第10話 トラ猫、ヤスジロウの一生 EPI 9


 

 居間にこじんまりした白布の祭壇が据えられた。


 そこに花と果物と焼香と、そして洋ダンスの上にあった写真が引き伸ばされて遺影として立てられた。祭壇の脇には黒いランドセルとネズミゲームの釣竿が置かれていた。


 葬儀が終わったあと、その夜のことだけれど、二人は喪服を着替えもせずに床にペタリと座りうつむいていた。

 そして、疲れ切った顔を時折思い出したように上げて優の遺影に向けていた。


 涙はなかった。

 声もなかった。

 ラジオもなかった。


 二人ともただ静かな部屋で床に座り、互い違いに遺影やランドセルに視線を流していた。


 オレはお袋さんの膝元にそっと近づき、その顔を見上げてみた。

 そこには精も根も尽き果て、枯れ葉のように乾いた肌と虚ろな瞳があった。

 彼女はその目でオレの顔を見て、さらりと頭を撫でた。

 けれどお袋さんにはオレの顔なんて見えていなかった。

 オレにはよく分かった。

 その無目的な瞳の奥には優がいたんだ。

 あるいはその瞳は優の姿だけを探していたんだ。

 もちろんそれは仕方のないことだった。

 オレはお袋さんの膝に乗った。

 すると彼女はオレの背中をゆっくりと撫でた。

 オレは願った。

 たとえ千分の一でもいいからお袋さんがオレの中に優を感じ取ってくれればいいと、心からそう思った。


 親父さんも同じようなもんだったよ。

 あの人もただ静かな呼吸をするだけの少し太った人間だった。

 感情なんてなかったんじゃないかな。

 きっと膨大な過去の記憶があってそれに押しつぶされないように、ただそれらをかわすだけで精一杯だったと思う。

 ただ何も考えないようにすることに必死だったと思う。


 オレはずっとお袋さんの膝の上にいた。

 そのときふと、死というものについて考えてもみた。

 いや、考えたっていうわけじゃない。

 優の死はオレにとってどんな感じなのか探ろうとしたのさ。

 あくまでも感覚として。

 だから答えも結論もないさ。

 結局、なにもない。

 死には重さも匂いも味もなかった。

 オレには辛いという感覚さえもなかった。

 けれど自分がそう感じたという事実にオレは戸惑った。

 オレにとって優は友達で、また兄弟でもあったはずだった。

 その家族の死であるのに、なぜ悲しみの感情が湧いてこないのか。

 そのことがとても不思議だった。

 親父さんやお袋さんがこんなに打ちひしがれているのに、自分だけがそれを他人事のように感じている。

 オレには心というものがないのかもしれないと思った。

 猫だからかな。

 そもそも猫は誰かのために泣くという心が欠落しているのかもしれないな。

 けれどまあ、それならそれで良かった。

 とにかくそのときのオレはお袋さんが心配だった。

 ゴマ粒ほどわずかでもいい。

 オレを優だと感じて欲しかったのさ。

 オレはときおり背中を撫でるお袋さんの指先にそういう気配を探した。

 たぶん……、オレは優になりたかったのかもしれない。

 そのとき初めてオレはそう思ったのかもしれない。


 夜はそのまま静かに更けていった。

 ただ無感情に鳴くコオロギの声だけが居間にそっと流れ込んで小さく響いていた。


 ラジオも死んだ。

 お袋さんはテレビを見るようになった。

 優のベッドも分解されて死に、そこには茶色のソファが置かれた。

 祭壇が仏壇に代わり、遺影は壁に掛けられ、ランドセルとネズミゲームはいつの間にかどこかに片付けられた。

 それはこの家に優が居たという痕跡がどんどん失われていくみたいだった。

 きっとお袋さんは優を早く忘れてしまいたかったんだ。

 いや、もちろん忘れることなどできないから、思い出さないようにお袋さんがいろいろな手を打っていたんだ。

 思ったんだが人間にとって時間というのはとても厄介なものなんだな。

 それまで優に掛けていた時間をどのように使えばいいのか、お袋さんにはそれが一番の難問だったみたいだ。

 朝からテレビがくだらない番組を流す。

 たとえば芸能人のスキャンダルだとか、いま都会で人気の料理だとか、そういうことをテレビは大袈裟に声高に言うんだ。

 はっきりいってオレにとっては雑音以外の何物でもなかったが、お袋さんは新しいソファに腰掛けてテレビを眺め、時々口元にうっすらと笑みを浮かべた。

 テレビも役に立つんだな。

 時間や思考の隙間を埋める。

 テレビ番組の大半はそのためにあるんだとオレは納得した。

 だからオレは外に出ることをやめて、テレビの音声に閉口しながらもお袋さんの膝に乗り、一緒に時を過ごした。

 オレはそれで良かったんだ。

 自分がお袋さんの膝を温めることで、優の死に凍りついた心が少しづつでも溶けてくれればいい。

 そしてやがてはお袋さんの中で優が占拠していた部分にオレの存在が居着いてくれればいいと本気でそう思っていたんだ。


 けれどな、ゴクラク。それは間違いだったよ。

 そんなオレは大バカ者だったのさ。

 

 お袋さんはな、オレの存在がうとましかったんだ。


 最初は背中を撫でさする手がなくなった。

 次にお袋さんは膝にクッションを乗せてテレビを見るようになった。

 仕方なくオレは彼女の腰のあたりに寄り添って、できるだけ大きく喉を鳴らした。

 すると彼女はソファの端に座り、片方の腰元にもクッションを置くようになった。

 オレは不審に思いながらも尻尾を立てて、お袋さんの足元に体をこすりつけた。

 すると彼女は両足をソファに乗せた。

 見上げると膝を立てて座ったお袋さんがオレを睨んでいた。

 そして言ったんだ。

「ヤスくん、お願いだからどこかに行ってよ」

 低くて、かすれた声だった。

 だから独り言みたいに聞こえた。

 けれど猫であるオレの耳には十分すぎるほど大きく聞こえた。


 どこかに行ってよ。

 どこに?

 冗談だと思った。

 だからオレはお袋さんの爪先に前足を掛けて膝に飛び乗ろうとした。

「もう、やめてよ!どこかに行きなさい!」

 信じられないくらい大きな声だった。

 金切り声っていうんだ、ああいう声を。

 オレは恐ろしくなって、離れたところに逃げた。

 そして振り返るとお袋さんはクッションに顔を埋めて泣いていた。

 子供が泣くみたいに大きな声を出してワアンワアンと泣いていた。

 そのときのオレには訳がわからなかった。

 だってそうだろう。

 お袋さんはに顔を埋めていたんだ。

 赤い色合いのパッチワークのクッション。

 オレはあの夏の夜のように自分の体に顔を埋めて欲しかった。

 そして大きな声で涙が枯れるまで泣いて欲しかった。

 それこそが自分の役目だって思ってたのさ。

 それなのに……。


 だが、もう分かるよ。

 いまでは当たり前のことだったとも思う。

 オレは結果的に自分の願いを叶えていたんだ。

 お袋さんはオレの中に優を見ていたんだろう。

 オレはある意味で優になったんだ。

 正確に言えばオレはになったのさ。

 だから彼女はオレを遠ざけたかった。

 死を思い出さないために。

 ランドセルやベッドやネズミゲームと同じようにね。

 できることなら押入れにしまい込んでしまいたかったんだろうな、きっと。


 それが今では分かる。

 よく分かるんだ、ゴクラク。




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