第11話 トラ猫、ヤスジロウの一生 EPI 10



 屋根に打ち付ける雨音が心なしか強さを増したように思う。

 

 午前中とは打って変わって、昼下がりに西から現れた黒雲が夕暮れになって雨を降らせ始めた。

 だから普段はこの時間ならまだ天窓の向こうに薄く残る黄昏空も、今は厚い雨雲に覆われ、ただ闇がガラスにのっぺりと張られている。

 病院を閉めた後、受付の椅子に座り、その日のカルテを一枚ずつ見直すのが僕の日課だ。

 ただし電子化されたカルテだから一枚ではなく一件というべきか。

 昨夜から血尿と頻尿が続いているオスの雑種猫。

 食物アレルギーによる皮膚炎が疑われる柴犬。

 軟便症状の若齢シーズー。

 椎間板ヘルニアで後肢麻痺を呈したミニチュアダックスフント。

 皮膚糸状菌により耳介先端に脱毛症状を起こした子猫。

 以前、肝障害を起こしたフェレットの定期検診。

 胃癌が疑われるセキセイインコ。

 数は少ないがそれなりにバラエティーに富んだカルテをひとつずつ見返していく。

 やがて最後に残していたカルテにたどり着いた僕はタブレット画面に視線を向けたまま、オフィスチェアの背もたれにやや強く体を預けた。

 

 長谷川ヤスジロウ。日本猫。オス。未去勢。三歳。茶トラ。


 ダイコムで引き込んだレントゲン画像。

 開くとそこにヤスジロウの胸部が写っている。

 僕は眉根を寄せてその画面を見つめた。

 

 それは胸部縦隔リンパ節全体に拡大した腫瘍。

 当初はプレドニゾロンに反応を見せていた腫瘍だが、定期検診を怠っている間に再燃してしまったようだ。

 飼い主の長谷川には今日も抗がん剤の使用を勧めてみたが、費用面の問題だろう、彼はやはり首を縦に振らなかった。

 そこでやむなく高用量のプレドニゾロンを筋肉注射した上でICUゲージで管理することにした。

 現在はなんとか落ち着いている。

 けれどこの後どうなるかは予想が着かない。

 もちろん急変することも十分あり得る。


 僕は自分がいつのまにか丸めた背を凝固させ、さらに悲壮な顔つきでタブレットを睨みつけていることに気が付いた。

 いけない。難しい顔は思考をフリーズさせるだけだ。

 僕はいったんタブレットを置き、両手を頭上で組んで背伸びをした。

 そしてふとカウンター越しに待合室へと目をやると、水槽の前に座り込んだゴクラクが見える。


 なに考えてんだろうなあ、あいつは。


 僕はおもわず頬杖をついてニヤリとした。

 こうやって水槽を見上げてジッとしているゴクラクをしばしば見かける。

 セリーヌや夏菜はきっとホコサキを狙っているのだと笑うけれど、たぶん違う。

 ゴクラクの眼差しにはなにか友好的な感情の気配のようなものがあるように思えるのだ。

 まあ、もちろんホコサキの瞳にはなにも感じないが。


 そういえばゴクラクもホコサキもここが開院した矢先にやってきた。

 ゴクラクは玄関前に置き捨てられていたし、ホコサキはペットショップの売れ残りを押し付けられた。

 まさか人間ではあるまいし、そういう共通点のある不遇な過去に連帯感を持つなどということはないだろうけれど、それでも多少通じるものがあるのかもしれない。

 少なくともゴクラクにはそういう人臭いところがある。

 それもよくある飼い主の思い過ごしかもしれないけれど。


 ゴクラクの尻尾が時折思い出したようにふわりと揺れた。

 なにはともあれ、あいつもいろいろなことを考えているに違いない。


 そうだ。

 猫は猫なりに、人は人なりに考えて先に進まなくてはならない。


 僕はもう一度タブレットの画面を覗き込む。

 長谷川ヤスジロウ。

 獣医師としての僕の役目はなにか。

 考えろ、考えろ。

 余命があとわずかだとしても、なにか彼のためにできることがあるはずだ。

 動物たちは決して自らは死を選ばないから。

 どんな状態になろうとも生きようとしているはずだから。


 

 こうやって雨音の響きと宵闇に紛れてホコサキ様を見つめていると、なぜだろう、いつのまにか自分が透き通って影だけになってしまったような気分になる。

 いつもならそんな陰気な感覚などさっさと振り払ってしまうところだけれど、今日に限ってはこのままフッと消えてしまってもいいかもしれないなどと思う。

 らしくない自分だ。

 入院室のヤスジロウのもとを逃げるように後にしてから、吾輩の胸には憂鬱な心持ちが居ついてしまった。

 なぜ吾輩はこうも素直ではないのだろう。

 それを責める自分と擁護する自分。

 その二つの思念がせめぎ合い、けれどいつまで経っても結論は出そうにない。

 

 マルタが言ったように吾輩はヤスジロウを羨望している。

 なぜ?

 自由だからだ。

 それに野良特有の卑屈さがない。

 無意識のうちにそこに憧れ、そしてうらやんでいるのだ。

 けれど吾輩はそれを認めたくない。

 反論し続ける自分がいる。

 吾輩だって自由だ。

 たしかにこのなつめ動物病院という建物の中だけではあるが、吾輩は自分の思うままに考え、そして行動している。

 たとえタカトシといえど、それを遮ることはできない。

 吾輩は猫として自由を謳歌している。

 

 けれどはたして本当にそうなのだろうか。

 奔放なヤスジロウを見ていると少しずつそう言い切れる自信が潰えていくような気がする。

 もしかすると吾輩はを謳歌しているだけではないのか。

 結局は檻に入れられ、餌を与えられて、知らず知らずそれに満足しているだけではないのか。

 やはりヤスジロウのように気儘きままに外に出て、直に太陽の光を浴び、風に吹かれ、くだらない喧嘩をして、時に恋に落ちる。

 そういうことが本当の意味での自由ではないのか。


 けれど赴くままに思考を巡らせていくと、そこでまたと反論する自分がいる。

 この世になどあるものか、と。

 ヤスジロウの自由さなど、所詮しょせんは与えられた環境でしかない、と。

 

 言ってしまえば人間だってそうだ。

 いや、人間こそそうなのではないか。

 彼らは自由がかけがえのない財産だなどと声高に言いながら、自分たちでせっせと檻を作り、足枷をこしらえて、ときにその緊縛された自由と他人のそれを比べることでうらやみ、そしり、互いにおとしいれたりしている。

 まったく愚かしいことだと常々考えていたのに、もしかすると吾輩は今、ヤスジロウに同じ羨望を向けているのではないか。

 それを認めたくない。

 きっとそうなのだ。

 

 吾輩は土管の中に身を埋めているホコサキ様に眼差しで問うている。


 今夜、吾輩はヤスジロウにそのことを素直に話せるでしょうか。


 おもわずため息が漏れる。

 そして尻尾をふらりふらりと振る。 

 

 まったく自信が持てない。

 それどころか、ものの一分とかからない入院室への道のりさえ、そこへ向かう足取りの重さを思えば果てしなく遠く感じてしまう。

 そしてなけなしの決心はすぐにふやかしたキャットフードのようにつかみどころのないものとなっていく。

 そもそもヤスジロウにそんな吾輩の心中など話す必要があるのだろうか、と。


 今度はブルブルと頭を振った。

 違うだろう。

 これは自分のためのケジメなのだ。

 そしてヤスジロウと友達になるための必須条件なのだ。


 そう強く自分の心に言い聞かせたそのとき、突然、セリの鋭い声が薄闇に響いた。

「先生、ヤス君のサチュレーションが下がってます」

 その刹那、タカトシが椅子を蹴る音が聞こえた。

 




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