第13話 トラ猫、ヤスジロウの一生 EPI 12


「じゃあ、そういうことだから、ちょっと行ってみようか」

 隣に座ったマルタが言った。

 それはなんだか春の陽気に誘われたような気安い言葉だったから、吾輩は耳を横に伏せて訝しげに彼を見つめた。

「あれ。信じてないね」

「信じられるか」

 なにがそういうことだから、だ。

 呆れて顔を背ける。

「キミ、やっぱり頭固いね」

 聞き捨てならないので、もう一度見返した。

「あのな。普通、信じないだろ。そんな、他人の夢に入り込むとか」

「ただの夢じゃないよ」

「じゃあ、なんだよ」

 その問いにマルタは青い瞳をキラリと輝かせた。

「あれはね、走馬灯っていうのさ」


 入院室に駆けつけるとヤスジロウはすでに昏睡状態だった。

 貧血のせいかサチュレーション(酸素飽和度)は下がり、人間たちが体を触ってもうつろな眼を少し開いたまま、頭を持ち上げようともしない。

 その状態を確認したタカトシがうつむいて呟く。

「おそらくって数時間だろう」

 

 窓枠に腰を下ろした吾輩はその言葉に茫然としながらガラスに目を向けた。

 そこにはICUを覗き込む三人の頭と向かい合った自分が映っている。

 するといつもなら自賛するはずのその毛並みがやけにみすぼらしく見えた。

 

 悩んでいる場合じゃなかった。

 もっと早く伝えることだってできたのに。

 けれど、これで良かったんじゃないか。

 別に伝える必要なんて最初からなかったんだ。

 だけど、自分のためだったんだろ。

 そうだ。自己満足のためだ。だからどうだっていい。

 ヤスジロウの話はどうなる。

 今夜、話を聞くと約束したのに。

 しょうがないだろう。こうなってしまってはもうどうしようもない。


 そんな台詞が人工衛星みたいに頭の中をグルグル周回する。

 そしてガラスに映るくたびれた黒猫が吾輩を見つめて嘲笑っているように思えた。


「ホント、早く言えばよかったのに」

 

 頷きかけて、しかし踏みとどまった。

 待てよ。心の声にしてはずいぶんと軽々しい。

 視線を向けると真横にマルタが座っていた。

 吾輩は目を丸くして、けれどすぐに顔をしかめる。

「いつからここにいた」

「キミが来るずっと前からさ。気付かなかった?」

「気付かなかった」

「まあ無理もないか。ずいぶん動転していたみたいだったし」

 マルタは相変わらず涼しい顔で図星を突いてくる。

 けれどいまさら取り繕っても仕方がない。

 吾輩はため息とともに肩の力を抜いた。

 するとマルタはその吾輩を見てフッと笑う。

「なんだよ」

うらやましいよ」

「なにが」

「キミたちがさ」

 吾輩が訝しげに見つめるとマルタはいつになく真顔になった。

 そしておもむろにICUケージへと目を向ける。

「僕ね。ここに来てからずっとヤスジロウくんの話を聞いてたんだ」

「え、ヤスが……おまえに……」

 驚いて吾輩もヤスジロウへと視線を移した。

 ケージの傍らでタカトシがアンプルから注射器へとなにかの薬剤を吸い上げている。そして背中を向けたままなにか二言、三言、指示をするとセリが足早に入院室から出て行き、ナズナは救急セットからまた別のアンプルを取り出した。

 けれどその懸命な処置にもかかわらず、ヤスジロウには特に変化はなさそうだ。

 敷かれたタオルの上にただぐったりと横たわり、浅く速い呼吸を繰り返している。

 信じられない。

 この状態のヤスジロウがマルタになにかを語るなんて。

 その懐疑的な眼差しをマルタに向けると、彼は緩々ゆるゆると首を振った。

「違うんだ。ヤスジロウくんはキミに話をしてたのさ。とはいっても夢の中で、だけどね」

「夢?」

「そう。彼はいま深い夢の途中にいる。あれはどこだろうね。大きな屋根の上さ。時折、子供たちの声が聞こえて。いまにも降ってきそうな曇り空で。そこで彼は並んで座ったキミに身の上話を語ってた」

 一瞬、胸のあたりがギュッと絞られたように感じた。

 そうか、ヤスジロウは吾輩にその話を……。

 でも、もう聞いてやれない……。

 切なさが満ち、ヒゲが惨めに萎れそうになるのをこらえて、吾輩はわざと憎まれ口を叩いてみる。

「まあ、この世の者でもないおまえがなにをしでかそうといまさら驚くには当たらない。けどな、これだけは言わせろ。他人の夢を覗き見て楽しむとは悪趣味にも程がある」

 その詰問にマルタは首を傾げた。

「うん、そうだね。悪趣味かどうかは別にして、これがキミの夢だったら案外楽しいかもしれないね」

「あのな、吾輩は楽しむなって言ってるんだ。ドゥユーアンダスタン?」

 吾輩が剣呑な目つきで詰め寄るとマルタは少しばかり肩を竦めた。

「まあ、そういう意見の相違は置いておくとして。でも残念ながら、僕がいるのはどうやらそういうお気楽な場所じゃないらしいんだ」

「場所?」

 問い返すとマルタはひとつ息を吐き、それからおもむろに宙に目線を浮かべた。

「ねえ、ブラックホールのことは知ってるかな」

 ブラックホール?

 思わぬ話の展開に呆気に取られたが、吾輩は辛うじてうなずく。

「じゃあ、イベントホライズンは。和訳では

 なんだそれは。

 とりあえず大いなる否定の意味を込めて尻尾を横に振った。

 するとマルタは頷いてから言葉を継いだ。

「ブラックホールが海だとするとイベントホライズンはその波打ち際ってところかな。知っての通りブラックホールは光さえ飲み込んでしまうけれど、その波打ち際ならなんとか抜け出してこられるかもしれない。そういう場所のことだよ。知らない?」

 難解なたとえ話に吾輩は思わず耳を掻いた。

「知るわけないだろう。そもそも猫にとって宇宙はまず無縁だ」

「そうかな」

「そうだよ。で、そのイベントなんとかがどうかしたのか」

「うん。じつは僕、どうやらそこにいるみたいなんだ」

「はあ?」

 意味不明。我ながら妙な声が出てしまった。

「もちろんブラックホールじゃないよ。僕がいる場所は死者と生者のイベントホライズンさ」

 そう言って胸を張るマルタに吾輩は耳を伏せて答える。

「悪い。ちょっと理解できない。それとも吾輩の頭がおかしくなったのかな」

「心配しなくていい。もともとキミの理解力なんてたいして期待できるもんじゃない」

 真顔のままそう断言したマルタに吾輩は無言で右フックを繰り出した。

 けれど当然ながら、実体型猫パンチは霊体マルタに当たるはずもなくあえなく空振りをする。

「あのね。そんなことしてる場合じゃないと思うよ」

「いいや。まずはおまえをとっちめてから……」

 鼻息を荒くした吾輩にマルタはふたたび肩を竦めて見せた。

 そして青く大きな瞳を細めて言う。

「いいのかな。ヤスジロウくん、もう少しで越えてしまうよ」

「越える?なにを」

「だからイベントホライズンさ。死者と生者を分ける地平線。そこを越えたらもう二度と戻れない」

「つまり……」

「そう、彼はもうすぐ死者の世界に足を踏み入れる」

 あらためて突き付けられた事実に吾輩は少なからず動揺した。

 でも、だからといっていまさら自分になにができるというのだ。

 そう開き直る自分が居て、けれどなにかをしないと居た堪れないと焦る自分もいる。

 ちょうどそこにセリが早足で戻ってきた。

「先生、やっぱり長谷川さん、出張先から戻ってこられないそうです。申し訳ないけどヤスジロウくんを看取って欲しいって」

 予想通りの展開だった。

 ヤスジロウはこのまま家族の誰にも看取られることなく、この狭いケージの中で死んでいくのだ。

 暗澹たる気持ちというのはこういうことだろうか。

 けれどそれでも、もう自分にできることなどなにもない。

 その事実に吾輩はひとつ大きなため息をついて、それからほとんど無意識に呟いた。

「ヤスの身の上話、聞いてやりたかったな」

 そうやって素直に本心を吐き出してみると、なにか少しだけ心が軽くなる気がした。

 けれど同時に頭の中で誰かが陰口を叩く。

 なんだよ、やっぱり自己満足が欲しかっただけじゃないか。

 その自己嫌悪に肩を落としかけたとき、マルタが言う。

「いいんじゃない。自己満足」

 妖怪め。吾輩の心まで読めるのか。

 舌打ちをするとマルタはいつもの涼しい顔で笑った。

「今だけさ。普段はできないから安心していい」

「はあ、どういう意味だよ」

「まあ、理屈はよく分からないけど、今はキミの心が見えるんだ。ヤスジロウくんの魂に寄り添おうとするキミの心がね」

 おまえね、マジでキモいよ。

 思わず背筋の毛が逆立てた吾輩をマルタが横目で睨む。

「ふうん、なるほどね。僕はキモいんだ。へえ、そうなんだ」

 ハッとして取り繕う。

「言ってないだろ。思ったけど」

「いいよ、別に。ただし罰としてちょっと付き合ってもらうよ」

「罰?どこへ?」

 吾輩は思わず生唾を飲んだ。

 こいつは妖怪だ。なにかとんでもない仕打ちをするに違いない。

「そんなに身構えないでよ。妖怪にも多少の分別はあるんだから」

 マルタがヒゲをピンと張って、ニヤリと笑う。

「分かった。謝る。許せ」

 吾輩はそのとき初めて恐怖に全身の毛が逆立つという感覚を味わった。

「もう、そんな怖がらないでよ。ちょっと地平線まで行って帰ってくる。ただそれだけさ」

 え、地平線?それってまさか……。

 吾輩はあわててブラックホールとイベントなんとかの話を頭の中で反芻する。

 するとマルタは人間が人差し指を立てるように尻尾の先をピンと立てた。

「そうさ。そこに行けばキミにもまだできることがあるかもしれないだろ」

 



 

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誰がために猫は鳴く 那智 風太郎 @edage1999

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