第6話 トラ猫、ヤスジロウの一生 EPI 4


 ヤスが去った後、受付から女性の慌てた声が聞こえた。そして応対したナズナが息を飲む気配がある。

「先生、急患です。ハムスターなんですが、子供さんが踏んでしまったようです」

 どうやら内線越しに話している声だ。すると天井からドスドスと大きな足音が響き、二階で学会の資料整理をしていたらしいタカトシが大急ぎで階段を駆け下りてきた。その間にナズナが診察室のドアを開けて飼い主を導き入れる。

 その騒動に吾輩が薄く眼を開けるとちょうど小さな女の子が診察室に入ってくるところだった。女の子はまだ小学校には上がっていないぐらいの年頃に見える。

 黄色い薄手のトレーナーを着たその女の子は後ろから母親に軽く押されながら診察台の前にたどり着き、胸の前で合わせた両手を覗き込むようにしてずっとうつむいている。

 そこに急ぎ足で現れたタカトシは母親と短い会話をした後、彼女の前に跪くようにしてぎこちない笑顔を作った。

「ねえ、その子、見せてくれるかな」

 どうやら少女の手の中に患者がいるらしい。女の子はうつむいたまま返事をしない。

「まゆこ、ポンタを先生に渡しなさい」

 母親が諭すように促したが、彼女は首を振った。

「まゆこ、いい加減にしなさい」

 母親が思わず語気を強めると今度はねじ切れるかと思うほどに首を振った。

 タカトシはそこで片手を上げて、なにか言い連ねようとする母親を制した。

「まゆこちゃん、ポンタくん怪我しちゃったんだよね。痛い、痛いになっちゃたんだよね。僕はね、こう見えても動物のお医者さんなんだ。痛い、痛いを治してあげられるかもしれない。だからまゆこちゃん、僕にちょっとだけポンタくん見せてもらえないかなあ」

 タカトシがそう言って少し困り顔の笑みを向けると、まゆこはうつむかせていた顔をわずかに上げてタカトシを見る。そして二、三度まばたきを繰り返してから、やがて胸に収めていた両手をゆっくりと前に差し出した。

「ありがとう、まゆこちゃん」

 タカトシはやわらかな笑顔でその小さな手のひらから茶白の小動物を丁寧に受け取ったが、直後、険しい顔になった。そして、すぐさま振り返って状況を声に出す。

「呼吸あり。けれど微弱。腹部から出血。皮膚、腹膜が裂けて腸が露出。すぐ手術室用意して。温めた生食、20ccディスポに吸って。あと5-0PDS縫合糸も用意」

 いつの間にか後ろに立っていたセリがダッシュで手術室へ向かう。そのナースシューズが床を蹴る音をナズナも追う。

「まゆこちゃん、ちょっとここで待っててね」

 タカトシは重症のハムスターを両手のひらにしっかりと包み込み、不安げな親子にもう一度無理やり笑みを向けてから踵を返した。


「ヒーター入れて」

 手術室に入るなりタカトシが抑揚を抑えた声で指示、確認を始める。

「入ってます」

 セリが答える。

「加温生食は」

「ここにあります」

 ナズナが手術台越しに返答する。

「ボスミン」

「10倍希釈で用意してます」

 もう一度ナズナ。

「オッケー。じゃ、まずは露出した臓器を洗おう。セリ、酸素と呼吸お願い」

「got it」

 セリはネイティブな発音でそう返すと、ポンタにタカトシ自作の小さな酸素マスクを被せた。


 吾輩はガラス扉ごしに手術室の中が大きく覗ける冷蔵庫の上に陣取ってその様子を見つめた。

 こういった緊急処置の飛び込みが時々ある。

 心臓を包む膜に水が溜まって心拍が弱まった犬や尿路に砂が詰まって膀胱が破裂しそうになった猫、ペットボトルの蓋を飲み込もうとして気管に詰まったラブラドルレトリバーというのもあった。

 ようするに一刻の猶予もなく、なにを差し置いてもすぐさま処置をしなければ命に関わるといった状況である。このような場合、診察時間内であって、他に順番を待っている患者がいたとしてもそちらは後回しにして処置が行われるわけだ。

 それにしても今回はそういった緊急処置の中でもかなりタイトなシチュエーションだ。

 患者はいくら大きく見積もっても体重200gはないゴールデンハムスターで、そんな小さな動物の腹が裂けて内臓が飛び出してしまっているわけで、それはつまりここから命を助けることが不可能に等しいというのは猫でも分かる理屈である。

 けれどタカトシたちはそれでも一縷の望みに賭けて、いまそのわずかな奇跡を掴み取ろうとしている。

 こういう場面を見ると吾輩はつくづく思うのだ。

 人間というのはなぜにこう愚かしくも、愛すべき動物なのかと。


 そんな吾輩の見つめる先で処置は着々と進む。

 ナズナが持つ大きな注射器から押し出される微温生食の水流を利用して飛び出した腸管や盲腸をタカトシが丹念に洗っていく。

 セリは酸素マスクを粘着テープで固定した後で、ともすればいまにも止まってしまいそうな呼吸に注意を払いながらそのハムスターの小さな体になんとか心電図の電極を取り付けた。するとすぐにモニター画面に波形が現れ、規則的な電子音が鳴り始める。

 それを確認したタカトシはヘッドライト付きのルーペを頭に装着し、極細の吸収糸を使って腹膜の縫合を始めた。ナズナはその助手を務め、次々と指示される器具を素早く手に取りタカトシに渡す。

 そしてタカトシが最後の一針を縫い終えた時、心電図モニターにはまだしっかりとポンタの心拍が波打っていた。

 緊急の処置に入ってからこの時点でおよそ十五分。

「とりあえず、あとはこの子の生命力だな」

 手術用グローブを両手から剥ぎ取ったタカトシはそう言ってフグのように頬を膨らませた。

「先生、抗生剤は」

 セリが聞く。

「フロキサシン0.05。それと乳酸リンゲル5cc皮下で」

 するとセリは早足で処置室に向かう。

「インフォームどうしますか」

 今度はナズナが聞く。

「あ、ここに来てもらって」

 ナズナが出て行き、すぐに待合室で待機していたまゆこと母親が駆けつけた。

 まゆこはすぐに手術台に身を寄せると、自家製のハムスター用酸素マスクに頭部をすっぽりと覆われたポンタを食い入るように見つめた。

「処置は無事終わりました」

「ありがとうございます。良かったね、まゆこ」

 母親は安堵の表情を浮かべ、まゆこの肩にそっと手を置いた。

「しかしまだ安心はできません。幸い腹部の臓器には裂傷や出血部位は見られませんでしたが、他の部位、たとえば胸腔内や頭部に損傷がないとは言えませんし、それにこのショック状態を脱するかどうかも五分五分だと思います。そういう状況ですので、このままお預かりして治療をさせて頂くのがベストだと思いますが」

 タカトシはよどみのない口調でそう説明し終えると、口元を引き締めて母親の返答を待った。

 手術の後、入院治療することなど人間の医療なら当然のことが、動物には当てはまらない。なぜならそこに金銭という大きな問題が立ちはだかるからだ。

 人間なら医療保険制度が適用されるところが動物の場合そうはいかない。民間の動物医療保険もないことはないが、加入している飼い主はまだまだ少数派だし、それにその掛金もバカにならないので、結局はある程度の余裕がなければ入れない仕組みになっている。

 だからこういう場合、飼い主は飼っている動物の命と自身の経済状況を天秤に掛けることになる。

「どうかよろしくお願いします。ね、まゆこ。先生にお任せしようね」

 母親は即答し、まゆこの細い肩をポンと小さく叩く。その瞬間、少女の顔がクシャッと崩れた。そして喉に吸い込んだ空気がヒューッと音を立てた後、彼女は声を張り上げて泣き始めた。

 まゆこの目からは大粒の涙がポロポロこぼれ、背中をひくつかせながら嗚咽を繰り返した。そのうちに彼女は手術台の上で静かな呼吸を繰り返しているぽんたに向けて両手を差し出した。

 母親がダメよと制する。けれどタカトシはいいですよと言って、酸素マスクを装着したぽんたを丁寧に持ち上げ、そっと彼女の両手に収めてやった。

 まゆこはぽんたに顔を埋めるようにしてワンワンと泣いた。あんな耳元で大声で泣かれては、ぽんたも目を覚ましてヒョコヒョコと起き上がるんじゃないかと吾輩は多少の期待を持って遠目に見ていたが、けれどいつまでたってもその気配はなかった。

 それからまゆこはひとしきり手術室に泣き声を響かせ、しばらくして母親に背を押されるようにして帰って行った。


 ぽんたはその後、透明のプラスチックケースに入れられ処置室のテーブルに置かれた。

 このプラケースもタカトシの自作だ。まず脇に置かれた小型の酸素濃縮機から細いチューブが繋がっていて微量の酸素が流れる仕組みになっている。またケースの下にはヒーターが置かれ、ケース内には温度計と酸素濃度計も設置されている。そこに心電図モニターを取り付けたぽんたが入れられ、まさに極小版のICUが出来上がった。

 吾輩はそのすぐそばに陣取り、心もとない速く浅い呼吸を繰り返しているゴールデンハムスターをジッと見つめた。

「ゴクラク、いたずらするんじゃないよ」

 セリが次の処置の準備をしながら、少しトゲのある声で言った。

 吾輩がジロリと睨むと、セリはフンと鼻を鳴らしてレントゲン室の方に歩き去った。

 吾輩は舌打ちの代わりに尻尾をブルンとスイングする。ぽんたがその辺の床を歩き回っているのなら、遊んでやってもいいと多少は気が向くかもしれないが、この状況でちょっかいをかけたところでなにが面白いというのか。

 それよりもぽんたが命を取り留めて、ふたたびまゆこの両手に載せられるところを想像する方が断然気分が良いというものだ。神や仏に頼むほど信心深くはないが、それでもぽんたにはなんとか助かって欲しいと吾輩なりに殊勝な気持ちで願っているのだ。

 そのようなところ俗人のセリに分かるはずもないから仕方がない。

 吾輩は気を取り直してその場に寝そべり、ぽんたに視線を向けた。


「ねえ、助かると思う?」

 しばらくして真後ろから聞こえた声に吾輩は再び顔を曇らせた。

「分からんね。分かるはずもないだろう、そんなこと」

 つっけんどんに答えるとマルタがプラケースの向こう側に回り込んで座った。見るとその顔にいつもと同じように涼しげな笑みを浮かんでいる。少しムカついて、吾輩は横を向いた。

「ところでさ、いまちょっと時間ある?」

 こいつにも吾輩の殊勝な気持ちは理解できないらしい。腹を立てるだけバカバカしいが、それでも自然、声には険が立つ。

「あるように見えるか」

「あるように見えるね」

 こいつめ。

「いそがしい」

 追い払うつもりで苦々しく言ったが、やはりマルタには通じないらしい。

「じゃあ、ちょっとだけ」

 そう言って、マルタはプラケースの上に飛び乗ると吾輩の方に首を突き出した。

「向こう行けって」

「まあ、いいじゃない。ちょっと実験に付き合ってもらうだけさ。時間は取らせない」

 マルタが青い目を輝かせる。

「実験?」

「そう。じつはね最近分かったことがあるんだ。だからその検証をね」

「なんだよ」

 鬱陶しいが少しだけ興味がそそられた。

「百聞は一見に如かずっていうじゃない」

「誰が言った」

「人間のことわざだよ。ややこしいことは何度も説明するより、一度体験すればだいたい理解できるって意味」

「それで?」

「だからね。こうするってこと」

 マルタはそう答えるといきなり吾輩の背中に飛び乗ってきた。

 そこは吾輩も猫らしくとっさに身をよじって躱したつもりだったが、どうやら上手くいかなかったらしい。すぐさま背中に重さとは明らかに異なるじんわりとした圧力を感じた。するとまもなく圧力は体全体におよび、それは巨大な手にギュッと握りつぶされるような息苦しさに変わった。悲鳴を上げようとしたが声も出ない。

 そのうちに視界が暗くなり、やがて意識の糸が切れた。

 気がつくと視界はふたたび明るさを取り戻していた。

 

「なにすんだよ、このやろー」

 マルタに悪態を吐いたが、けれど目を向けた場所には誰もいなかった。代わりに視界全体に縦横に広く張られた白い格子がある。

 呆気に取られていると、なぜだか自然と天井に顔が向いた。見るとそこも格子できっちりと蓋をされている。次に目線がなにかを探すように辺りをさまよった。けれどどこを向いても周囲はその格子で囲まれているようだった。

 ようするに吾輩は白い格子状の檻に閉じ込められているのだろう。

 マルタの奴め、悪ふざけにもほどがある。

「おい、なんだよここは」

 声を張り上げたつもりだったが、なにかおかしい。まず、いつものように声が出ている感覚がない。辺りに響いた様子もないし、第一喉を通る空気の流れがいつも通りではないようだ。

 そういえば視界もいつもよりぼんやりしているように感じるし、そもそもこの視界の真ん中にある突き出た鼻のようなものは何であろうか。それに手足の感覚さえ自分のものではないみたいに思える。

 とにかく吾輩は心を落ち着けるよう自分に言い聞かせる。

 そうしていると不思議なことにまた顔が自然と左側に動いた。

 見るとちょっと向こうに吾輩が一匹そのまま載せられるほど大きくて白い陶器の皿がある。そこにはやはりこれまで見たこともないような、きっといくつかに割らなければ口に入れられない程大きな粒のドライフードが平たく盛られていた。

 またそのすぐそばにそれよりかいくぶん小振りの深緑色のやはり陶器の鉢が置かれ、そこには白黒の縞が入った巨大な木の実のようなものがいくつか載せられていた。

 それが自分に充てがわれた食い物であるとなんとなく分かったが、このようなものどうやって食えというのだろう。

 さらにそれらの奥には巨大な円板状の滑車が宙に浮いて見えた。そしてその横には透明なプラスチック製のトンネルが口を開けている。それらはすべて格子に取り付けられているのだろうが、その用途は全くもって想像もつかない。たとえば拷問や猫体実験に使われるものだと説明されてもなんら違和感はない。得体の知れないその機具はそのようになんだか不穏な雰囲気を醸し出していた。

 吾輩がひしひしと戦慄を感じていると、ふたたび自分の意思に反して今度は体が前方に移動した。

 その動きもやはりおかしい。

 なぜだろう吾輩の顎の下にすぐ床があるのだ。けれど床を這いつくばっている割にはその移動スピードが速い。アッと言う間に先ほど見ていた陶器の鉢のそばにたどり着き、そして信じられないことにさらに意識に反して白黒縞の巨大な木の実に吾輩は噛り付いた。

 無茶苦茶だ。

 吾輩は何者かに体を乗っ取られてしまったのかもしれない。そう考えて、やめてくれとその誰かに懇願したが無駄だった。

 次の瞬間、バキバキという激しい破壊音が吾輩の口先でひとしきり鳴り響いた。そして音が止むと今度はその口元に手先が差し出された。

 もちろん吾輩の意図した動作ではなく、現れた両の手指はやはりどう見ても吾輩のものではなかった。その明らかに不器用そうなずんぐりとした短い指と手は、けれど案外そつなく木の実の殻をつかみ口の外に放り出した。しかもだ。取り出した中身は喉ではなく、頬の内側の方に滑り込んでいったようだ。

 その頃になって吾輩は自身がどういう状態にあるのか、ようやく検討がついてきた。そう考えが至ってよくよく冷静に見てみると、なんのことはない、木の実というのはひまわりの種だし、大きな円板状の滑車はたしか回し車というやつだ。

 診察室で何度もこれと同じものを見たことがあった。要するに吾輩を囲んでいる格子はハムスターケージなのだ。

 吾輩は何者かに乗っ取られたわけではない。逆に吾輩が何者かに憑依しているのだ。

 いや、けれど体の支配権は吾輩にはないようだ。憑依というより、ただ単に乗っているという感覚だ。つまりテレビなどでよく見る遊園地のアトラクションとかいうやつに近い。

 しかもこの状況から判断して十中八九その何者かとはさっきまで吾輩の目の前で意識不明で横たわっていたあのぽんたなのだろう。

 もちろん仕掛けは分からない。けれどこれがマルタが口にした実験に違いなかった。

 マルタのやつめ。さすがはものの怪の類だ。

 吾輩は腹が立つのを通り越して、むしろ感心してしまっていた。

 

 ぽんたはというと、バリバリバキバキとひまわりの種を噛み砕き、せっせと頬袋に溜め込んだ。

 しばらくしてようやく種に飽きたぽんたは格子にぶら下げられたボトルから水を飲み、今度は回し車に向かった。

 その成り行きにうんざりしたが体の自由は吾輩にないのだから仕方がない。ぽんたが乗り上がるとプラスチックの滑車は不穏に前後に揺れた。そして彼が短い手足を繰ると滑車は途端に轟音を上げて回り始めた。

 スピードが上がると足元は残像で霞み、恐怖感とともに無重力の宇宙に放り出されたような感覚に陥った。

 そのうちに、もうどうにでもなれと自暴自棄になっていると突然視界がぐるりと一回転して、さらに半回転してボテっと背中から落ちた。

 痛くはなかったが、なぜだろうか、代わりになにかとても不名誉な気分になった。

 ぽんたはめげもせず次に透明トンネルに向かう。トンネルは入るとすぐに九十度カーブしてケージの外に出る仕組みになっていた。

 ぽんたが滑るようにその中を進むとプラスチックの壁の向こうにぼんやりと歪んだ景色が流れた。

 大型のテレビや黒っぽい色をしたソファらしきものがあるところを見るとどうやらケージはリビングに置かれているようだ。

 やがてぽんたはその途中で足を止めた。フンフンと顔を上向かせると、いきなりその鼻先の壁がふわりと浮いて去って行った。

 そして目の前にまゆこの顔があった。

 まゆこはにんまりと笑い、そのうちにぽんたをその手に誘った。するとぽんたは心得たとばかりにそそくさとその手に乗り、そのまま持ち上げられた。体がふわりと浮くとまゆこの嬉しそうな片目が近付いてきた。真横からスッと巨大なビスケットのようなものが現れ、ぽんたはすぐさまそれを口に入れた。

「いい子だねえ、ぽんた」まゆこはそう言うとぽんたの背中を優しく撫で始めた。

 視界がゆっくりと閉じる。気持ちが良くてぽんたが目を細めたのだ。

 するとなんだか吾輩までうっとりとした良い気分になった。

 そして心の底にポカポカと温かい陽だまりのような場所が産まれた気がした。


「ねえ、どうだった」

 その声に我に帰るとマルタが覗き込むように顔を近づけていた。吾輩は思わず仰け反り、そして周囲を見回した。

 そこは病院の処置室であり、ぽんたはプラスチックケースの中で横たわり、浅い呼吸を繰り返していた。胸に軽い安堵と不可解な嫌悪感がないまぜに立ち込めた。

 吾輩はしばらく呆然とぽんたを見つめ、やがてひとつ小さなため息をついた。

「記憶に潜り込んだってわけか」

「まあ、そうだね」

 マルタが平然と認める。

「悪趣味だな」

 そっぽを向いて言葉を吐き捨てる。マルタの能力を賞賛する気持ちは既に萎えていた。

 やはり平坦な調子でマルタが言った。

「まあ、そうかも」

 つかの間、沈黙が流れた。酸素濃縮機のモーターとぽんたの心拍を拾う心電計だけがあくせく働いて音を出している。

 生死を彷徨っているぽんたの命そのものを冒涜する行為だった。

 だから嫌悪感が胸に膨らみ続ける。

 他人の記憶に入り込めるというのは確かに驚くべき奇跡だが、はたしてそれになんの意味があるというのだ。

 了承も得ずにそのようなことをされれば、誰だって立腹するだろうし、人間の世界ならきっと犯罪にさえ当たるだろう。それを文句を言いたくても言えない瀕死の状態であることをいいことにやってしまった。

 自分の意思ではなかったとはいえ、その状況をまさしくアトラクションのように少なからず楽しんでしまったことも事実だ。

 吾輩は猫であるが、人間と同じ倫理観は持っていたいと願っている。だから今そこに強い後悔が生じている。

「もうあんなことはするな」

 振り返って強い視線をマルタに向けると、彼のオッドアイがそれをまともに受け止めた。そして飄々とした顔で言う。

「ねえ、キミは自分の存在する意味ってなんだと思う」

 思わずたじろいでしまった。マルタの瞳は吾輩のそれ以上に強い力をはらんでいた。

 吾輩が黙っていると、彼は表情を和らげて言葉を続けた。

「ごめん、愚問だった。キミの存在意義をいまさらあえて言葉にする必要なんてなかったよ。キミがここに居てくれないと困る者がたくさんいるからね。もしいまキミが急にいなくなったとしたら多くの人や動物が悲しむだろうし。あ、念のため言っておくけど僕だってその一人だと思う。まあ死んでるから一人と数えるかどうかは別にして」

 そう言ってニヤリと笑うマルタの顔を見ながら、またしても吾輩は黙り込むしかない。

 一方でそうだろうかと自問する自分がいた。吾輩がいなくなれば周囲の人や動物は本当に悲しんでくれるのだろうか。

 そしてふと思い出したのは、蛇の事件で目を覚ました時に見たタカトシとセリとナズナの顔だった。

「でも僕はどうなのかな」

「そりゃあ……」

 反射的に答えようとして言葉に詰まった。

「だよね。だって僕、もう死んでるわけだから」

「いや……」

「気にしないでいいよ。僕の姿って見えないから、いまここで消えてしまったとしても誰も困らないし、悲しまない。もちろんキミ以外はってことだけど」

「えっと……」

 吾輩は少なからず動揺した。

「だから無理しなくていいって。だってキミ、早くあの世に行けってことあるごとに言うもの。それが本心でしょ」

 さすがにバツが悪くなりわざとらしく右手で顔を洗うとそれを見てマルタがまた笑った。

「じゃあさ、だとしたら僕はなぜここにいるんだろう」

 左右の色が違う彼の瞳はその答えを探してか、ゆらゆらと動き始めた。

「さっきのだってキミにとってはただの悪趣味な能力でしかないだろうね。だけどそれが僕がここに留まっている意味なのかもしれない。そう考えられないかな」

 少しマルタに同情した。たしかになんの意味も持たずに亡霊として浮遊するというのは考えてみるとかなり辛いことなのかもしれない。

「しかしなあ、他人の記憶を勝手に盗み見るっていうのはちょっと……」

 やはりそこだけは譲れない気がした。するとマルタは焦点をスッと持ち直して吾輩に向けられた。

「ただの記憶じゃないんだと思う。だって試しに何度かキミやローズさんの記憶に入り込もうとしたけれど、結局無理だったから」

「げっ、いつのまに。貴様」

 憤慨するとマルタがうんざりした顔つきになった。

「だから、無理だったって。いちいち怒らないでよ」

「だとしたらなんで……」

 そこでぽんたに目を向けた吾輩はハタと気がつく。そしてその後の言葉を飲み込んだ。マルタがゆっくりと頷いた。

「人は死ぬ前に過去の記憶をずらりと呼び起こすって話、聞いたことないかな」

「走馬灯……」

 テレビドラマだったか、人間はそれをそう呼んでいた。

「そう。動物もそうみたい」

「じゃあ、ぽんたは……」

 吾輩は忌むべきことを恐る恐る口にする。

「うん、残念だけど、そういうこと」

 答えたマルタの瞳がスッと天井に向いた。


 それから数時間が経った頃、ぽんたの心臓はその動きを止めた。

 ほどなく飼い主の母娘がぽんたを迎えにやってきた。

 母親は神妙な顔で何度もタカトシたちに礼を言い、まゆこはその傍らでずっとうつむいて黙って嗚咽を堪えていた。

「ごめんね、まゆこちゃん。先生、助けてあげられなかった」

 タカトシは神妙な顔つきをしてまゆこの前で中腰になった。ぽんたの遺骸は光沢のある白い布で包まれていた。タカトシはそれを両手に載せてまゆこの方に差し出す。けれどまゆこはうつむいたままだ。

「まゆこ、ぽんたを連れて帰ってあげようね」

 ときおりしゃくりあげるまゆこの背中に母親がそっと手を当てると、彼女の両手がゆっくりと持ち上がった。タカトシはそれでもまだうつむいたままのその手にぽんたを慎重に移し替えた。

 するとまゆこはようやく顔を上げ、自分の手のひらにある白い布の膨らみにしばし視線を向けた。

「ごめんね……ごめんね……」

 まゆこの頬にいくすじもの涙がとめどなく流れていく。やがて彼女はぽんたの膨らみに頬を寄せ、そしてまた何度も謝罪の言葉をつぶやいた。

 病院のエントランスから出て行くその母娘を全員で見送った。

 吾輩の横にはマルタもいて、彼らの乗った軽自動車が駐車場から出て行ってもしばらくぼんやりと外の景色を眺めていた。いつにまにか雨は上がり、茜色に染まった飛行機雲が西の空に一条流れている。

「意味、か」

 マルタがポツリとつぶやいた。その言葉に彼は彼なりにもがいているのだとようやく理解できた気がした。

 そして不意にぽんたと共有した温かな感情が蘇った。

「ぽんたは幸せだったと思う」

 思わずそんなありきたりなセリフが口をついて出てしまった。けれどそれは無責任な表面だけの言葉ではなかった。言葉通り身をもってぽんたの記憶を体験したからこそ言える実感だった。

 マルタがこちらを向いてフッと笑った。

「なんだよ」

 なんだかバカにされている気がして彼を睨んだ。

「別に、なんでも」

 マルタははぐらかすように答えて、また窓の外の景色に目を向けた。

 吾輩たちはそのまましばらくの間、ずっとそこで夕暮れの空を見つめていた。

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誰がために猫は鳴く えだげ院長 @edage1999

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