第6話 トラ猫、ヤスジロウの一生 EPI 5


 次の春が来た。

 オレはすっかり大人の猫になっていた。

 さすがにネズミゲームにも少し飽きが来ていたが、優が喜ぶから付き合ってやっていた。

 けれどその回数はずいぶん減っていた。

 フルートの演奏会もあまり開かれなくなっていた。

 

 優は度々入院するようになっていたんだ。

 優が入院していると、家にいてもなにもすることがない。

 だからオレは時々外に出るようになった。

 本当はいけなかったんだが、お袋さんは優に付き添って病院に行っているし、親父さんは仕事だ。家にいても本当になにもすることがなかったんだ。

 まあそりゃ昼寝でもしていれば良かったんだろうが、窓の外の青葉を見ていると無性にその匂いを嗅ぎたくなってしまうんだ。

 ゴクラク、おまえにはそういう衝動、ないか?

 そうか。猫もいろいろだな。

 ウチは昭和の頃に建てられた古い借家でね。流しの正面にある横長の窓は鍵が壊れていたんだ。正確に言うと止め錠が緩くなって猫でも開けられるようになってたのさ。で、オレは一年と少しぶりに外に出たんだ。

 もうすぐ五月だっていうのに風が強くて妙に冷える日だった。

 そして空がやけに黄色くてな。

 けど、その埃っぽい空気を胸いっぱいに吸い込んだら、不思議な感覚が全身を駆け巡った。

 なんだろうな。言葉にするのは難しいな。

 オレはやはり猫なんだと腑に落ちるというか。というより、オレはなにをするためにこの世に生まれてきたのかという問い掛けのようなものだったか。

 本能?いや、そういうんじゃないね。

 感覚さ。考えてもどうにもなりゃしないってそういう感覚さ。

 まあ、わからなくていい。

 とにかくオレはその感覚に導かれるように家の垣根を抜けて、道路に出たんだ。道路といったって住宅街の狭い路地さ。車なんか滅多に通りゃしねえような道さ。

 それでもそのときのオレにとっちゃ、そりゃあ古の御殿回廊みたいに道が輝いて見えた。

 その先になにがあるのか想像もつかない。道に先をうながされるようにオレは前に進んだ。

 道端に落ちている枯れ葉やゴミクズに立ち止まって匂いを嗅いだ。

 電線や庭木にとまった小鳥の声にいちいち視線を上げた。

 家の中で遠く聞いていた雑多な音たちがいくえにも重なって鼓膜になだれ込んだ。

 それはとんでもない不協和音だったが、オレはなぜか苛立ちも覚えず逆に胸を躍らせた。

 ブロック塀に飛び乗るとまた世界が変わった。近くにいたスズメが慌てて飛び去るのを見て愉快だった。

 物干しから洗濯物を取り入れている主婦がオレを見つけて、ジッと見つめた。優しそうな顔をしたおばさんだったから思わずかけ寄りそうになったが、なんとか踏みとどまった。

 もしかすると猫が嫌いな人間かもしれないからな。そういう人間もいるってオレは一応知っていたんだ。

 そういうのもラジオから情報を得るのさ。クラシックばかり聴いていた訳じゃないんだぜ。

 しばらく進むとある家のガラスサッシの内側に猫が見えた。

 綺麗な銀色の毛並みの猫さ。ツンとすました顔をしているが、明らかに外にいるオレを羨ましそうに見ていた。

 気持ちはよく分かった。オレも何度かそういうのを経験したことがあったからな。

 ところでもう一度聞くが、ゴクラク、おまえにはそういう感情はないのか。

 そうか、……なら別にいいんだ。

 オレは塀から降りてその猫に近づいてみた。

 もちろんガラスの向こうだからどうということもないんだが、オレにとってはかなりの冒険だった。なんせオレはそれまで猫同士の会話なんてしたことがなかったからな。

 そこでオレは思い切って声を掛けてみた。「よう」ってな。

 そしたらそいつどうしたと思う。

 毛を逆立てて部屋の奥に逃げてしまいやがったんだ。こっちがよほど無法者だと思ったんだろうな。

 あるいはああいう純血種ってやつはもともと気の小せえのが多いのか。

 とにかく会話ができなかったのは残念だったが、けれどオレはそれでも愉快だった。そういう風に外にいるってことがなんだかずいぶん誇らしかった。

 あらゆるものが新鮮だったんだ。

 オレはひとしきり笑って、また塀の上に跳び上がった。その日はそれで満足した。そして家に戻ることにした。


 それからオレは度々、外に出るようになった。

 家を出るとまずブロック塀に飛び乗ってその日の風向きを見る。

 家の近くに乾物工場があってな。東からの風が吹く日はそこから干物の匂いが漂ってくる。

 少し離れたところに保育園がある。西からの風が吹く日は子供達の遊ぶ声がよく聞こえた。

 南には低い山があって、そっちからの風は松と蜜柑の花の匂いを運んできた。

 北か。北は特別なものはないさ。なだらかに下りていく坂道があって、その先には大型トラックがひっきりなしに行き交う幹線道路がある。

 一度だけ行ってみたが、まあたいして面白くもないところだった。

 ただ、コンビニの駐車場に老いたオス猫が居て、ブツブツと独り言を呟いていた。嫁も子供たちもみんなこの道ではねられて死んだとかなんとか。

 騒音と排気ガスに嫌気がさして、それきりそこには行っていない。

 とにかく風向きを見るんだ。そして匂いと音を読んで、その日の行き先を決める。

 

 乾物工場の裏には時々干物の切れ端が捨ててあるから、近所の猫たちが集まってくるんだ。

 オレは干物になんか興味はないが、そこに集まってくる野良たちの話はなかなか面白かった。

 たとえば縄張りの話さ。

 どこそこのボスが病がちでそろそろ代替りになるとか、他所からやってきた放浪猫がやたらに強いとか、そういう噂話を乾物工場の裏手でよく聞いた。

 もちろんオレは家に戻れば餌も寝床も不自由しない身だから、その縄張りをどうこうしようなんて気は更々なかったわけだが、情報を集めておくことは重要だった。無用ないさかいは避けるべきだからな。

 それから野良たちはそれぞれに飯場を持っている。

 飯場というのはたいてい近所にいる爺さんか婆さんの家さ。なぜか人間というのは年を取ると猫に餌をやりたくなるみたいだ。

 そういう奇特な老人たちのことを野良たちはシマと呼んでいた。

 そのシマには必ずきちんとした序列があって、そのトップにはボス猫がいる。

 そしてボスは何匹かの手下とメス猫たちを囲い、そして頃合いの季節になるとむやみに繁殖をするのさ。粗野で愚かな仕組みだが、それが生物の根っこというものなんだと聞いて腑に落ちた。

 なるほど、オレもそうしてこの世に生まれてきたんだとね。


 それから保育園にもよく足を伸ばしたものさ。

 そして砂場で子供達が無邪気に遊んでいる様子を見てはオレは優の記憶を思い起こした。ネズミゲームやお絵描きや昼寝。本当にたいした記憶じゃなかったが、忘れそうになる優の顔を思い出すいい機会になった。

 そして青白くてデッカい笑顔の優を思い出すと妙に切なくなった。

 歌の時間もあった。子供達が恥ずかしげもなく大声で調子っぱずれの歌を歌うんだ。

 そんな時は優が笑いながらあれぐらい大きな声で歌が歌えたらどんなにいいだろうと思った。

 そしてお袋さんのフルートがその伴奏だったらと想像すると、オレは無性に歌いたくなった。

 だからオレは保育園の屋根の上で大きな声で歌った。

 雨の匂いのする梅雨時の曇天の空に向かって歌った。

 道行く人間たちがそんなオレを見てクスクス笑ったがかまうものか。

 なんならその声が病院にいる優とお袋さんに届けばいいのにと心からそう思ったんだ。


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