第031戦:ありとやここに 鶯の鳴く

 放課後の図書室は、いつもと変わらぬ静けさを湛え。窓からは薄らと沈みつつある日が差し込み、ただ穏やかな時間ばかりを刻んでいる。


 そんな中、カウンター内で本を読み耽っていた栞告であるが、そんな彼女の頭上に、急に薄らと影が掛かり。



「神余さん」


「あっ、天正くん」


「これ、約束していた本です」



 そう言うと菖蒲は鞄から一冊の本を取り出し、そのまま栞告へと手渡した。それを目にした瞬間、彼女の顔がぱっと晴れる。



「わあっ! 『三四郎』ね。本当にいつもありがとう」


「いえ、別に構いませんよ。あれ、その本は……」


「うん。百中若杜の『春を告ぐ人』よ。久し振りに読み返しているの。

 あっ。そう言えば、天正先輩……、えっと、梅吉先輩が、百中若杜と縁があるって言っていたんだけど……。もしかして、天正くんも知り合いだったりするの?」


「えっ、兄さんがですか……?」


「ええ。だから、もしかして天正くんもそうなのかなと思って」


「いえ、僕は……。兄さんは社交性が高くて顔も広いので、もしかしたら何かしらの所以で知り合ったのかもしれません」


「そっか。先輩ならそうかもね」



 確かにあの社交性の高さならあり得る話だと、栞告は簡単にも納得してしまう。



「それでは、僕はこれで」


「ええ。これ、本当にありがとう」



 軽く会釈をし、室内を後にする菖蒲を、栞告はひらひらと軽く手を振り見届ける。一人きりになった図書室で、栞告はぐるりと室内を見回し。



(それにしても……。先輩と菖蒲くん、それから牡丹くんって。全然タイプが違っていて、あまり兄弟には見えないな……。)



 なんだかおかしいと。栞告はふふっと頬を綻ばせ、笑みを溢すと同時。



「ねえ、栞告ちゃん」


「ふわあっ!」



 不意に後ろから声を掛けられ。栞告は思わず、びくんっと肩を大きく跳ね上がらせた。



「てっ……、天正先輩っ――!?

 あの、その、いつからそこに……」


「たった今、窓が開いていたからさ」



(なんで、どうして。だって、私と先輩は……。)



 もう繋がっていないのに――……と、一人別世界から帰って来られていない栞告を全く気に留めることもなく。「勝手に入って来ちゃった」と、梅吉は窓を指差しながらけろりと述べる。



「あのさ、栞告ちゃん。今度の日曜日、映画観に行かない?」


「えっ。映画ですか?」


「うん。『灰とダイヤモンド』って作品なんだけど、どうかな?」


「あっ……。私、知っています。映画は観たことありませんが、原作なら前に読んだことが……」


「あっ、やっぱり? 栞告ちゃんなら知ってるかなーって思ったんだけど。でも、まさか本当に知っていたとは……」


「でも、その作品って古いですよね? もう何十年も前に製作された……。

 リメイクでもされたんですか?」


「ううん、リバイバル上映だよ。どうかな?」


「えっと……」



(『灰とダイヤモンド』か。冒頭で引用されていた、ノルヴィトの詩が印象的だったな。ちょっと気になるかも……。

 でも、まさか先輩が好きなんて。なんだか意外。先輩なら、もっと派手なアクション映画が好きそうなのに……って、あれ。でも、これってもしかして……。)



「デートかな……?」

と、人々が行き交う駅前の広場で、栞告は淡い息と共に吐き出す。


 只今、待ち合わせ予定時間の十五分前。実は約束の時刻の三十分も前から既に到着しており、先程から何度も時計ばかりを見てしまっている。



(いや、でも、ただ一緒に映画を観るだけだし、デートとは違うような……。私達、第一そういう関係ではないし。

 それより、この恰好、変じゃないかな? やっぱり明史蕗ちゃんに相談した方が良かったかな。でも、明史蕗ちゃんに今日のことを話したら、絶対にまた心配して反対するだろうし……。

 ただ映画を観に行くだけなのに。)



「それだけなのに……」と口先で、そっと呟くも。やはり気掛かりなのは、自身の服装の方で……。彼女はその場で軽く右に左に身体を半回転させ、じろじろと何度も己の姿を遠目から見回す。


 そんなこんなで、気付けば時間は経過し。約束の十分前――……。


 漸くばたばたと忙しない足音と共に、お目当ての人物が姿を見せ。



「ごめん、栞告ちゃん。お待たせ!」


「い、いえっ。私も今来た所なので……」


「そっか、それなら良かった。

 あれ? へえ……。今日はいつもと違って、三つ編みじゃないんだ」


「はっ、はい、その……。変……じゃないですか……?」


「なんで? その髪型も、すっごく可愛いよ」



(うっ、可愛いって、そんなさらりと……。ううん、今のはお世辞だ、お世辞!)



 何を勘違いしているのと、栞告は自身にそう言い聞かせ。ぶんぶんと軽く首を左右に振る。けれど、右手は自然と、いつもとは異なり緩く解け巻かれた髪へと伸びてしまっている。


 そんな彼女を余所に、梅吉は行こうかと。栞告の反対側の手を取り、自身のそれと絡めさせる。


 彼女は、それに視線を落とし。



(先輩にとって、きっと手を繋ぐことは呼吸するのと変わらない行為で。ちっとも特別じゃないって。分かっているのに、分かってはいるけど……。)



 それでもやっぱり緊張すると。栞告は胸の高鳴りを押さえ込ませるよう、梅吉の手を軽く握り返す。


 どうしたらこの感覚に慣れるのだろうと、悩んでいる間にも。梅吉に引かれるよう、やって来たのは小さな劇場の前だ。中に入ると外観と同じくらい、目に飛び込む景色は年季が入っている。


 古寂びた様子に、栞告がきょろきょろと一人見回している中。梅吉はカウンターへと寄って行く。



「おい、じいさん。『灰とダイヤモンド』、学生二枚ね」


「ん……? おっ、なんだ。梅吉じゃないか。お前さんなら来ると思っておったよ。

 それにしても、珍しいな。お前さんに連れがいるなんて」


「へへっ、まあな」


「ほう……。なかなか可愛いじゃないか」


「おい、おい。いい年をしたおっさんが、そんな目で見るなよ」


「なにをっ!? 儂だって、あと十年若ければなあっ……!」


「そうか? あまり変わらない気がするけどなあ。

 それより、大丈夫なのかよ? ここ、もう直ぐ潰れるんじゃないかって。専らの噂になっているぞ」


「なあに。そんな噂、もう何年も前から出ているわ。今に限った話じゃねえよ。

 こんな商売、年寄りの道楽だ。でなきゃ、とっくの昔に潰れているさ」


「ははっ。そりゃあ、そうだな」



 そう声を合わせると、二人はけらけらと笑い出す。


 世間話も終えチケットを受け取ると、梅吉の案内に従い栞告は劇場の中へと入って行くが。まるで貸切り状態だと薄暗い中、ぱちぱちと瞬きをしながら周囲を見渡す。


 ロビーの閑散とした具合からして既に予想はできていたものの、劇場内も、案の定がらがらで。人影はちらほら、直ぐにも数え終わってしまう。



「栞告ちゃん、どこに座る? ここ、自由席だから」


「えっと、私はどこでも……」


「それじゃあ、せっかくだし。真ん中に座ろっか」



 そう言うと梅吉は、栞告の手を引き狭い通路の中を進んで行く。そのまま中心まで達し腰を下ろすも、決して手が離されることはなく。繋がれたまま、静かに二人の席の真ん中に位置する肘掛けへと置かれる。



「あのさ、栞告ちゃん。俺、この映画観るの、すっごく楽しみでさ。だから、今日は付き合ってくれてありがとう」


「えっ……。いえ、その……。私の方こそ、誘って頂いて……」



「ありがとうございます」と、返すと同時。場内中に、開演を告げるブザー音が鳴り響いた。


 その音に合わせ、室内は徐々に暗さを増していき。薄らと笑みを携えていた梅吉の顔が、ぼんやりと朧気になっていく。






 暗転。






「あーっ、良かったー。俺、この映画が好きでDVDを持っているからよく観るんだけど、やっぱり映画館の方が良いな。

 この前、プロジェクターを買ったというか、もらったというか……。とにかく家にあってさ。あれもいいんだけど、所詮本物には敵わないというか……。うん、やっぱり映画館の方が何倍も画面が大きくて、音声も迫力があるし。臨場感が違うんだよな。

 でも、退屈じゃなかった?」


「いえ、とても良かったです。原作とは違って、マチェクに焦点が当てられていて……。それに、映画はあまり観ないので新鮮でしたし」


「そっか、それなら良かった。この手の作品は、なかなか知っている子がいなくてさ。一人で観るのもいいけど、どうせなら観終わった後に語り合いたいからさー」


「あっ……、分かります。私もその、読んだ本について話をするのが好きなので。自分とは違う意見を聞けて刺激をもらったり、共感できた時は嬉しかったり……」


「ねえ、どこかでゆっくりお茶でもしながら話そうよ」



 そう言うと、梅吉はいつもの調子で栞告の手を取り。丁度、瞳に映った近場のカフェへと入って行く。


 こうして、カフェで時間を過ごした後。やはり梅吉のペースに振り回されるような形で、栞告は彼の後を付いて行くが、しかし。不意に、ずきんっ――! と彼女の左足の、踵の辺りに痛むが迸る。



(いたっ……。あれ、もしかして靴擦れ……!? 普段こういう靴を履かないから……。)



 靴選びに失敗したと、後悔するも時既に遅く。一度痛みを覚えてしまうと、なかなか忘れられないもので……。


 それでも栞告は、薄らとだが自然と歪んでしまう顔をどうにか取り繕い。気にしないよう努めていると、梅吉が急に足を止め。



「ねえ、栞告ちゃん。ちょっと公園で休まない?」


「えっ? は、はい……」



 彼の提案に、丁度良かったと。栞告は内心、ほっと一息吐きながら通り掛かった公園へと入って行く。



「俺、何か飲み物を買って来るよ。栞告ちゃんは何が良い?」


「それなら、私も一緒に……」


「いいよ、俺一人で。直ぐ戻って来るから。栞告ちゃんはベンチに座って休んでて」


「そうですか? えっと、それではミルクティーをお願いします」


「了解。ミルクティーね」



 そう返すと梅吉は栞告を残し、一人小走りで駆けて行く。


 数十分後――……。



(先輩、遅いな。自販機見つからないのかな……。)



 どうしたのかと不安を抱き。時計を眺めたのと入れ違いで、漸く梅吉が戻って来た。しかし、何故か彼は、コンビニのロゴの入ったビニル袋を手に持っており。わざわざコンビニまで買いに行ったのだろうかと首を傾げさせる栞告を余所に、「ちょっと失礼」と。彼はその場にしゃがみ込むと栞告の左足へと視線を落とし、徐に、そのまま彼女の足首を掴んだ。



「ふえっ!? あっ、あの、せ、せせせ、先輩!? あああ、あの、その……!??」


「あー、やっぱり靴擦れか……。絆創膏を買って来たけど、貼っておく?」


「えっ……、どうして……?」


「んー。いや、だって。さっきから左足ばかり気にしていたから。

 栞告ちゃん、俺と違って嘘吐くの下手だから直ぐに分かるよ」



 梅吉は、にっと白い歯を覗かせ。がさごそと袋の中から絆創膏を取り出す。血の滲んでいる箇所へとぺたりと貼り。



「よし、これで取り敢えず応急処置はオッケー。それじゃあ、栞告ちゃん。おんぶと抱っこ、どっちがいい?」


「えっ……?」


「だから、おんぶと抱っこ。栞告ちゃんはどっちがいい?」



「好きな方を選んでいいよ」と。梅吉は、にこにこと微笑みながら詰め寄るよう後を続ける。


 呆気に取られ、栞告はぽかんとしていたが。



(えっと……、それってつまり……。それって、つまりはその……!)



 一拍の間を置き。梅吉の質問の意図が理解できるなり、彼女は瞬時に顔を真っ赤に染め。



「あああっ、あの! これくらい平気ですっ!」



 大袈裟にも、ぶんぶんと大きく手と首の両方を振った。


 けれど。



「だーめ。栞告ちゃんには、さっきの二つの選択肢しかないから」


「そっ、そんな……」


「さあ」



「どっちにする?」と梅吉は、相変わらず意地悪い笑みを浮かべて尋ねる。



(どうしよう、どうしよう。でも、どちらかを選ぶしかないんだよね……?)



 栞告は、ちらりと梅吉の顔を眺め。



(おんぶなら、顔、見られないよね……。)



「あ、あの……。そしたら、おんぶで……」



「お願いします」と、言い切るより前に。



「了解しました、お姫様」


「えっ……、ふわあっ!?」



 刹那、ふわりと地面から足が離れ。栞告の身体が持ち上がる。ぶらぶらと足は宙を漂い、頼りなく。その心細さに、自然と梅吉の肩を掴む手には不必要な力が込められる。



「あ……、あの、先輩。えっと、そのっ……、本当に済みません。重いですよね……?」


「全然。軽い、軽い!」



 梅吉は得意気に、その場で一回跳ねてみせる。すると、ふわりと身体が浮き上がり。その震動に、栞告の口からは思わず短い悲鳴が上がる。


 そんな彼女の様子に、梅吉はくすくすと小さく笑い出し。



(もう、先輩ってば。私のこと、からかってばかりだ。

 ……先輩の背中、大きいな。そう言えば、『灰とダイヤモンド』のマチェクとクリスティーナって、出会ってからたった一日だけの恋なんだよね。なんて短いんだろう。『別れは辛いし、後に残るだけの思い出も辛い。思い出だけなら切ない』……だっけ。

 思い出、か……。うん、私にとっては、今日と言う日はこんなにも特別で。だけど、先輩にとっては、きっとありふれた日常の一コマに過ぎなくて。今は、こんなに近くにいるのに……。)



 なんだか遠い――、と。行き場のない思いをそのままに。栞告はされるがまま、梅吉の背に負われ続ける。


 初めて目にするような親しみ慣れた景色は、どこか遠く。そっと吹き上がった一筋の風が、彼女の紅潮とした頬を慰めんばかりに優しく撫でた。

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