の二つ後ろの席に座っている同級生の身に危険が及んでいるなど。彼女本人が到底知ることはないだろうと、その事実がますます彼の良心を酷く痛める。



「おっす、牡丹。どうしたんだよ。朝っぱらから辛気臭いなあ。

 で、例の件はどうだったんだ?」



 登校するなり竹郎は牡丹の耳元に顔を近付け、ぼそぼそと訊ねる。それに対し、牡丹も意識的に……というよりは、鬱蒼とした心情からか。自然と潜めた声で会話する。



「それが、逆エビ固めは逃れられないかもしれない……」


「ってことは、やっぱりビンゴだったのか!」



 沈んでいる牡丹を余所に、竹郎は興奮からつい声を張り上げてしまい。慌てて開いてしまった口を手で押さえ込ませる。


 すると、その傍らからひょいと雨蓮が顔を出し。



「おい、牡丹。古典の教科書、貸してくれないか……って、どうしたんだ? そんなに落ち込んで」


「おお、雨蓮。丁度良い所に。昨日の件だが、どうやらビンゴだったみたいでさ」


「へえ、そうなのか。でも、どうして牡丹はそんなに魂が抜け切っているんだ?」


「いや、実は……」


「ふうん、成程ねえ。牡丹の所為で、反って梅吉先輩に火を付けちゃったのか」


「どうしよう! 俺の所為で神余がっ……!」


「あら。栞告がどうかしたの?」



 不意に介入した甲高い声に、牡丹は肩を大きく跳ね上がらせ。ぎこちなく首を横に回せば……。



「げっ、古河――!?

 い、いやっ、なんでもない、なんでもない……!」


「なによ、牡丹くんってば。まるで化け物でも見たような顔をして」


「化け物というより、どちらかと言えば鬼かな……」


「鬼って?」


「いや、だから、なんでもないってば。古河の聞き間違いじゃないか。あははっ……」

と、牡丹が必死の念で笑みを取り繕うや、明史蕗は首を傾げながらもゆっくりとその場を後にした。



「ふう、危なかったな。もう少しで古河にばれる所だったぞ。で、どうするんだよ?」


「どうするもこうするも、兄さんからの挑戦を受けるしかないだろう。でないと、俺は、俺はっ……!」



(もしも、このことが古河にばれたら。きっと間違いなく、逆エビ固めの刑だっ――!!?)



 そんな不穏な未来をつい想像してしまい、牡丹はぶるぶると震え出す。



「まあ、牡丹。落ち着けって。要するに、先輩が何者か当てさえすればいいんだろう?」


「そうなんだけど、俺の考える限りでは、“女好き”、“女たらし”、“女殺し”くらいしか思い付かなくてさ」


「牡丹……。お前、自分の兄に対して結構酷いな。でも、そんな単純な答えじゃないんだろう?」


「ああ、きっとな。でもさあ、兄さんが何者かなんて……」



 俺に分かる訳ないじゃないかと、竹郎の非難の声を素直に聞き入れるも。この調子では先が思いやられると、自身が強くそう思う。


 再び牡丹がぐったりと机に突っ伏していると、雨蓮が頭上から淡々と。



「あのさ。菖蒲なら知っているんじゃないか?」


「知っているって、何を?」


「だから、先輩のこと。牡丹より余程月日を共にしているんだ。それに、菖蒲は頭も良い。菖蒲に相談してみれば、答えが解からないまでも少しはヒントをもらえるかもしれないぞ」


「そっか。菖蒲か……」



 と、いう話の流れで。帰宅後、牡丹は菖蒲の部屋を訪れ、これまでの経緯を掻い摘んで説明する。



「成程。兄さんが“何者か”ですか?」


「そうなんだよ。突然、そんな問題を出されてさ。俺にはさっぱり解からなくて……」


「確かに兄さんなら言い出しそうですね。ちなみに僕はその答えを知っていますが……」


「えっ……。本当か!?」



(まさか、答えを知っていたとは――!)



 思わぬ好機な展開に、牡丹は思わず身を乗り出し。やや興奮状態でもう一度問い掛けると、菖蒲は小さく頷いて見せた。


 その予想以上の救いの言葉に、牡丹がぱあっ……と顔を晴らすも、しかし――。



「ですが、ゲームのプレイヤーに選ばれたのは僕ではなくあくまで牡丹くんであって、君自身が解くことに意味があります。そのまま答えを教えてしまったら、きっと兄さんのことです。あの人は鋭いので僕が教えたと直ぐに分かり、きっと契約違反になってしまうと思いますよ」



 さらりと後を続ける菖蒲に、輝かしい未来が拓けたと思った途端。呆気なくも崖下へと突き落とされ。



「そんなあ。せっかくの頼みの綱が……」


「と言う訳なので、兄さんのことは君に任せました。それと、これをどうぞ」


「なんだ、これ。小説? えっと、タイトルは『春を告ぐ人』……?」


「はい。その本が、今回の謎を解くヒントになると思います」



「頑張って下さい」と続ける菖蒲に、牡丹は生返事をし。こんな本一冊で、あの破天荒で何を考えているのか全く理解できない次男の素性が解かるものなのかと。


 そう思わずにはいられないものの、頼れるものは頼ろうと。鬱蒼と意識をそのままに、牡丹は半信半疑ながらも受け取った。






✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎






 そんなこんなで己の意志とは無関係に、本を読むこととなり。とにかく他に当てがない以上、牡丹がなけなしの時間を割いて読書に耽る一方。


 もう一人の相方はと言うと。いつもの日課とばかり、相変わらず図書室を訪れている。



「あの、神余さん」


「あっ、天正くん! 丁度良い所に。これ、借りていた本。読み終わったから返すわ。ありがとう」


「やはりそうでしたか。そろそろだろうと思って、持って来ました。どうそ、次の本です」


「わっ! 『それから』ね。ふふっ。読むの、楽しみだなあ」



 ここでいつもの流れとばかり。主に彼女の一方通行寄りではあるが、熱い語らいがなされるも……。


 ふと、菖蒲の顔に一種の影を感じ。



「天正くん? どうかしたの?」


「いえ、」



「なんでもありません」と、菖蒲は栞告の問い掛けに対し。かちゃりと眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げながら簡単に返す。


 しかし、そうは言うものの、やはり菖蒲はどこかしこりのあるような顔をしており。その面に栞告はきょとんと目を丸くするも、そのままその場を後にする彼を見送った。



(どうしたんだろう、天正くん。何か言いたそうだったけど……。)



 栞告の方にも蟠りが残るものの。手元に残った新しい本を前にするや、ふふっと頬を綻ばし。


 ぺらりとページを捲った刹那――。



「ふうん。栞告ちゃんって、菖蒲の前だとそんな顔するんだ」



 最早お約束の如く。いつの間にか背後には、梅吉の姿があり。窓辺で頬杖をついていた。


 思わず栞告は短い悲鳴を上げるが、梅吉はそれには構わず。窓のサッシに足を掛けて飛び越えると、ずかずかと中へと入って来た。



「せせせっ、先輩! あの、その、いつからそこに……」


「ううんと、『この小説は、やっぱり“ストレイシープ”という単語がとても印象的だったわ!』……辺りからかな」


「えっ、それって……」



 それってつまり、ほとんど聞かれているのでは……と。いつもの語り癖を見られてしまい、栞告は一瞬の内に頬を深紅に染めていく。



「あの、先輩。今日はどうしてここに……」


「特にこれといった用はないけど。俺が来たら迷惑?」


「いえ、そういう訳では……」



「ありません」と、紡がれるより前に。突然、梅吉は、「しーっ!」と声を潜め。



「ちょっと失礼」



 そう言うや器用にもひょいとカウンターを飛び越え。そのまま栞告の手を引っ張り、物陰へと隠れ込む。


 その突発的な行動に、栞告は訳が分からず。おろおろと一人動揺していると、ばたばたと忙しない足音が窓の外から鳴り響き。



「てーんーしょーうー! またしても、さぼりおってーっ!!」



「一体どこに逃げたんだーっ!」と、穂北の怒声がびんびんと窓ガラスを強く揺すり立てた。


 しかし、それも風の如く、あっという間に流れ去り。後には沈黙ばかりが漂い出す。



「ふーっ、行ったか。最近、一段と監視が厳しくなってきたな……」


「あの、先輩。大丈夫なんですか? 今叫んでいた人、この前、先輩を無理矢理引っ張って行った人ですよね? なんだか怒っていたみたいですが……」


「ああ。大丈夫、大丈夫。アイツはいつも怒っているようなもんだからさ。休憩時間くらい、自由にさせてもらいたいよ」



 梅吉は軽く肩を竦め。まるで他人事のように、くすくすと笑い出す。


 だが、一方の栞告は……。



「……あの、先輩」


「ん、なあに?」


「いえ、その。なんだか先輩、顔色が悪い気がして……」


「そうかなあ。……ああ。多分、ただの寝不足。

 いやあ、最近、徹夜でDVD観賞に耽っちゃってさ」


「大丈夫ですか? 保健室で少し休んだ方が……」



 良いのではと、おどおどとした様子で提案する栞告とは裏腹。当の本人は、至って平然としたままで。


 けれど、一瞬考え込むと。



「うん、そうだなあ」


「えっ……? あっ、あの、先輩っ……!??」


「へへっ、ちょっと休憩」



 そう言うや、こてんと栞告の左肩に頭を預けた。



「あああ、あの、寝るならちゃんと横になった方が……って、先輩……?」



 上手く呂律の回らない舌をどうにか動かし声を掛けるも、返って来るのは静かな寝息ばかりで。その整った呼吸に、栞告は、それ以上は口を噤み。


 ちらりと、自身の肩ですっかり眠りに就いている梅吉の顔を盗み見て。



(どうしよう。先輩、本当に寝ちゃったみたい。すごく気持ち良さそう。余程疲れていたのかな。肩が熱い。

 でも、今日はどうして来たんだろう。特に用はないって言っていたけど、だったらどうして? ううん、今日だけじゃない。あの日以来、ずっと……。

 そう言えば、映画を観ていた時の先輩の顔、すごく真剣で、だけど、どこか寂しそうで。なんだかこの寝顔と似ている。

 先輩にとって、私って一体なんだろう。先輩といると、なんだか懐かしい気分になるのはどうしてかな。前にどこかで会ったことがあるような……。でも、思い出せない。やっぱり私の気の所為かな。

 本当に、先輩って一体……。)



「よく分からない」と。その一言が、ぽつりと口先から零れ落ち。けれど、誰一人としてそれを拾い上げる者はいなかった。


 かちこちと時を刻む針の音ばかりが、無機質にも静かに響き渡り。栞告はもう一度、「ストレイシープ……」と。小さな音で繰り返すと、ちらりと朧な瞳を揺らした。






✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎






 日はとっぷりと暮れ、今は夜遅く。


 ここ天正家のとある部屋では、カリカリとシャープペンシルの芯の掠れる音ばかりが小さくも響き渡っている。


 けれど、不意にこんこんと。戸を叩く音が彼の意識を遮断させ。



「なあ、菖蒲。なんか本貸してくんない?」



 そう言って開かれた扉の隙間から姿を見せたのは梅吉で、彼はそのままずかずかと中へ入ると本棚の前で立ち止まる。



「本ですか? 別に構いませんが。兄さんが珍しいですね」



 菖蒲は彼を一瞥するも、直ぐに視線を下へと戻し。変わらぬ調子で筆を走らせる。


 一方の梅吉は棚の前で本を手にしてはぱらぱらと捲り、また棚に戻してと。同じ作業を何回も繰り返している。



「いやあ。昼寝をしたら、思いの外、寝過ぎちゃってさ。お陰で目が覚めちまってよー。

 できれば薄くて、字が少なめのがいいんだけどなあ」


「本を貸すのは構いませんが、一つ訊いてもいいですか?」


「んー、なんだよ?」


「兄さんは、一体どういうつもりなんですか?」


「どういうつもりって?」


「だから、神余さんのことですよ」



 わざわざ説明しなくとも分かっている癖にと、菖蒲は内側でひっそりとぼやいた。



「なんだ、気になるのか?」


「それは、まあ……。彼女は僕のご学友ですから」


「ふうん。それじゃあ菖蒲くんは、どう考えているのかな?」



 なんで質問した人間に、質問で返すんだと。兄の煮え切らない態度に、菖蒲はやはり心の内でぼやく。



「はっきりと申せば、どう考えているかというよりは、あまり彼女に接触しないで頂きたいといった所ですかね」


「ほう。それはどうして?」


「どうしてとは、それは兄さんが一番理解できているのではないですか?」



「興味本位でなら、早めに切り上げることをお薦めします」と。菖蒲は視線を机に向けたまま、静かに後を続ける。



「本来ならこういったことに、第三者の人間である僕が間に入るべきではないことは百も承知ですが。今回ばかりは口を挟ませて頂きます。それに、第三者の人間を先に巻き込んだのは、兄さんの方が先ですしね」


「あれ? なんだ、もう知っているのか。やっぱりホームズには、ワトソンなんだな」


「ワトソンって……。やはり僕が謎解きをした所で、意味はないんですね」


「まあな。これは俺と牡丹とのゲームだからな。端から答えを知っているなんて、反則だろう。けど、その判断は正しかったな。さすが菖蒲、聡明だ。もしもお前が口を滑らせでもしていたら、俺の口も滑っちまっていたかもしれないからな。

 ……っと、これにするか。それじゃあ、菖蒲。これ、借りていくぞ」



 漸く本を選び抜くと、梅吉はひらひらと。手の代わりに、持っていた本を軽く左右に振りながら室内から出て行った。


 一人部屋に残った菖蒲は、難しい顔をそのままに。乾いた息を吐き出させ。



「やはり、梅吉兄さんでは分が悪い。それにしても、『ジキル博士とハイド氏』か。ぴったりな物を選んでいったが、兄さんはあらすじを知っているのだろうか……」



 その真相は、果たしてどちらなのか。勿論、その答えを菖蒲が知る由もなく。


 額を押さえながらも再び机へと向かう彼はさて置き。一方、その頃の本人はといえば。本を掲げながら、ごろんとベッドの上で横たわっているものの。



「あー、駄目だ。全然頭に入って来ねえ。

 ううん、一番簡単そうな本を選んだつもりだったが、やっぱりアイツの部屋には俺の読めそうな本はないか……」



 はあと一つ深い息を吐き出すと、梅吉はぱたんと静かに本を閉じ。ひょいと軽く放り投げた。



「……なにを意地になっているんだか。らしくないって、そんなこと。俺が一番分かっているって……」



 その呟きは、どこに回収されることもなく。ちかちかと、天井から吊り下げられている円形の蛍光灯は不規則に点滅を繰り返し。


 梅吉はその頼りない光をじっと見つめていたが、それにも飽きたのか。一つ大きな欠伸をすると、静かに目蓋を閉じていった。

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