第8話 トラ猫、ヤスジロウの一生 EPI 7

 

 夏。

 

 家の中で唯一、優の部屋だけ冷房が効いていた。

 世の中は物騒だからな。誰も人がいない家の窓を開け放しておくわけにはいかない。

 だがオレがいる。

 猫とはいえこの暑さで閉め切った家に閉じ込めておくわけにはいかなかったんだ。

 オレはその頃には外の世界にもずいぶん慣れていたから、たとえば南にある低い山の蜜柑畑に行って、木陰の涼しいところで過ごしてもよかったんだが、そうもいかなかった。

 山にはときどき蛇が出るって話だったし、それに冷房の電気代だってバカにならないっていうだろ。オレが外に出て、誰もいない部屋が意味もなく冷やされているってのはなんとなく後ろめたかったからな。

 なによりお袋さんたちにこれ以上無用な心配を掛けたくなかった。

 だからオレは夏の間、できるだけ大人しく優の部屋でゴロゴロしていることにした。

 

 ある夜のことだ。

 優のベッドで寝ていたら、お袋さんが病院から戻ってきた。

 その日はオヤジさんが病院に泊まることになったんだろうな。

 その頃は夫婦のうち、どちらかひとりは優に付き添って病院で寝泊まりしていた。

 優はそれくらい良くない状態だったんだと思う。

 とはいえお袋さんが平日の夜に帰ってくるのは珍しいことだった。

 まあ、オヤジさんには仕事があるから、仕方がなかったんだろう。

 けれどその日はお袋さんが帰ってきた。

 彼女は疲れ切っていた。

 まだわりと若かったんだぜ。

 お袋さんなんてオレが呼んでいるから、そんな風には思わないかもしれないが、きちんと化粧をして身だしなみを整えれば、二十代だと言ってもまだまだ十分通用したはずさ。

 けれど優の看病で疲れ切ったお袋さんは、まるで老婆のようにやつれ果てていた。どう見ても精神、肉体ともに限界を超えていたんだ。

 お袋さんはスーパーの袋を片手に持っていた。長ネギが袋から煙突みたいに飛び出してた。

 お袋さんは優の部屋の入り口のところに突っ立ったまま、オレを見つめていた。

 眉間に皺を寄せた怖い顔をしていた。

 オレは睨まれていると感じて、なにか悪事が露見してしまったんだと思ったんだ。

 心当たりはいくつもあった。

 もちろん無断で外に出ていたこともそうだし、他にもクッションに引っ掛けた粗相とか、襖で爪を研いだこととか、いろいろあった。

 それで逃げ出そうとしたオレがソロリと立ち上がろうとしたそのときだった。

 お袋さんが手にしていたスーパーの袋がガサリと音を立てて床に落ちたんだ。

 オレは驚いて思わずその場で固まってしまった。

 するとすぐにお袋さんがツンのめるようにして覆いかぶさってきた。

 オレはてっきり折檻されるんだろうと目を瞑って覚悟したんだが、どうやらそれは思い違いだった。

 お袋さんは泣いていたんだ。

 オレの腹のところに顔を埋めるようにして、声を出さずに泣いていた。

 オレはどうしていいか分からなくなって、そのままジッとしていた。

 お袋さんの髪の匂いがした。安物のシャンプーの匂いだった。

 そしてオレはちょっとだけホッとしていた。


 ラジオで誰かが言っていたんだ。

 泣くっていうのは人間にとって、ときになによりも重要な行為なんだってね。

 ささくれた心を癒す効果があるんだと。

 そういうのは猫にだって分かるだろ。

 オレ達は涙を流して泣いたりなんかしないが、そういう気持ちは分かるはずさ。


 そうだろ、ゴクラク。

 

 ときおり小さな嗚咽が漏れた。

 オレはお袋さんがとても不憫だった。

 そしてなぜ大きな声を出して泣かないのか、それが不思議だった。

 オレとお袋さん、二人きりなのにどうして思い切り声を出して泣かないんだろうって、そのことが不思議で歯痒かった。

 いまここでしっかり泣かせないと、お袋さんの中に溜まった沢山のいろいろなものを吐き出させないといけない。

 そのときのオレには、それが自分に課せられたとても重要な役割なんだって分かっていたのさ。

 お袋さんが流した涙がオレのこの茶トラの毛を伝い落ちて、シーツにシミを作った。

 そのシミはドンドンドンドン広がっていった。

 オレは毛を伝う涙を一口舐めてみた。けれどしょっぱくてその一口で止めた。

 その代わりにオレはお袋さんのおでこを舐めた。やっぱり少ししょっぱかったが涙よりはマシだった。

 何度も繰り返し舐めていると、そのうちにお袋さんがゆっくりと顔を上げた。

 まぶたが真っ赤に腫れて涙の跡が薄い化粧をまばらに落として、小さな皺が目尻で目立って、それはひどい顔だったけれど、お袋さんは柔らかく笑っていた。

 そして囁くように言ったんだ。


 ヤスジロウは優しい子だねって。


 それからひと月ほどが過ぎたある日。

 優が死んだ。


 季節は秋になっていた。




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