第5話 トラ猫、ヤスジロウの一生 EPI 3

 優は鼻にチューブを付けていた。なんでもそうしておかないと自分の呼吸だけじゃ苦しくなってしまうらしい。

 チューブは四角い器械につながっていていつもシューシュー音を出す。

 最初の頃はその音が怖かったが、すぐに慣れた。

 チューブで遊んでいるとお袋さんに怒られたことがある。

 その様子を見て優は笑ってた。

 よく笑う子でね。それでオレたちはすっかり仲良くなった。


 日中はほとんどの時間、部屋にラジオが流れていた。

 いつもはFMだったが、番組によってはAMにチューニングされたりした。小型のテレビがあったが、仕事から帰ってきたオヤジさんがたまにスポーツニュースを見るぐらいでほとんど使っていなかった。

 お袋さんは優がテレビばかり見る子供にはなってほしくなかったのかもしれない。

 だって、そうだと思うよ。日がな一日、目的もなくぼんやりテレビ画面を見ている子供っていうのは猫から見ていてもちょっと気持ち悪いからな。

 

 ラジオからはクラシック音楽がよく部屋に流れていた。

 クラシック?

 オーケストラとか管弦楽団とか、そういうヤツだ、知らないか?

 モーツァルトとかバッハとか……。

 ふーん、そうか。とにかくたいていラジオからはそういう音楽が流れていた。

 

 お袋さんはそういう音楽が好きだったんだ。

 ところでフルートっていう楽器を知っているか。金属でできた横笛だよ。

 お袋さんはそれを持っていて、家にひとつだけあるタンスの一番上の引き出し、そこに小さな宝石の付いた指輪やネックレスと一緒に黒の革張りのケースに納められて、そういう風にフルートは宝物として大事にしまわれていた。

 

 優が生まれる前、お袋さんは市民オーケストラでフルート奏者をしていたそうだ。

 その腕前もなかなかのもので、出産が近くなってオーケストラを辞めるときには随分、仲間に引き止められたらしい。

 実際、育児が一段落したらまた戻るつもりだったけれど、優がそういう体に生まれて、仕方なかったんだろうな。彼女がオーケストラに復帰する話は立ち消えになってしまったみたいだ。

 

 時々、家事の合間なんかにお袋さんはそのフルートを出してきて手入れをするんだ。そしてオイルを使って磨いたりなんかしているとそばで優がリクエストする。

「ママ、なにか吹いてよ」

 彼女はふわっと顔をほころばせてたずねる。

「今日はなんの曲にしようか」

 すると決まって優は「じゃあ、トトロにして」って答えた。

 お袋さんが立ち上がりフルートを構えると優はベッドに腰をかけて短い拍手をした。オレも優の足元で背筋を伸ばして座り、拍手の代わりに尻尾を小刻みに振る。

 そしてお袋さんがゆらりと波のように肩を揺らして息を吹き始めると、フルートは信じられないほど大きな音を奏でるんだ。

 それは部屋中、いやドアやガラスを突き抜けて家の周りに響き渡る。

 近所迷惑になりゃあしないかと猫ながら心配になるほどの大きさだ。

 けれどお袋さんはそんなことを気にも留めない。

 それはそうだろう。

 彼女の紡ぎ出すフルートの音は迷惑になんかならないのさ。それはラジオで聞くのとは段違いに迫力があって、しかもその音を耳に入れる者すべてをうっとりとさせる力があるんだ。それを迷惑だなんて誰も思わないさ。

 ただね、恥ずかしい話だが、最初にその音を聴いた時、思わずオレは驚いてベッドの下に隠れてしまった。

 フルートというのはいろいろな細かな部品が取り付けられてはいるけれど、かいつまんで言ってみればただのキラキラと光る銀色の細長い棒みたいなものなんだ。

 そんなものから突然、部屋中のあらゆるものを振動させてしまうほどの大きな音が鳴るなんて、とても猫には想像できない。

 だからオレはびっくりしてベッドの下に隠れて全身の毛を逆立てたんだ。

 それを見て、優は笑った。

 お袋さんも演奏しながら目で笑った。

 けれどしばらくするとオレにもそれがただの大きな騒音でないことが分かった。なんていうかな。その大きな音はすべて複雑に絡み合った心地よい音の集合体なんだ。

 たとえば、そうだな。ゴクラク、おまえは森を吹く抜けていく風の音を聴いたことがあるか。

 ないだろうな。

 オレもない。

 まあ、でも想像してみてくれ。風は巨木の梢を揺らし、木の葉を舞い上げ、背の低い潅木や下草をすり抜けて震わせて去っていく。

 そこには雑然とした様々な音があって、けれどそれらが合わさるとなにかひとつの目的を持った生き物みたいになるんだ。

 フフ……白状するとな、この話、お袋さんの受け売りなんだ。フルートの音は森を吹き抜ける風みたいなものだって。

 優はそれを聞いて、その生き物ってネコバスみたいだねって言った。

 オレもそう思う。

 ネコバス?知らないな。会ったことはない。

 同じ猫としては一度くらいは見てみたかったが。

 とにかく不定期に開かれるその小さな演奏会を優もオレも楽しみにしていたんだ。


 優の具合がいい時はネズミゲームをして遊んだ。

 オヤジさんが小型の釣竿を改造したんだ。

 釣り糸の先にネズミが付けてあって、それを優がベッドの上からキャスティングするんだ。

 もちろん本物のネズミってわけじゃないが、よくできていた。

 部屋のあちこちに輪っかで囲んだポイントがあって、その中に入ると点数が取れるって仕組みだ。

 大きな輪っかは点数がそれなりで、小さくなるほど高くなる。

 一番難しいのは部屋の隅、タンスの脇の隙間にあった。

 ベッドからは見えるか見えないかギリギリのところさ。

 けど優はすぐに上手くなって、ほとんど百発百中でその小さな輪っかにネズミを入れられるようになった。そういう才能があったのかもしれないな。

 集中力が半端じゃなかった。

 けれどネズミゲームはそこからが本番だ。

 今度は輪っかに入ったネズミを手元まで引き寄せてくる。

 オレはどこかに隠れている。

 ベッドの下とかテレビ台の後ろとか、とにかく優から見られない場所にジッと隠れておくんだ。

 優はゆっくりとネズミを引いてくる。

 それがルールさ。

 オレは頃合いを見て素早く飛び出す。

 優はその瞬間を見計らってネズミを一気に引き上げる。

 ネズミを奪うことができればオレの勝ちさ。

 輪っかに入った得点はオレのものさ。できなければ優に加算される。

 面白いゲームだった。

 いつも得点が競っていい勝負になった。

 勝っても負けても優は笑った。

 オレも笑った。

 ゲームを終えて疲れたら一緒に眠った。

 そんなときは優の寝息がちっとも苦しそうじゃなかった。

 オレはそんな優が大好きだった。

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