第3話 トラ猫、ヤスジロウの一生 EPI 2

 

 なんとなく気の合わない奴というのがいる。

 言葉を交わすとその何気ない一言二言が妙に受け入れられない。近くにいるとなぜだか半歩だけ離れたくなる。

 理由を聞かれるとうまく答えられないが、とにかくあまり一緒に居たくはないタイプ。

 吾輩にとってはそれがヤスということになるだろう。

 長谷川ヤスジロウというのがフルネームだが、彼はそのかしこまった名前とは裏腹になかなか破天荒な人生を送っている。


 ヤスジロウはいわゆる半野良である。

 筋骨隆々、首が太く精悍な顔つきをしているトラ猫だ。

 一応、長谷川家に飼われてはいるものの、日々そのほとんどを外で過ごし、聞くと家は餌だけのためにあると彼はいう。だから当然、その代償として怪我も病気も多くなるというわけだ。


 年の暮れのある晴れた朝、ヤスジロウがやってきた。

「よう、久しぶりだな」

 ずいぶんと年季の入ったキャリーケースから診察台へと引き出された彼は棚の上の吾輩を見つけてニヤリと笑う。

「やあ、ヤス。元気だった」

 吾輩はため息を吐きたい衝動を抑えて、そう笑顔を取り繕った。

「ああ、元気さ。この肩の傷さえなけりゃな」

 そう言ってヤスジロウが振り返り舐める部分は、楕円形に毛が抜け落ちて、そこに赤黒く変色した皮膚が開放している。

「うわ。また、ケンカしたの」

 その痛々しさに思わず吾輩は背筋の毛を逆立てた。

「最近な、新参者がうろつき始めてよ。そいつがでかい面して近所の餌場を荒らしてっからナシつけに行ったらこれだ。図体のふてえキジ猫でな、さすがの俺も往生したぜ」

 ヤスジロウは苦笑いを浮かべ、また名誉の負傷を軽くひと舐めしたが、けれど吾輩にはそれが腑に落ちない。

「なんでさ。あんたは家に帰れば食べる物あるでしょうに」

 吾輩が首を傾げると、彼は口元を不機嫌そうに歪めて、さらに尻尾の先をメトロノームのように揺らした。

「あのな、ゴクラク。そういうこっちゃないのさ。外の世界じゃあ面子ってのがあんのさ。俺はこれでもウチの界隈じゃちょっとした顔役なんだよ。自分が食えるからって放っておいていい理屈はねえのさ」

 そう言い放ったヤスジロウはなにか凄むような目つきでこちらを見上げてきたが、吾輩はあえて口を閉ざして、そっと肩を竦めた。

 ヤスジロウは毎度、ケンカ傷を膿ませてやってきてはこのように極道のようなことを言う。そして反論すれば、せせら笑いをしてお決まりの台詞を吐き捨てるのだ。

「まあ、分かんねえか。おめえみたいに幸せな猫にはよ」

 たしかにさっぱり理解できない話だ。

 もちろん吾輩にだって面子や体裁はある。たとえば媚びた猫だと思われたくはないので人間に無闇に擦り寄ったりはしないし、幽霊とはいえ縄張りに住み着いたマルタには頭を悩ませているところだ。

 けれど大怪我をしてまで守らなければならない面子などこの世にあるとは思えない。しかしそれは雄猫なら当然持ち合わせている感情で、あるいは吾輩が去勢されているせいで理解できないだけなのかもしれない。

 やはり吾輩には分からない。ただ、それについてヤスジロウと議論する気もさらさらない。

 吾輩が黙っているとヤスジロウもそれきりなにも言わなくなった。

 

 しばらくして小さな呻き声が聞こえてきたのでふたたび目を遣ると彼は殊勝にも治療に歯を食いしばっているところだった。タカトシが洗浄液でその傷口を丹念に洗うと滲みるのだろう、ヤスジロウはその度にフッフッと浅い息を吐いて堪えている。

 いつもながらこればかりはたいしたものだと感心してしまう。

 普通の猫ならとても耐えられず、発狂して診察台から一目散に逃げ出すところだ。けれどヤスジロウは何をされても平然とした顔つきのまま悲鳴ひとつ上げず、微動だにしない。その様子を見ていると、もしかすると彼なら麻酔を使わずに去勢手術だってできてしまうのではないかとあらぬ想像までしてしまう。

 だから保定要員のセリもなんだか手持ち無沙汰に、ただ形だけヤスジロウの頭が振り返らないようにその首元にそっと手を当てているだけだ。

 けれどその所作に感心はしても、称賛を送ることはできない。

 なぜなら吾輩などはこんなときにはむしろ大いに暴れてやればいいとさえ思っているからだ。

 面子や体裁がどれほどのものかは知らないが、痛いものは痛い、嫌いなものは嫌いとはっきり主張できることこそ猫の本分であるような気がする。人間などにいいようにあしらわれて黙って我慢するなど、それこそ猫のプライドを捨てる行為に思えるのだ。

 吾輩はヤスジロウとなんとなく気が合わない。

 それはきっとこのあたりがその理由なのだろう。


「ヤスくん、お利口だったね。終わったよ」

 抗生剤の注射を打ち終えたタカトシがそう声をかけるとヤスジロウはようやくひとつ大きな息を吐き、全身から力を抜いた。そして元はピンク色だったはずの煤けたキャリーケースが診察台に置かれると、中に潜り込む間際にふたたび吾輩を見上げた。

「じゃあまたな、ゴクラク」

「うん、じゃあまた。あんまり無茶しちゃダメだよ」

「ああ、分かってる」

 そしてヤスジロウは去り際に尻尾をピンと立てて帰っていった。



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