第12話 トラ猫、ヤスジロウの一生 EPI 11


 その頃からお袋さんと親父さんの間にも亀裂ができ始めた。


 夕飯も作らずにテレビばかり見ているお袋さんに親父さんは文句を言った。

 それはときに怒鳴りあいのいさかいになり、ときに二人してすすり泣き、そういう陰湿な夜が増えた。

 そしてオレはまた外に出るようになった。

 泥や葉っぱを付けて帰ってくるとお袋さんはグチグチと文句を言った。

 そばに寄り添おうとすると、手で追い払われた。

 オレはもうどうしていいか分からなかった。

 だから朝になるといつの間にか入れられているキャットフードを平らげて外に出るのが日課になった。

 気分はいつもムシャクシャしていて、腹いせによく乾物工場の裏手で他の猫に喧嘩を吹っかけた。

 見るからに飯にありつけそうにない貧弱そうな猫を見つけると、思い切り毛を逆立てて威嚇してやるんだ。

 するとほとんどの奴は恨めしそうな顔をして逃げ出していく。

 そして尻尾を下げたその後ろ姿を見ると少しだけ気分が晴れる気がした。


 それからしばらくしてオレは初めて返り討ちに遭った。

 逃げ出した猫が後でその兄貴分を連れてきたんだ。

 そいつはとんでもなくデカい体格をした奴で、どすの利いた声で「俺の舎弟に手を出したのはお前か」と聞いた。

 「そうだ」と答えるといきなり襲ってきた。

 避けようとしたが図体の割に素早くてオレは喉元を噛みつかれた。

 必死に抵抗したが、勝負にならなかった。

 抑え込まれて身動きの取れないまま、身体中のあちこちに奴の牙が食い込んだ。

 ようやく解放されて、そいつと舎弟どもの嘲笑を尻目に一目散に逃げた。

 ボロボロにやられて、泥だらけ、傷だらけでオレは途方に暮れた。

 こんな姿で家に帰ったら、お袋さんはなんて言うだろう。

 きっとコテンパンに叱られて、もうこんな猫はいらない。

 金輪際帰ってこなくていいと言い渡されるはずだった。

 オレは怪我の痛みなんかよりそっちが心配だった。

 だってそうだろう。

 もうすでにオレはお袋さんにとって姿になってたんだからな。

 でもオレは家に帰りたかったんだ。

 でもオレは家に帰れなかったんだ。

 だからその日の夕暮れ時、オレは仕方なく近所の家の軒下に潜り込んだ。

 傷口がズキズキと痛んだ。

 腹が減ってひもじかった。

 喉がカラカラだった。

 やがてゆっくりと闇が訪れて、辺りをすっかり夜に変えた。

 オレは軒下で風の音を聞いていた。

 もうすぐ冬になる。

 そんな季節だった。

 どこかの家から焼き魚の煙が漂ってきた。

 腹が鳴り、オレはどうしようもなく惨めになった。

 さらにそのうちに雨が降り始めた。

 雨音はどんどん強くなり、気温が一気に下がった。

 雨水は地面を伝い、やがてそこら中を水浸しにしてしまった。

 オレはそのぬかるんでいく地面にジッと伏せていた。

 もうオレの中のどこにも、どこかに場所を代える気力も体力も残っていなかった。

 それに心の隅の方で思ってたんだ。

 このままの方がいいってね。

 このままここで死ねばいいんじゃないかとね。

 そうすればお袋さんの気持ちに添うことができるってね。

 だから徐々に体温が失われていく感覚に妙に胸が弾んだ。

 そして天国っていうところが本当にあるのかどうか、少し考えた。

 あの匂いも重さも感じない死というもののその先に、本当に人間たちのいうように天国なんてものがあるのかってね。

 きっとないだろう。

 けれど、あるとすればそこに優が生きている。

 ならオレはまた優に会えるのかもしれない。

 会えたらまたネズミゲームができるかもしれない。

 優は、優だけはきっとオレを必要としてくれる。

 そう考えるととても幸せな気分になった。

 たぶん相当に朦朧もうろうとしていたんだろうな。

 薄っぺらになった意識の中でオレは、とりとめもなくそんなことを考えていた気がする。

 それからどれくらいの時間が経っただろうな。

 きっともう真夜中になっていたと思う。

 オレはぬかるみの中で静かに死を待っていた。

 すると遠くの方で不意に誰かがオレの名前を呼ぶ声が聞こえた。

 なるほど、ご丁寧に死の向こう側にいる誰かが自分を呼び寄せているんだとオレは思った。

 オレは少しためらいはしたものの、すぐに返事をした。

「ここにいるよ。死神さん、早いところオレを連れてってくれ」

 そう答えたが、オレを呼ぶ声はその後も続いた。

 けれどそのうちに気がついたんだ。

 声は二つあり、それはずいぶん聞き覚えのある声じゃないかってな。

 そうなんだ。

 それはお袋さんと親父さんの声だったんだ。

 そのときオレは意識の片隅で正直なところ混乱した。

 死神でなく、なぜ二人がオレを探しているのか、その意味が分からなかった。

 オレなんかもう居ない方がいいんじゃないか。

 ねていたわけじゃなく、本当にそう思ってたから。

 でも結局、オレは最後の力を振り絞って、足を引きずりながらもぬかるみから這い出た。

 自分でもどうしてそうしたのか、どこにそんな力が残されていたのか分からない。

 そのあたりの記憶はほとんどないんだ。

 憶えているのは暖かい湯に浸けられて傷口が沁みたことと、お袋さんの胸に抱かれて何度も「ゴメンね」を聞いたことぐらいさ。

 不思議だった。

 どうして彼女がオレに謝ってるんだろうってね。

 謝るのは自分の方なのにってね。

 それでもオレにとってそれは最良の時間だった。

 傷はまだ痛んだし、身体中が痺れていてまともに動いたりはできなかったけれど、お袋さんに抱かれてオレは満足だった。

 お袋さんが目を腫らしてゴメンねを繰り返し、親父さんがその肩口からのっそりとオレの顔を覗き込む。

 それはまるでデジャビュだった。

 乳飲み子だった頃の記憶と重なって、もしかすると本当はそれまでがまるっきり夢で、ここからまた実際のときが始まるのかもしれないなんて都合のいいことをぼんやりと思った。

 そしてオレはそのまま眠りに落ち、朝まで目覚めることはなかった。

 猫なのに可笑しな話さ。

 だから次の日の朝、お袋さんが家から出て行ったことをオレは知らなかった。

 

 で、それ以来、オレは彼女の顔を見ていない。


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誰がために猫は鳴く 那智 風太郎 @edage1999

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