第4話  閑話休題 猫の外出について

 えー、コホン。

「家猫の外出、そのメリット、デメリットについて」

 こういうとまるで学会論文のテーマのようだが、まあたいしたことはない。

 まず家猫が外出するメリットだが、吾輩の考えるところこれはほとんどない。まあ、ただ強いて挙げればそれは『自由』という一点に尽きる。確かに自分の足で気の向くままどこにでも行くことができる、そういう『自由』は魅力的に思える。

 たとえばの話。

 今日は天気がいいから近くの公園に行ってのんびり木陰で昼寝でもしよう、そう考えた猫がいたとしてそれが室内飼い猫だった場合、ああ自分は外に出られない猫だったのだ、自分は一生涯外に出て木陰で昼寝などできない、いわば囚われの猫なのだと悲嘆に暮れる。そしてその猫の目前を外飼い猫が悠々と塀の上を歩いていく。そういう図を思い浮かべてやはり『自由』こそ猫には必要であると力説する室内飼い猫というものはまずほとんどいないように思う。

 少なくとも吾輩はそうだ。

 だって考えてもみてごらんなさい。ここから公園の木陰に至るまでにいったいいくつのリスクが待ち構えているのかということを。

 まず真っ先に道路の横断という一か八かの文字どおり命がけの試練がある。

 自動車を運転する人間たちは子供やお年寄りの急な飛び出しには一応気をつけているが、どうやら猫の急な飛び出しにはほとんど注意を払っていないらしい。

 それゆえにこのなつめ動物病院にも交通事故に遭ってしまった猫たちが時々連れられてくる。

 足の骨折程度ならなんとか手術をして治せるが、背骨や骨盤の骨折では治療しても完治しないことも多く、また衝撃で胃や肝臓や腸が胸腔内に入り込んでしまう横隔膜ヘルニア、脾臓破裂、膀胱破裂のように大いに命に関わる状態に陥ってしまうことがある。

 けれどそんなのはまだマシかもしれない。

 交通事故に遭った猫に一番多いのは即死だ。

 そりゃあそうだと思う。あんなにデカい金属の塊とたかだか数キログラムの我々猫族がぶつかったとして命がある方が不思議なのだ。しかも黒くて丸くて回転するあのタイヤというやつの下敷きになったら死なない方がおかしい。

 そういえば吾輩の近くにもマルタという生き証人がいるではないか。

 いや実際には死んでいるから死に証人とでもいうのか。

 まあよく分からないが、とにかく無事で済むわけがないことはよく理解できるだろう。

 

 それに外には他にも危険がある。

 ノミという小さな昆虫もそのひとつだ。

 じつは吾輩もその被害にあったことがある。

 あれは去年だったか、残暑厳しいある日のこと吾輩がいつものようにこの診察室の棚の上で昼寝をしていると診察台から悲鳴が聞こえた。

「ヒーッ!センセーッ!ノミノミノミノミノミノミ……」

 重い瞼を開いて下を覗くと髪を金色に染めた若い女が身をよじるようにして壁に背を押し付けていた。そして彼女の指差す先に視線を移すと診察台にはまだ生後二ヶ月というところの白猫がいてその後ろ足で忙しなく耳や首など掻いている。

 タカトシは少しばかり眉間に皺を寄せて、けれど「大丈夫ですよ、ハハハ」などとやや無機質な笑い声を搾り出しながら、仔猫にしきりに手に持ったスプレーを浴びせていた。

 ノミ、マダニ専用の殺虫スプレーはこういうときのために常備してある。ちなみに動物には悪影響はないというが、好き好んでアルコール臭いスプレーを振り掛けられたくはないから、吾輩はもっぱらひと月に一回のスポットタイプを使っている。

 そのあとで交わされていた会話から事情を察するにおそらくその金髪の女はどこぞで孤児になっていたその仔猫を衝動的に保護したのだろう。

 そこでとりあえず病院に連れてきたのだが、いままで胸元に抱きかかえていた仔猫を診察台に載せてよくよく観察したところ、その体表を這い回る微小な虫が無数にいることを発見し、怖気に任せて取り乱したところだったというわけだ。

 

 まあ、よくある話で珍しくもないが、それよりもなぜ年若い人間どもは時としてこのように髪の毛の色を変えたり、眉毛を一本線のように細くしたりするのだろうかと、吾輩にとってはそちらの方が多いに関心がある。

 しかもそういう人間に限ってたとえばこの女のように黒いスウェットの上下など、まるで部屋着のようなものを身につけてやってくるのだ。

 多分アレはそういう部族なんだなと吾輩は検討を付けている。

 じつは日本人も単一ではない複数の部族で構成されていて、奴らもその一部族であるという考察だ。そういえば彼らはジャネとかガチとかヤバとかちょっと耳触りの良くない言葉を会話のあちこちに散りばめる傾向があるようだから言語としても日本語の亜種ということなのかもしれない。

 実際、この女も騒動の途中で「ノミトカ、ヤバ、ガチハンパナクネ」と手や足を掻きむしりながら、およそ言語学者が目を白黒させそうなセリフをガムでもかんでいるようなネチっこい口調でいく度も吐いた。


 話を戻そう。

 吾輩はひとしきり仔猫ノミ騒動を彼らの頭上から眺めていたが、そのうちに飽きてまたウツラウツラとうたた寝を始めた。

 そして気がつくともう昼時になっていたから二階の自室に戻ろうと棚から降りて階段の方までやってきたところ、なんだか首筋のあたりがムズムズとした。

 そこで後ろ足で掻いてみるとムズムズは治まったが、また階段を二段ほど登ったところで今度はヒゲのあたりがムズムズとする。

 イライラしてもう一度掻いてみるとそのとき口元のあたりから前方になにかが弾き出されて吾輩の鼻先に落ちた。それはゴマ粒ほどの黒い点状物体でなにかの汚れだろうかと思って見ているといきなり跳ね上がってどこかに行ってしまった。

 吾輩の背筋に冷たい波動が走る。もしやこれはさっきの仔猫が落としたノミが吾輩に取り付いてしまったということかと思考が解答を得たときにはもう遅かった。ムズムズは吾輩の全身いたるところに発生していた。

 耳の後ろ、脇の下、腹、尻尾の付け根、とにかく様々な場所でそれは同時多発的に吾輩を攻撃し始めたのである。

 普段は思慮熟考がモットーの吾輩もこの時ばかりは取り乱してしまった。半ばまで登った階段を駆け下りてノミどもを体表から振り離そうと全速力で駆けた。

 後ろ足を何度も滑らせ空回りさせて角をようやく曲がり、ギアを最大限に上げてトップスピードで走る。

 しかしムズムズはまだ続いている。

 吾輩はそのスピードを保ったまま処置室を何周も駆け回り、そして最後に勢い余って手術室の透明なガラス扉に正面から思い切りぶつかってしまった。

 そして吾輩の世界は一瞬にして闇となったのである。

 ふたたび気がつくと目の前にセリの顔があった。

 ああ、そういえばこいつの眉毛も細めだなあ。髪は金髪ではないが、少し茶色だなあ。きっと年を取ったから部族から締め出されたのだなあ、などと未だはっきりしない頭で考えているといきなり首元に冷たい液体を浴びせられて吾輩は飛び上がった。

「こら、おとなしくしてなさいよ、ノミラク」

 セリはそう言いつつ片手で吾輩を押さえつけ、シューシューと音をさせてスプレーを浴びせかけてくる。

 そしてノミラクとはなんぞやと文句を言う暇もなく、吾輩はあっという間にアルコール臭い猫になってしまった。

「わあ、貧相な猫」

 セリは濡れ鼠のようになった吾輩を見て笑った。

 おまえがやったくせに何を言うか。

「それにしてもよく気絶する猫だねえ、ハハハ」

 うるさい。たった二回だ。しかも一回目はおまえのせいだろうが。

 もちろん言い返しても通じる訳もなく、代わりに飛びかかって顔でも引っ掻いてやろうかと思ったが、残念なことにその時はまだ足元に十分に力が戻ってはいなかった。

 吾輩は悔し涙を飲んだ。

 比喩ではない、本当にアルコールの揮発刺激によってまぶたを涙で濡らしていたのだ。そしてその滲む視界の中に高笑いで去っていくセリの背中をジッととらえている他はなす術もなかった。

 畜生め。思い出すとまた腹が立ってくる。

 とにかく吾輩のノミ寄生の記憶はこういう憎々しいものである。

 そして要するになにが言いたいかというと外にはこういう悲劇を引き起こすノミという凶悪な昆虫がウヨウヨいるということ。だからとても危険だということを力説したい。

 

 そしてもうひとつ、外にはウイルス感染という厄介な問題も潜んでいる。

 ウイルスという微生物はノミはおろか細菌よりもさらに小さい生命体で、もちろん到底目に見えるような代物ではない。

 だから、たとえヒョンなことから口や鼻の中に入ってしまっても気付くことはないが、けれど小さいからといって決して甘く見てはいけない。

 例えばネコカリシウイルスというのがある。

 こいつは重度の口内炎を起こす。

 吾輩は何度かタカトシが開けたネコの口を遠目に覗き込んだことがあるが、これは酷い。

 とにかく口の中のいたるところが真っ赤にただれて血まで出ていることがある。しかも舌の上に円板状の潰瘍を作っていたりしてその痛みたるや想像を絶する。

 いや吾輩は幸いにもそういう状態になったことはないが、想像するだけで恐ろしい痛みを発することは分かる。

 もちろんそうなってしまった以上、その猫はモノを食するなど言語道断。

 口を開けることすらままならず唾液も飲み込めないためヨダレをダラダラと流して、空腹及び脱水症状で病院に担ぎ込まれるという惨状となる。

 さらにカリシと一緒になって悪さをするヘルペスウイルスという奴もいる。こいつはいわゆるネコ風邪を引き起こすようだ。

 クシャミ、鼻水、鼻づまり、目ヤニ、発熱、ときには嘔吐や下痢など本当に人間の風邪と同じような症状を起こしてしまう。

 幼少期にかかってしまうと命取りになることもあり、何を隠そう吾輩もこの病気にかかっていたわけだ。吾輩はなんとか助かったが、外で暮らす猫たちにとっては悪夢の病だろう。

 ほかにも猫白血病ウイルス、猫エイズウイルス、猫パルボウイルス、etc,etc……。簡単に命を奪ってしまうウイルスが外の世界には数多蔓延っている。

 もちろん病院にはそのようなウイルス性疾患に罹った猫がたくさん来院するわけであるから吾輩がいるこの場所も決して大丈夫であるとは言い切れないのだが、それでも年一回のワクチンをきちんと接種し、危険な患者とはできるだけ接触しないように気をつけていればさほど心配することはない。やはり外の世界よりは断然安全といえる。


 外に出るとは自由な行動と引き換えにこのようなリスクをいくつも引き受けなければならないということである。

 それは例えば人間が予備知識と装備なしでアマゾンの奥地に単独で乗り込むようなものかもしれない。

 そこにどんな意味があるというのだ。

 外にしか居場所がない気の毒な猫は別にしても、たかだか木陰での昼寝のために、快適さを捨て、命を投げ出すことはない。

 だから吾輩は家猫の外出禁止令というような条例を関係諸機関から発布してもらいたいと思っている。

 実際、タカトシなども猫の外出を許している飼い主には口を酸っぱくしてその旨を伝えているわけで、もし草案をまとめよということであれば吾輩が一肌脱ぐのもやぶさかではないと考えている。

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