第5話 トラ猫、ヤスジロウの一生 EPI 4

 

 本日は快晴なり。

 天窓を通過した陽光が待合の床に趣のない四角い陽だまりをこしらえている。

 そして、なつめ動物病院は今日も今日とて閑散として、退屈を持て余した吾輩はその陽だまりに座りこみ、ぼんやりと外を眺めていた。

「桜、咲いたね」

 そのとき唐突に耳元で囁かれた声に吾輩は舌打ちをこらえる。代わりに耳を寝かせて仏頂面をそちらへと向けた。

「おまえね、いつも言ってるだろう」

「近くにきたら分かるように鈴でも付けてろってさ」

 声色を真似て吾輩の台詞を引き継いだマルタは、けれどにらまれたところで涼しげな笑みを浮かべているだけであるから癪に障る。

 吾輩はこれみよがしにフンと鼻を鳴らし、また外を眺めた。

 たしかに桜が咲いている。

 駐車場の隅に植わったソメイヨシノ。

 まだ五分咲きとはいえ、去年よりもいくぶん花弁が多いようだ。

 なるほど枝振りはまだまだ未熟だが、年々それなりに成長を遂げていると思うとそれが健気で、少なからずたくましささえ感じる。

 そんなことを考えていると、しばらくして、またマルタが話しかけてきた。

「そっか、あの桜の根元にキミの兄弟たちがいるんだね」

「誰に聞いた」

「夏目院長ってさ、酔うとおんなじ話ばっかりするんだもの。キミの身の上話なんて、僕、いい加減、聞き飽きちゃったよ」

 思わずため息が出る。ということはタカトシの晩酌にこいつはこっそり聞き耳を立てていたということだ。しかも何度も。

 仕方なく吾輩はそのため息とともに言葉を継いだ。

「吾輩も同感だ」

「あ、たまには気が合うね」

「ただ、同感なのに、おまえにそう言われると無性に腹が立つのはどうしてだろう」

「うーん。それはたぶん、キミが精神的に未熟なせいじゃないかな」

 あっけらかんと酷評されて、けれど吾輩はただ肩を落として黙り込むしかない。


 マルタはここに住み着いた当初こそ、神妙にシンクの下に身を隠していたのだが、時が経つにつれ次第にその本性を現し始めた。

 初めは処置室の中をグルグルと徘徊する程度だった行動範囲はいつしか院内をくまなく網羅するようになり、いまでは気がつくと二階にあるソファに寝そべっていたりする。しかも、さすが幽霊だけあって壁も天井も通り抜けてくるから質が悪い。

 また吾輩に対して口を開けば、ぞんざいな物言いと屁理屈ばかりで頭にくることこの上ないときている。

 せめて成仏できるまでは居候にも我慢してやろう。

 そう温情をかけてやった吾輩が間違っていた。

 途中から手厳しく嗜めるようにしたが、時すでに遅しだった。

 マルタは吾輩の小言などまるで馬の耳に念仏で一向にその所作言動を改める気配もなく、それどころか最近はいやに馴れ馴れしく吾輩に接してくる有様にいい加減怒鳴りたいときさえある。

 けれど吾輩は黙っている。

 奴に罵倒や叱責をまともにとらえるようなしおらしさは毛頭ないのだから、叫ぶだけ労力の無駄というものだ。

 無理、無駄、ムラは省くべし。

 テレビでどこかの社長が言っていた。

 ムラはともかく、吾輩も効率重視の猫を自負している。


 春の日差しを反射させるシルバーの軽自動車が小さなエンジン音を響かせて駐車場に入ってくる。

 そして桜の樹のそばの駐車スペースにバックで入り、運転席から見憶えのあるキャリーケースを提げた中年の男が降りてきた。

 ヤスジロウだ、とひらめくように思い出して、吾輩はそそくさと陽だまりを後にした。そして診察室を通り過ぎて処置室のほうに向かう吾輩にマルタが怪訝そうに訊ねる。

「どうしたのさ」

「べつに」

 素っ気なく答えるとマルタがふふんと鼻を鳴らした。

「さては苦手な相手が来たね」

 吾輩は思わず顔をしかめた。もしかすると幽霊には心を読む能力が備わっているものなのだろうか。

「関係ないだろ」

 吾輩は背後から付いてくるマルタに動揺を隠して、そう言い放った。

「まあ、たしかに。でもそうなると僕は俄然その相手に興味が湧いてきたよ」

「おまえ、バカなの」

「かもね。というわけでキミのいつもの居場所、ちょっと借りるね」

 その言葉に勝手にしろと答えたものの、刹那、胸にモヤが立ち込めてくるような憂鬱な気分になって、吾輩はブルンと一度身震いをさせた。


 ヤスジロウの体調が優れなくなったのはひと月ほど前からのことだ。

 最初の主訴は食欲不振。

「めずらしいね。ケンカ傷じゃないなんて」

 そうたずねると彼はずいぶんとバツが悪そうな顔つきになった。

「ちょっとな、キャットフードに飽きたんだ」

「そう。じゃあフード、変えてくれればいいね」

「ああ、そうだな」

 彼はぶっきらぼうにそう返事をした。

 タカトシが血液検査を勧めると飼い主の長谷川は渋った。検査費用が高いことがその理由だった。

 そこでタカトシは試供品のフードサンプルをいくつかと食欲増進効果のある内服薬を処方してその日の診察を終えた。


 次に来院したのは二週間のちのこと。

 吾輩は目を疑った。

 ヤスジロウはそのたった二週間で恐ろしく痩せていたのだ。

 吾輩の知らない外の世界を跳躍し、ケンカに明け暮れ、野生動物さながらにしなやかな筋肉を備えていたその体は見る影もなく骨張っていた。

「ど、どうしたんだよ、ヤス」

「べつに、どうもしねえよ」

 そう嘯いて吾輩を見つめた瞳は浮き彫りになった眼窩から悲しいほどに爛々とした光を放っていた。

 問診を行うとヤスジロウは前回の診察からほとんど食べ物を口にしていないのだという。

 だったらなぜもっと早く連れてきてやらなかったのか。

 吾輩はそのやるせなさに尻尾をぶるんと振った。そしてタカトシも同じ気持ちだったのだろう。インフォームの口調に硬さが帯びた。

 それで、さすがに長谷川も検査を行うことに承諾した。

 結果は最悪だった。

 判明したのは猫白血病ウイルス感染症。

 そしてレントゲン検査で胸に腫瘍を認めた。

 吾輩は以前にも同じ病名を告げられた患者を見たことがある。その猫は治療の甲斐もなく、あっという間にこの世を去ったはずだ。

 タカトシは真剣な眼差しを向け、抗がん剤治療を勧めた。

 けれど長谷川はいくつかの質問に回答を得た後、うつむき、力なく首を横に振った。やはり費用が高く、とても払えないという。

「そうですか」

 タカトシはそう呟いて、なにか自分に言い聞かせるように何度かうなずく。そしてセリがその後ろで口を真一文字に引き結んでいた。

 胸に鬱屈が渦巻く。

 なぜだと叫びたくなる。

 これがおまえたち人間なら同じ結論が出せるのかと胸ぐらをつかんで問い詰めたかった。

 吾輩はその彼らから目線を引き剥がし、診察台へと向ける。

 ヤスジロウは検査に疲れ切った様子で、ぐったりとそこに身を伏せていた。

「なあ、ヤス。大丈夫か」

 なにか声を掛けたくて、考えもなくそう聞いてしまった。

 大丈夫であるはずがない。

 悔いて口を噤んでいると、ヤスジロウが閉じていた目を薄く開けてこちらを見上げた。

「ああ、大丈夫さ。なんてことねえよ」

 そしてそう言って力なく微笑む。吾輩は声を張り上げずにはいられない。

「無理しなくていいんだ。もっと苦しそうに悶えればいい。そうすればヤスの飼い主だってきっと考え直して抗がん剤治療をするって……」

「いいんだ。オレはこれでもう」

「いいわけない。だってヤスは吾輩と同じ歳だろ。まだまだこれからなんだからさ……」

 吾輩は不意に診察台に突っ伏したヤスジロウを見て言葉を止めた。

「どうした」

 返事はない。それによく見ると体が小刻みに震えている。

「具合が悪いのか。待ってろ。今、タカトシに……」

 そして吾輩がタカトシの肩へと飛び降りようとしたところでヤスジロウはふたたび顔を上げた。

「ゴクラク、柄にもねえぞ」

 その顔には笑みが浮かんでいた。震えは喉元で笑いを押し殺していたせいらしい。

「な、なんだよ。こっちは心配してだな」

「ありがとよ。おまえ、案外いい奴だな」

 ヤスジロウの笑みは穏やかに消えていく。

「いや吾輩は、べつに……」

 照れ隠しに思わず顔を洗ってしまった。

「でもホント、いいんだ」

 ヤスジロウはいつのまにかその落ち窪んだ瞳を天井に向けていた。

「あっちにはユウがいるからな」

 

 ヤスジロウの治療は安価なステロイドを使って行われることになった。抗がん剤ほどの効果は望めないけれど、それでも一時的にはよくなる可能性が高いとタカトシは説明した。長谷川はそれに同意し、毎週一度は検診に連れてくることを約束した。

 それから一週間後、長谷川がやってきた。けれどその手にいつものキャリーケースはなく、受付で内服薬だけ出して欲しいと言った。

 ナズナが聞くとヤスジロウはあれから体調が良く、昼間は外に出て行ってしまい帰ってこないのだという。

 吾輩はやり場のない憤怒に奥歯を噛み締めた。

 馬鹿野郎。治ったわけじゃないんだ。

 そう怒鳴りつけたい衝動を首筋を掻いてようやく紛らわせた。

 するとあとに虚しさが残った。

 なにやってるんだろうな。吾輩らしくもない。

 たかが気の合わない猫一匹じゃないか。べつにどうだっていいだろう。

 諦観と自嘲に吾輩はもう一度、首筋を掻いた。


 

 

 

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