第002戦:世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る
『ねえ、知ってる? ほら、大塚さんち』
『えっ。なに、なに? なんの話?』
『それが大塚さんの奥さん、旦那さんに逃げられちゃったんですって』
『えっ、そうだったの? 私はてっきり、事故か病気で亡くなったものかとばかり……』
『それが違うのよ。可哀想に、まだ小さい子供もいるのにねえ』
うるさい、うるさい。ああ、うるさい。
みんな、勝手なことばかり言いやがって……。
『おい。お前んち、父親がいないんだろう?』
『知ってるぞ。お前の父ちゃんは、浮気して家を出て行ったって』
『やーい。お前の父親、浮気者ー!』
雑音、雑音。全てが雑音だ。
どうして俺達が、こんな惨めな思いをしなければならないんだ。これも、全てはアイツの所為だ。
ああ、そうだ。
だから俺は、絶対にアイツを……!
「……いちゃん、牡丹お兄ちゃんってば! 朝だ、起きろー!!」
「ぐえっ――!??」
黒の夢から一変、一瞬で視界が切り替わる。
無防備な腹に、突然の激痛。牡丹が目蓋を開かせると、腹の上には小さな塊が乗っていた。
「牡丹お兄ちゃん。朝だよ、おはよう」
「ああ、おはよう……」
寝惚け眼を擦りながら牡丹が上半身を起こし上げると、目の前には、にこりと屈託のない笑顔を浮かべさせた芒が。彼の腹の上で、のそのそと軽く揺れている。
(子供の無邪気さって、おそろしい……。)
悪気など一抹も感じていないであろう芒に、牡丹は心の内でぼそりと呟く。
「さてと。次は、桜文お兄ちゃんの所だ」
芒はぴょんと牡丹の腹の上から飛び降りると、とことこと小さな手足を動かし部屋から出て行く。
その後ろ姿を見つめながら、朝っぱらから元気なものだと。子供って、本当に羨ましいと。牡丹の口から一つ自然と息が吐き出される。
(それにしても、だ。それにしても、ここの人達はみんな……。)
牡丹はぽりぽりと頭を掻きながらもさっと身支度を整えると、ゆっくりと階段を下りて行く。
リビングに入ると、エプロン姿の藤助がくるりと振り向き。
「おはよう」
と、牡丹に向かって声を掛けた。
「昨日はよく眠れた?」
「はい、まあ……」
藤助はにこりと微笑を浮かべさせると、「たくさん食べなよ」と、牡丹の前に朝食を並べていく。
天正家・四男、藤助――。天正家の家事一式を取り仕切り、また、財政の管理なども行っているらしい。つまりは、天正家の財布は彼が握っているも同然だ。
正直に言えば、彼の作るご飯は自分の母親の物よりも美味しい……。
ずずう……と温かな味噌汁を啜りながらしみじみとそう感じていると、バンッ! と鈍い音が室内へと轟き。
「おい、どうしてもっと早く起こしてくれなかったんだよっ!」
扉の方を振り向けば、きゃあきゃあと声を上げている芒を脇に抱えた梅吉の姿が。彼はぽーんと芒を放り投げると、バタバタと室内を慌ただしく駆け巡る。
天正家・次男、梅吉――。
「ええと、鞄、鞄! それと、ジャージも。ああっ、もう! 鞄どこにいった!?」
「もう。ほら、鞄。俺は何度も起こしたよ。それなのに梅吉が、『あと五分……』って、なかなか起きなかったんだろう? お弁当と、それからこれも。お握りを結ったから、隙を見て食べなよ」
「……っと。ああ、藤助。いつも悪いな」
梅吉は弁当の入った袋を受け取ると、飛び出すよう家から出て行った。
まるで嵐が過ぎ去った後みたいに、室内はすっかり静まり返り。牡丹は半ば呆気に取られながらもそれを遠目から見送る。
「梅吉さん、随分と早く家を出るんですね」
「なに、アイツは朝練だよ。あれでも一応、弓道部のエースだ。信じられんだろうがな」
「へえ。そうなんですか」
「全く。それにしても、朝っぱらから騒々しい……」
開けた額から覗かせている尖った眉と同じくらい、ぎろりと瞳を鋭かせ。道松はぼやきながらも淹れ立てのコーヒーを口にする。
天正家・長男、道松――。普段は口数が少なくクールな態度を取っているが、次男の梅吉とは折り合いが悪いのか、ことある毎に喧嘩が絶えない。最早、彼等の争いは日常茶飯事だ。
道松は後ろに撫で上げられた髪を怒り任せに、更にがっと手で掻き上げる。
「ふわあ……、おはよう」
大きな欠伸をしながら桜文は、巨体を揺らし。のたのたと、自分の席へと着く。ちらりと牡丹と目が合うと目尻を下げ、「おはよう」と、もう一度口にする。
天正家・三男、桜文――。身長は二メートル近くもあり、天正家一、いや、一般の男子高校生の中でも一際高く、また、がっしりとした体付きをしている。けれど、その見た目とは裏腹、おおらかな性格の持ち主のようだ。
「おはようございます」
そう堅苦しい挨拶と共に入って来たのは、天正家・五男、菖蒲――。彼は人差し指で、ぐいと銀縁眼鏡を押し上げる。レンズの向こう側には、凛とした瞳が宿っている。
彼は席に着くと、「いただきます」と。静かに両手を合わせさせた。
「牡丹。ご飯のお代わりいる? ……っと、おはよう、菊」
「……おはよう」
そして、最後にリビングに入って来たのは、天正家・長女、菊――。
腰の半分くらいまで伸びた栗色の髪に、大きな瞳。長い睫毛はくるんと天を向き、ぷっくらとした深紅の唇は、肌の白さをより惹き立たせ。すらりと伸びたか細い手足は、儚げな雰囲気を醸し出している。
けれど。
「……なんで変態が私の席の前なのよ」
「こら、菊! “変態”じゃなくて、“牡丹お兄ちゃん”だろう?」
藤助の叱責に、しかし。菊はぷいとそっぽを向く。
そんな彼女の態度に、牡丹は眉間に皺を寄せさせ。
(この女、まだ初日のことを恨んでいるのか……!?)
どれだけしつこいんだと、ぎゅっと箸を強く握り締める。
「もう。二人とも、仲良くしなよ。兄妹なんだからさ」
「嫌よ。誰がこんな変態なんかと」
「誰が変態だ!? だから、あれは事故だって何遍も言っているだろう!」
牡丹は弁解を述べるも、変わらずに顔を曲げさせている菊には一切届かず。彼女はぱくぱくと、無言のまま食事を続ける。
そんな二人の様子に、藤助は諦めの表情を浮かばせる。
「藤助お兄ちゃん。僕、もう行くね」
「うん、いってらっしゃい。忘れ物はない?」
「大丈夫。それじゃあ、いってきまーす!」
芒は元気良く声を上げながら、ぴょこぴょこと軽い足取りでリビングから出て行く。
天正家・七男、芒――。天正家唯一の小学生で、年相応の活気さに愛くるしい笑みを携えている。朝、兄弟達の部屋を訪れ起こしに回っているが、それが彼の役目だそうだ。
そして、先程からむすっと顔を歪めながら口に箸を運んでいるのが、新入りの天正家・六男、牡丹――。
彼が天正家の六男として迎えられてから数日が経過するものの、本人は未だ夢心地のまま、ここでの生活を送っている。
「はい、牡丹。ご飯。そう言えば、牡丹は今日から学校なんだよね?」
「そうなのか? お前、いつの間に編入試験なんて受けたんだよ」
じとりと道松に見つめられ。本人にその気はないのだろうが、牡丹はなんだか責められているような気分になり。思わずうっと詰まらせてしまう。
「そ、それは……。俺にも色々と事情があるんです」
「ふうん、事情ねえ……」
「まあ、まあ。別にいいじゃないか。新しい家に新しい学校と、なにかと不安があるとは思うけど、何かあったら俺達に言いなよ。俺と道松は三年二組で、梅吉と桜文は三組だからさ。菖蒲は隣のクラスなんだっけ? ちなみに、菊は一年五組だよ」
「みなさん、同じ学校なんですよね」
「うん。南総高校は家から近いし、伝統も多い学校だからね。校風も自由をモットーにしていて、生徒の自主性を尊重しているんだよ」
「へえ、そうなんですか」
「『そうなんですか』って、学校案内を読んでいないのか? ちゃんと書いてあっただろうに。お前、電化製品の説明書なんかも、最後まで読まないタイプだろう?」
「うっ……。別にいいじゃないですか。大体の使い方さえ分かれば」
「道松ってば、相変わらず細かいんだから。……っと、いけない、いけない。もうこんな時間か。ほら、みんな。そろそろ家を出ないと」
カンカンと、フライ返しでフライパンを叩き。急かす藤助に促されるよう、牡丹は残りの物を掻き込ませ。椅子から立ち上がると、ぞろぞろと部屋から出て行く兄達に続き。鞄を片手に、家を後にした。
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