第9話 トラ猫、ヤスジロウの一生 EPI 8


 

 視診は自然光に限る。


 その医学の原則に忠実たろうとするタカトシは、院内のいたるところに天窓を設けた。

 おかげで夏場などは暑くて敵わないが、今はこの陰鬱たる入院室にも春の陽光が身びいきなく降りそそいで心地よい明るさを与えている。


 ヤスジロウはICUゲージの中で横たわり、穏やかに胸を上下させている。

 来院した時はかなり苦しそうな呼吸を続けていたみたいだが、高酸素室の効果によりそれもずいぶんと落ち着いているようだ。

 けれど彼の腕には点滴を流すチューブが付けられ、また体にはいくつかのモニターラインが繋がれて、その物々しさはヤスジロウの状態がいかに切迫しているかを物語っている。


 マルタから伝え聞いた話だとヤスジロウの胸にできた腫瘍がずいぶん大きくなって呼吸困難に陥ったようだ。また薬の効果が薄れ始めたのも原因の一つだとタカトシは説明していたという。

 そして飼い主の長谷川は数日間、出張に行かなければならないらしく、さすがに具合の悪いヤスジロウをひとり家に置いて出かけるわけにはいかないため入院措置になったということらしい。

 

 吾輩はゲージの前にある狭い窓枠に座り、眠っているヤスジロウと窓の外を交互に見遣っていた。ただし入院室の窓から見えるのは、伸ばせば吾輩の尻尾でも橋を掛けられそうに近いブロック塀と、その向こうにある薄汚れた隣家の壁だけという、いかにも殺風景な代物だ。

 けれどそれでも、あまり安らかとはいえそうにないヤスジロウの寝顔を見つめていると、なんだか水中に沈んでいるみたいに息苦しくなり、やはり息継ぎでもするように吾輩はその陰気な窓外に視線を逃すしかなかった。

 

「ゴクちゃん、そこにいるんだろう」

 声に目を向けるとローズ婆さんが鼻をヒクつかせながら、その白い瞳で当てずっぽうに目を配っている。

「ああ、ここさ」

「どうしたんだい。昼間っからあんたがここに来るなんてめずらしいね」

 ようやく吾輩の居場所を探り当てた婆さんはブルブルと数回、その平べったい耳を振った。

「うん。まあ、ちょっとね」

「さてはさっき来た具合の悪い猫さんだね。友達かい」

「うん。あ、いや……どうだろ。友達なのかな」

 適当に答えればいいのに、なぜかできなかった。

 ふたたび目線を窓にずらすと隣の家の壁をヤモリが這っていた。

 ヤモリはあたりを窺うように何度も立ち止まりながら、やがて軒下の隙間に消えていく。

 しばらく間を置いてローズ婆さんのあくびが聞こえた。

「ところで、今日はいい天気だねえ」

「あれ?見えるの」

「見えなくても匂いで分かるのさ」

 婆さんはそう言ってケージの格子から自慢げに鼻を突き出して見せる。

「へえ、さすがは犬だね」

「そうさね。こんな日は散歩に出て草の匂いを思う存分嗅いでみたいもんだよ」

「ふうん、そんなもんかな」

 吾輩は気の抜けた相槌を返し、ふたたびICUゲージに目を向けた。

 ヤスジロウは先ほどと寸分違わない姿勢で眠っている。

 呼吸は落ち着いているが、顔には苦悶がうっすらと滲んでいた。


「ゴクちゃんは外に出たことないのかい」

 前触れもなく婆さんがポツリと訊いた。

「ないよ。あるわけない」

「どうしてさ」

「どうしてって……」

 返答に窮してしまう。いろいろ理由はあるが全てを言い連ねるのは間怠っこしい。そこでこう答えた。

「外なんて出たいとは思わないよ」

「怖いのかい」

「べつに怖くなんてない。でもさ、危険は多いと思うよ。交通事故とか伝染病だとかね」

 一般論を並べて言い開くと、それを聞いてローズ婆さんはおもむろに伏せた。

「怖いんだね。やっぱり、あんた」

 彼女は床にニヤついた口元を載せ、その白い瞳の視線を当てもなく宙に漂わせる。そのあからさまなからかいに吾輩は軽い苛立ちを覚えて背中の毛を少しばかり逆立たせた。そしてはっきりと断じて見せる。

「外の世界なんて知りたくもない」

 そのときだった。不意に別の声が鼓膜に入り込み、吾輩は息を呑む。

「強がるなよ。ゴクラク」

 目を向けるとICUゲージの中でヤスジロウが寝そべったまま顔を上げていた。

「おいヤス、大丈夫なのか」

「ああ、なんとかな」

 肩で息をしながらヤスジロウはゆっくりと体を起こし、腹這いの姿勢になる。

「無理しないで寝てなよ」

「大丈夫だ。ずいぶん楽になった」

 そう言ってヤスジロウは二、三度大きく息をした後、頬を緩めた。

「それよりおまえ、外が怖いのか」

 そのバカにしたような表情に吾輩は思わずムキになった。

「怖くないって言ってるだろう。だいたい外なんかに憧れる家猫は考えが浅い」

「へえ、そうか」

「そう、まったくもって呆れるね」

 吾輩は顎を上向けて、したり顔を作って見せる。するとヤスジロウは少し曖昧にうなずいた。

「まあ、たしかにいいことばかりじゃないな」

 その同意に、吾輩はひとまず溜飲を下げる。けれどヤスジロウは一拍おいて言葉を継いだ。

「だけどなあ。出てみなくちゃ、分からないことだってあるんだぜ」

「なんだよ、それって」

 吾輩が怪訝な顔つきで尻尾をサッと振ると、それを見たヤスジロウは髭をピンと張った。そしておもむろに視線を天窓に向けて呟く。

「そうだな。たとえば……太陽の匂い」

「ふん、バカバカしい。太陽に匂いなんてある訳ないじゃないか。あんなに遠くにあるのにさ」

 チクリと胸が疼いた。

 どうしてだろう。吾輩はそんな風に言いたい訳じゃないのに、ヤスジロウの言葉にはなぜか突っかかってしまうのだ。

「……まあな。おかしいよな」

 そこでひと呼吸、肩を大きく上下させたヤスジロウはふたたび目蓋を閉じた。

 吾輩は気まずさを隠すためにローズ婆さんの方を見ると、彼女はすでに眠っていた。そして仕方なく、また窓の外を眺める。

 そこにあるのはさっきとなにひとつ変わらない陰気な塀と壁のはずなのに、なぜか急に苛立ちを覚えた。

 吾輩はどうしてしまったのだろう。

 けれどその自問さえ虚しかった。

 なぜならその答えはもうすでにあるからだ。

 吾輩はただそれを認めたくないだけであることも分かっている。


「なあ、ゴクラク。……おまえさ、フルートって知ってるか」

 しばらくして唐突に発せられた声に目を向けると、ヤスジロウは薄目を開けて吾輩を見ていた。

「なんだよ、いきなり」

「フルートっていうのはな、金属性の……」

 ヤスジロウはそこで口を開け、舌を出す。ちょっと間抜けな顔だが、それは猫特有の呼吸困難症状であることを吾輩は知っていた。

「楽器だろ。知ってるよ。テレビで見たことがある。ていうか、もう寝てなよ」

 吾輩の言葉に彼はなんとかうなずき、それからゆっくりと顎を下に付けた。

「聞きたいんだ……フルートの音……」

「なあ、もう喋らないほうがいいって」

 ヤスジロウは苦しそうな顔をしてひとつゴクリと唾を飲み下した。

「おまえに……話を聞いて欲しいんだ」

「分かった、聞くよ。だけど今は休みな。今晩、もう一度来るから」

 そう言って吾輩は逃げるように窓枠から降りた。

 もう見てはいられなかった。

 そのヤスジロウの喘ぐような呼吸の音を聞いていると、どんどん狭い路地のようなところに追い詰められていくような気がした。

 そして吾輩が無様にも尻尾を下げてドアの隙間に体を入れたそのとき、また声が聞こえた。

「約束だぜ……ゴクラク」

 吾輩は立ち止まり、けれど返事もせずに入院室を後にした。

 

 もうこの耳にヤスジロウの声が届くことはないなんて知らずに。

 

 


 




 

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