第3話 トラ猫、ヤスジロウの一生 EPI 2

その日は、ヤスジロウがやってきた。


 まだ梅雨というわけでもないのに、雨のゾウゾウと降る日で彼はいつものように飼い主の片手にぶら下がるキャリーケースに入れられていた。

 順番が来て呼ばれ、診察台に載せられると、ヤスジロウはキャリーケースの中から警戒した視線で辺りを窺った。そしてようやくそろりと出て来たところで水滴を踏み、驚いてその前足を上げる。

「どうした、今日は」

 吾輩が頭上から声をかけると彼はビクリと体をこわばらせた。そして思い出したように肩の力を抜いてから、さもつまらなさそうな視線を寄越す。

「べつに、どうもしない」

 いじけた口調だった。

「どうもしないってことはないだろう。病院に来てるわけだから」

「関係ないだろ、おめえには」

 彼がふてくされた顔を横に向けると、その傍で飼い主の長谷川がタカトシに状況を伝えた。それによるとどうやらヤスジロウはここ数日、やたらと吐くのだという。

「あんた、さては何か変なもんでも食ったか」

 よくいるのだ。

 猫じゃらしの先っぽ、長い紐、いつだったかトイレの便座シートを齧って具合が悪くなったものもいた。

「おおかたゴミ箱でも漁ったんじゃあないのかい」

「はん、生後半年のガキじゃあるめえし、そんなことするかよ」

 ヤスジロウは薮睨みに吾輩を見上げる。

「それじゃ、何食ったんだよ」

「なにも食っとらん」

 そう不機嫌極まりない口調で反論した矢先に、彼はナズナに連れて行かれた。

 

 ヤスジロウはこの春に三歳になった雄のトラ猫である。

 吾輩と同い年だからそれで気が知れるかというとそうでもない。話しかけても終始つっけんどんで不機嫌な返事をするか、自分勝手な自慢話をするばかりであまり面白くない。

 けれどだからといって話し掛けなければ、あのゴクラクって奴は愛想のない猫だとか、スカしているだとかちょっと気分の悪くなるようなことを診察後に待合室でボソボソと拡散するものだから始末が悪い。

 

 飼い主の長谷川は少しばかり腹の出た中年の男だ。以前ヤスジロウに聞いたところ、何年か前に嫁さんに出て行かれてしまったそうで、いまは小さな借家でヤスとの二人暮らしということだった。もちろん人間にとっては猫は猫で人の数には入らない。


 その長谷川はタカトシからの再三の忠告も聞かず、ヤスジロウを外に出すものだから、彼はいわゆる半ノラのような生活を送っている。そういうわけで度々喧嘩による生傷を身体のあちこちに作っては病院にやってくる。


 吾輩からしてみればそれは決して自慢するような境遇ではないはずだが、ヤスジロウはそのことにある種の誇りを持っているらしく、診察台に乗るたびに吾輩に外傷を見せびらかしてはその武勇伝を活き活きと語る。

「最近の若え奴は性根が座ってねえな。ちょいと爪が刺さったぐらいでも跳び上がって逃げて行きやがる」

「おれの縄張りに図体のでかいキジ猫が入ってきやがってな。そんで挨拶がてらに一戦やったら、すぐに尻尾を下げて謝りやがった」

 そんな風に威勢のいい話をするわりには、いつも結構な大怪我をしてやってくる。その大半の傷が尻尾や太ももにあるところを見れば、それが逃げたところを追われて噛みつかれた傷だということは誰が見ても明らかだったが、あえてそのことには触れないでやっておく。

 武士の情けだ。吾輩は心の広い猫なのだ。

 

 しばらくして帰って来たヤスは、なかば放心したような目で吾輩を見上げた。

「おい、ゴクラク。なんだ、さっきのアレは。暗い部屋に連れ込まれてよ。そんでいきなり手足を抑えられてガチョンとでかい音がしてよお」

 説明しているうちに恐怖が蘇ったのかヤスジロウは毛を逆立ててブルンと大きく身を震わせた。

「レントゲンだろ。あんたの体を透かして写真を撮ったんだよ」

「透かして?」

 ヤスが素っ頓狂な声を上げると長谷川が慌てて「ヤスジロウ、静かにしなさい」とたしなめる。

 身を縮めた彼はおどおどと自分の腹の辺りと吾輩を交互に見遣る。

「大丈夫だ。透き通るのは一瞬でそのままってわけじゃない」

 小声で教えてやると、けれどヤスジロウは非難がましい目線を吾輩に向けた。

「なんでそんなことをするんだよ、危ねえだろ」

「あんたが胃に詰まるような物を食べてないか、調べたのさ」

「だから食ってないって言ったろ、さっき」

「知らないよ。そういうことは人間にいいなよ」

 全く相手にしていられない。吾輩はそう言い捨てて、そっぽを向いた。するとしばらくして卑屈な感じの笑い声が聞こえてきた。

「ゴクラク、てめえ担いだんだろ」

 再び目を向けるとヤスジロウは診察台から我輩を睨み上げていた。

 吾輩は短くため息をつき、おもむろに尻尾を垂らして指し示した。

「本当だよ。見てみな。ほらそこ、あんたの骨が写ってるから」

 吾輩が壁掛けのモニター画面を指し示すと、彼はおそるおそるといった風に視線を移動させる。そして写し出されている骨格をしばし見つめ、奇妙な声を出した。

「ケケケ……。おい、てめえ、よほど暇なんだな」

「は?」

「これがオレの骨だって証拠がどこにある」

 ヤスジロウは鬼の首でも取ったように胸を張った。

「証拠?」

「そうだ。こんな手の込んだ仕掛けで具合の悪い猫を脅かしてそんなにおもしれえか」

 どうやら彼はこれがいたずらの類だと思い込んだようだ。

「おい、ゴク。おめえも一度くらい外に出てみたらどうだ。他猫をバカにして笑うより、面白いことがいっぱいあるぜ。まあ、多少の危険もあるがな。ケケケ」

 横柄な口調を聞くと吾輩はもうどうでもよくなって、座布団に丸くなり軽くため息をついた。

 レントゲン検査の結果、特に異常は見当たらなかったらしい。

 嘔吐物に血液が混じるわけでもなく、この通り大きな声を出して鳴くこともできる。

 また食欲も通常通りあることからヤスは胃炎と仮診断され、とりあえずは経過観察ということで胃薬を処方されて帰って行った。

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