第2話 ヤスジロウの回想 1
オレの中で一番古い記憶は母親や兄弟たちと別れる場面さ。
その日、オレたち兄弟は母親の胸に抱かれて眠っていた。
春だった。
そこは空き家の倉庫みたいなところでね。
倉庫なんていっても家庭用だから、人が三人も入れば身動きできそうにないくらいのただの物置さ。
実は近所にあるからたまに行ってみることがある。
まあ、今はもう、その空き家も倉庫もなくなって代わりに洒落た四角い家が建っているがな。
とにかく、オレたちはそこにいたんだ。扉に少し隙間があって、母親はそこから潜り込んで出産と育児に最適な場所だと判断したんだろう。
春だったな。
野鳥のさえずりが遠くに聞こえていた。
薄暗くて埃っぽい倉庫の中でオレたちは乳を飲んで腹が満たされていた。
温かで心地よかった。
けれどその日、突然誰かがその倉庫の扉を開けた。
強烈な音がした。金属が擦れる音さ。
嫌な音だ。
人間の顔?そんなこと覚えているもんか。
見たかどうかもはっきりしないね。
いま思えば、そこの不動産を管理している人間だったのかもしれない。
けどそんなことはそのときは考える余裕なんかなかった。
まあ、もちろんそんな歳でもなかった。
オレ達はまだ乳飲み子だったわけだから。
母親がすごい声を出して跳び上がったのは覚えている。
驚愕と怒りと恐怖、そういうものを全て詰め込んで爆発させたような声だった。
次の瞬間、オレ達は母親の胸元から振り落とされてそこらじゅうに散らばった。
兄弟が何匹いたのかは覚えてない。
とにかく振りまかれた兄弟の不安な鳴き声がいくつか別々にあちこちから聞こえた。
母親がその後どうしたのか、どうなったのか、それは知らない。
たぶん一目散に逃げて行ってしまったんだと思う。
仕方のないことだ。
オレ達を守るより生き延びることの方が大事さ。
それで母親を恨むつもりはない。
とにかく記憶はそこで終わっている。
次に古い記憶ってのがあってね。
オレはミルクを飲んでいた。
不味いやつでね。オレは何度も嫌がって吸い口から口を離したよ。
けれどその度にまた吸い口を咥えさせられてね。
「飲まないと死んじゃうよ。お願いだから飲んで」
優しい声だった。
それがお袋さんだった。
目を開けるとそのお袋さんとオヤジさんが顔をくっつけて心配そうにオレを見ていた。
それでオレは仕方なくミルクを少しずつ飲み込んだんだ。
究極に不味かったが、結局アレがオレの命をつないだんだと思う。
兄弟はいなかった。
オレ一人だった。
その代わりってわけじゃないが、優って名前の子がいたんだ。
言っておくが猫じゃない。
人間の男の子だ。
オヤジさんとお袋さんとの間にできた初めての子供だった。
優は体が弱かった。
生まれつき心臓に病気があって何度か手術をしたが、完全には治らなかったみたいだ。
それでも優はそれなりに成長して、なんとか小学校に入学した。
洋ダンスの上に写真があったんだ。
半ば散り終えた桜の樹の下で、でっかいランドセルを背負った小さな優が写っていた。
優は真っ白な顔して笑ってたよ。
そりゃあ、見ているこっちまで笑っちまうくらい大きな大きな笑顔だった。
けどよ、その写真を撮った頃が優にとって山の頂上みたいなもんだったんだ。
それから間もなく病気が悪化して優は入院と退院を繰り返すようになった。
オレがあの家に入ったのはその頃だったな。
優はゆっくりと、けれど確実に山を降りていく、その途中だった。
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