第7話 ヤスジロウの回想 2
優は鼻にチューブを付けていた。
なんでもそうしておかないと自分の呼吸だけじゃ苦しくなってしまうんだって言ってた。
チューブは四角い器械につながっていていつもシューシュー音を出す。最初の頃はその音が怖かったが、すぐに慣れた。
チューブで遊んでいるとお袋さんに怒られたことがある。その様子を見て優は笑ってた。
よく笑う子でね。
それでオレたちはすっかり仲良くなった。
日中はほとんどの時間、部屋にラジオが流れていた。いつもはFMだったが、番組によってはAMにチューニングされたりした。
小さなテレビはあったが、仕事から帰ってきたオヤジさんがたまにニュースを見るぐらいでほとんど使っていなかった。
お袋さんは優がテレビばかり見る子供にはなってほしくなかったのかもしれない。
だって、そうだと思うよ。日がな一日、目的もなくぼんやりテレビ画面を見ている子供っていうのは猫から見ていてもちょっと気持ち悪いからな。
ラジオからはクラシック音楽がよく流れていた。
え?クラシックっていうのはな、オーケストラとか管弦楽団とか、そういうヤツだ、知らないか?
モーツァルトとかショパンとかバッハ……。
とにかくたいていラジオからはそういう音楽が流れていた。
ところでフルートっていう楽器を知っているか。
金属でできた横笛だよ。
お袋さんはそれを持っていたんだ。
家にひとつだけあるタンスの一番上の引き出し。黒の革張りのケースに納められたフルートはそこに小さな宝石の付いた指輪やネックレスと一緒に宝物として大事にしまわれていたのさ。
優が生まれる前、お袋さんは市民オーケストラでフルート奏者をしていたそうだ。その腕前もなかなかのもので、出産が近くなってオーケストラを辞めるときには随分、仲間に引き止められたらしい。実際、育児が一段落したらまた戻るつもりだったけれど、優がそういう体に生まれて、仕方なかったんだろうな。
彼女がオーケストラに復帰する話は立ち消えになってしまったみたいだ。
時々、家事の合間なんかにお袋さんはそのフルートを出してきて手入れをするんだ。そしてオイルを使って磨いたりなんかしているとそばで優がリクエストする。
「ママ、なにか吹いてよ」
彼女はふわっと顔をほころばせてたずねる。
「今日はなんの曲にしようか」
すると決まって優は「じゃあ、トトロにして」って答えた。
お袋さんが立ち上がりフルートを構えると優はベッドに腰をかけて短い拍手をした。オレも優の足元で背筋を伸ばして座り、拍手の代わりに尻尾を小刻みに振る。
そしてお袋さんがゆらりと波のように肩を揺らして息を吹き始めると、フルートは信じられないほど大きな音を奏でるんだ。
それは部屋中、いやドアやガラスを突き抜けて家の周りに響き渡る。近所迷惑になりゃあしないかと猫ながら心配になるほどの大きさだ。
けれどお袋さんはそんなことを気にも留めない。
それはそうだ。
彼女の紡ぎ出すフルートの音色は迷惑になんかならないのさ。
それはラジオで聞くのとは段違いに迫力があって、しかもその音を耳に入れる者すべてをうっとりとさせる力があるんだ。
それを迷惑だなんて誰も思わないさ。
ただ最初にそれを聴いた時は驚いてベッドの下に隠れてしまった。
だってそうだろう。
フルートというのはいろいろな細かな部品が取り付けられてはいるけれど、かいつまんで言ってみれば、ただのキラキラと光る銀色の細長い棒みたいなものなんだ。
そんなものから突然、部屋中のあらゆるものを振動させてしまうほどの大きな音が鳴るなんて、とても猫には想像できない。
だからオレはびっくりしてベッドの下に隠れて全身の毛を逆立てたんだ。
それを見て、優は笑った。
お袋さんも演奏しながら目で笑った。
けれどしばらくするとオレにもそれがただの大きな音でないことが分かった。
なんていうのかな。
その音色はすべて複雑に絡み合った心地よい音の集合体なんだ。
たとえば、そうだな。
ゴクラク、おまえは森を吹く抜けていく風の音を聴いたことがあるか。
ないだろうな。オレもない。まあ、でも想像してみてくれ。
風は巨木の梢を揺らし、木の葉を舞い上げ、背の低い潅木や下草をすり抜けて震わせて去っていく。そこには雑然とした様々な音があって、けれどそれらが合わさるとなにかひとつの目的を持った生き物みたいになるんだ。
フフ……白状するとな、この話、お袋さんの受け売りなんだ。
フルートの音は森を吹き抜ける風みたいなものだって。
優はそれを聞いて、その生き物ってネコバスみたいだねって言った。
オレもそう思う。
ネコバスってなんだだと?
知るかよ。
ただ同じ猫としては一度くらいは会ってみたい気もするがな。
とにかく不定期に開かれるその小さな演奏会を優もオレも楽しみにしていたんだ。
それから優の具合がいい時はネズミゲームをして遊んだ。
オヤジさんが小型の釣竿を改造したんだ。
釣り糸の先にネズミが付けてあって、それを優がベッドの上からキャスティングするんだ。
もちろん本物のネズミってわけじゃないが、よくできてた。
部屋のあちこちにビニールテープで輪っかに囲んだポイントがあって、その中に入ると点数が取れるってルールだ。大きな輪っかは点数がそれなりで、小さくなるほど高くなる。
一番難しいのは部屋の隅、タンスと壁の隙間にあった。ベッドからは見えるか見えないかギリギリのところさ。
けれど優はすぐに上手くなって、ほとんど百発百中でその小さな輪っかにネズミを入れられるようになった。
そういう才能があったのかもしれないな。
集中力だって半端じゃなかったよ。
優が丈夫な体を持って生まれてきてたら、きっと将来は名の知れたスポーツ選手にでもなっていたと思うね。
そしてネズミゲームはそこからが本番だ。
今度は優がリールを巻いて、輪っかに入ったネズミを手元まで引き寄せてくるんだ。
そのときオレはどこかに隠れている。ベッドの下とかテレビ台の後ろとか、とにかく優から見られない場所にジッと隠れておくんだ。
優はゆっくりとネズミを引いてくる。それもゲームを面白くするルールさ。
そしてオレは頃合いを見て素早く飛び出す。優はその瞬間を見計らってネズミを一気に引き上げる。
ネズミをうまく奪うことができればオレの勝ち。輪っかに入った得点はオレのものさ。
だが失敗すれば優に加算される。
面白いゲームだった。
いつも得点が競っていい勝負になった。
勝っても負けても優は笑った。オレも笑った。
ゲームを終えて疲れたら一緒に眠った。そんなときは優の寝息がちっとも苦しそうじゃなかった。
とにかく。
オレはそんな優が大好きだったんだ。
誰がために猫は鳴く 那智 風太郎 @edage1999
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