誰がために猫は鳴く
那智 風太郎
第1話 プロローグ
吾輩も猫である。
名前は、ある、一応。
ゴクラクという。
ただ人間がそう呼んでいるだけで吾輩がその名を認めているわけではない。
むろん人ごときにそんな脳天気な名前を付けられては癪に障るし、猫も
沈黙は金なり。
いや、金や小判など欲しくはないが、おかしなことをしでかして、お気に入りのキャットフードと缶詰と寝床がなくなるのは少々困る。
まあ、とはいえ別段、名前などどうでも良い。
ゴクラクと呼ばれ始めて三年余り。
もう慣れたし、人間なんぞには呼びたいように呼ばせておくのだ。
三年前、吾輩はいわゆる捨て猫であったようだ。
記憶はない。
ただ飼い主のタカトシが酒に酔うと決まって吾輩の前にあぐら座りをしてそのくだり
それによると吾輩は小さな段ボール箱に入れられて、戸口に置き去りにされていたのだという。
箱の中には稚拙な筆で「助けてあげて」と書かれた紙片。
それからいまにも死にそうな吾輩とすでに死んでしまった三匹の兄弟が入っていた。
タカトシは憤慨したようだが、仕事柄見捨てるわけにもいかず、息も絶え絶えな吾輩に治療を施したのだという。
吾輩は極度の栄養失調と悪い風邪に罹っていて、三日三晩生死の境を
けれど奇跡的に持ち直した。
我ながら強運の持ち主である。
捨てられたところが動物病院というところもツイていた。
もちろん、そこは恩に着ている。
ただ、タカトシは酔い加減によっては相当に恩着せがましくその話をするものだから、もういい加減うんざりして素直に感激することなどとうていできない。
だいたいあやつは吾輩にいまさら何度もそんな話をしてどうするつもりなのか。
猫が感動して恩返しでもするとでも考えているのだろうか。
バカバカしいにもほどがあるというものだ。
ただ三年も生きれば分かる。
人間とはそういうおろかな生き物なのだ。
だからそんなとき吾輩はそっとタカトシに哀れみの目を向けてやる。
あと、吾輩は時々出窓に上がり駐車場脇のソメイヨシノの根元にも目を向ける。
そこは埋められて小さな骨屑となった兄弟たちがいる場所。
心配するな。
お前たちの分まで吾輩が生きてやるから。
朝起きると吾輩はまずタカトシの顔の上に座る。
もちろん奴の寝相によっては頭の上、あるいは耳の上ということもあるが小事はどうでも良い。とにかくタカトシの上に座り、飯を催促する。
それにしても我らの手指というのはなぜこうも使い勝手が悪いのだろう。
こんな尖った爪と短い指ではハサミも使えないし、好物である缶詰のプルタブを引くこともできない。
もちろんキャットフードの袋を噛み破って中身を食うこともできるが、それは後々面倒なことになるのでやらない。非常時なら別だが。
とにかく腹が減っても自分で飯を用意することができないというのはなんとも不便なものである。
まあしかし、ハサミが使えないなら人間を使えば良いのだ。
吾輩が顔の上に座ると、タカトシは決まって奇妙な雄叫びをあげてから起き上がる。
そして寝惚けた面をしてフラフラと怪しげに足を運び、置き皿にキャットフードを入れる。
これで難なく朝飯にありつけるというわけだ。
人間を使うのはこうも容易い。
ただし気をつけなければならないのはタカトシが愚かにも吾輩の好みに関してあまり気を配らないというところだ。
任せておくと時々大変なことになってしまう。
いつだったかずいぶん前のことだが、度々病院を訪れるなんとか製薬の何某かという男が新商品ですと置いていったサンプルフードを入れられた。
高い嗜好性。
低カロリー。
低アレルゲン。
謳い文句は上々だったが、これがまた過去ワーストスリーに入るほどの不味さだった。
普段、食い物の良し悪しに頓着しないさすがの吾輩もこれには参って、半分も残してしまった。
タカトシもそれに気がついたようで、それ以降、このキャットフードが皿に乗ることはなくなったが、油断はできない。
また新しい試供品が手に入ったなら同じことが起きる可能性がある。
想定外は想定しなかった者の言い訳だ。
そう考えた吾輩は深夜のうちにゴソゴソと好みのフードをくわえて箱から引きずり出して、皿の上に乗せておいた。
もちろんこの作戦は成功した。
吾輩はこれ以降、食事は自分で選ぶことにした。
これならタカトシも寝ぼけ眼で選ぶ手間が省け、吾輩も美味しい飯が食える。
これぞウインウインの所作なり。
ただし、当初しばらくはタカトシがこれしきのことを珍しがって誰彼かまわず吾輩のその行動を言いふらしていたのには閉口した。
朝飯を平らげると吾輩は日課として階下に降り、病院の中をひと通り見回ることにしている。
階段を降りると病院はまず細長い物置のような部屋になっている。
そこはただでさえ狭い通路のような空間であるのに、さらに両側から三段の棚が張り出していて、在庫のフードや薬がギュウギュウに詰め入れられているから、人間なら体を横にしてカニのように歩かなければ通り抜けることができないほどだ。
もちろん吾輩はそのような理不尽な苦労をしなくても易々と通れるわけだが、のんびり歩いている最中に地震でもあって、棚の上から落ちてきたフードに押しつぶされたりしてはかなわないからやや小走りで通り抜けることにしている。
その倉庫代わりの通路を過ぎると右側に勝手口がある。
窓もないそのアルミサッシのドアを使うのは主にセリとナズナだ。
この病院の看護師である彼女たちは出勤してくるとこのドアを開け、向かいにあるカーテンで仕切られた小部屋に入る。
そこは彼女たちのロッカールームになっている。
吾輩はそのカーテンの隙間から中に入ると、部屋の中央に置かれた天板の丸いスタンドテーブルに上がり、室内を見渡す。
注意するのは二つ並んだスチールロッカーの上だ。
以前、厄介者が占拠して難儀したことがある。
あれはたしかボールパイソンという種類の蛇だったか。
付き合いのあるペットショップの店長が連れてきた蛇だった。
爬虫類の知識などほとんど持ち合わせていないタカトシが、止せばいいのに様子を見てみるからといって預かった体長1メートルほどのそいつは、夜中にケージの隙間から逃げ出してそのスチールロッカーの上に上がってしまったようだった。
第一発見者はセリだった。
もちろん彼女はそいつを見つけようとしたわけではない。
ロッカーを開けるとトグロを巻いた蛇が頭の上から降ってきてマフラーのように彼女の首に巻きついたのだという。
セリは事後、あの瞬間に自分は死んだと公言している。
本当に死んでいてくれていればそれでたいして被害はなかったのだが、ただ現実は違った。
まずはこの世のものとは思えないような奇声を発した。
その大声に驚いた吾輩とタカトシが駆けつけると彼女は首に巻きついたパイソンを鷲掴みにして引き剥がし、まるで牛飼いの鞭のように蛇を振り回しているところだった。
そして彼女は我々を目にして夜叉のような形相で睨みつけると即座に手にしていたパイソンを投げつけたのだ。
この時ばかりは吾輩に運がなかった。
テーブルでワンバウンドした蛇はスローモーションで吾輩の方に飛んできたのだ。
そして結局、吾輩も死んだ。
タカトシは死ななかったらしい。
事の顛末は後から聞いた。
タカトシがいうには蛇は吾輩の前に落ち、その鎌首を持ち上げて吾輩に向けてチロチロと舌を出したのだという。
吾輩は瞬時に全身の毛を逆立てたが、けれどそのままパタリと倒れてしまった。
そして蛇は横たわる吾輩の上を悠々と這ってドア口まで逃走したが、ちょうどそこに出勤してきたナズナに平然と摘み上げられてケージへと送還されたということだ。
生き返ったとき、吾輩は診察台の上で真剣な顔をしたタカトシに聴診器を当てられていた。
セリがそばでゴメンなさいを連呼しながら泣いていた。
ナズナが吾輩の背中にそっと手を当てていた。
思い返すも忌々しい事件だったが、なぜかその瞬間だけは身体中に奇妙な温もりが行き渡っていて心地よかった。
ちなみに奇跡的に蛇に怪我はなく、後に冷凍ピンクマウスを一匹たいらげて、その日のうちに帰って行った。
蛇にとってもショック療法が功を奏したのかもしれない。
ロッカールームの点検を終えた吾輩は次に処置室へと向かう。
処置室というのはいわば診察室のバックヤード的な空間で、その名の通り診察室では行えない様々な処置をするところだ。
わりと広い部屋で病院のほぼ真ん中に位置し、診察室以外にも入院室や手術室などにも通じるハブ的な役割もある部屋だ。
検査室も兼ねていて様々な機器類や診療用具が周囲を取り囲むようになかば雑然と並んでいる。
そして部屋の中央にシャワー付きステンレス製の大きなシンクが置かれている。
吾輩はひとつ気の抜けたあくびをしてからそのシンクに歩み寄り、下面に空いた二十センチほどの空間を覗き込んだ。
「よう」
そこでいつものように丸くなって寝ていたマルタに声をかけるとヤツはほんの少しだけ顔を上げ、眠たげなまなざしを向けて言う。
「ねえ、キミ。もうほっといてくれって言ったはずだけど」
「そうはいかん。ここは吾輩の縄張りだからな。少しぐらいなら構わんが、そういつまでも居座られていたのでは吾輩の沽券にかかわるというものだ」
「まあね、ボクが生身の猫ならそうだろうけど」
さすがに少しはバツが悪いのか、マルタは前足で顔を洗う。
「関係ない。それに生身じゃないなら、早めに成仏した方がいいと思うが」
マルタがそこに住み着いたのは十日ほど前のことだった。
その日、病院が閉まる直前、化粧の濃いおばさんが飛び込んできた。
「猫を轢いた。猫を轢いた」
そう金切り声を張り上げ続けるそのおばさんの胸には、血みどろのぐったりした白猫が抱かれていた。
彼女はセリに導かれて診察室に駆け込み、猫を台に置いた。
いつものように棚の上から眺めていた吾輩の目にも、それはもう一言で言ってどうしようもない状態だと思えた。
なにせ頭が潰れて、洋梨のように妙な形をしていた。
また両眼は漫画のように飛び出しているし、口と言わず鼻と言わず、血が流れ出していてたちまち診察台に小さな血だまりができてしまった。
首には小さな鈴のついた青い色の首輪がしてあった。
タカトシは聴診器をしばらく当ててから、芝居のように首を振るとおばさんは力尽きたようにその場に座り込んでしまった。
そしてうつむいて泣きながら「そんなにスピードは出してなかった」とか「普段はあまり通らない小道に入ったのがよくなかった」とかブツブツと念仏のように呟いていた。
しばらくして顔を上げるとおばさんは涙でアイシャドウが流れてまるで太った般若のような顔になっていた。
セリが白いタオルで猫を包み、ナズナが適当な大きさの箱を用意してそれに入れると、おばさんはようやく腰を上げて箱を胸に抱いた。
「どうしたらいいんやろ」
おばさんが憔悴した顔で聞く。
タカトシは飼い主さんが見つかるといいんですけど、と神妙な顔つきで返した。
「近所の人に聞いてみよか」
「そうですね。あと張り紙とか」セリが言う。
「そやけどすぐには見つからんかも」
「お骨にしてもらわないと」ナズナが言う。
「そやね。それは罪滅ぼしに私がする」
おばさんが少し穏やかな顔になってそういったそのときだった。
箱の隙間から白い煙のようなものが湧いたと思うと、それは床に垂れてムクムクと尻尾を立てた猫の形を作り、しばらくしてやがて白い猫になった。
その毛足の長い白猫はしばらく頭上で話し込む人間の顔を見つめたりしてキョロキョロしていたが、そのうちになにかもう諦めたような顔つきになって彼らの足元をくぐり抜けて処置室へと消えていった。
もちろん人間たちはそのことに誰も気がついていなかった。吾輩は多少驚いたが、そういうこともあるだろうと思い黙っていてやることにした。
奴はその後、とりあえずシンクの下の隙間に潜り込んで居場所としたようで、覗くとつまらさそうな顔を向ける。
ただその態度に吾輩に対する敬意も何もないようだったから、二日目あたりに名前ぐらい名乗れというと渋々マルタだと答えた。
「成仏ね。そう簡単じゃないみたいだよ、それ」
「他人事みたいに言わないでくれよ」
吾輩はそう言い残してシンクの下から這い出す。
そして背伸びをしてから次は入院室に向かう。
入院室にも居候がいる。
こちらはまだ生きている。ミニチュアダックスフントの老犬で、名をローズという。吾輩が見回りに入るとローズ婆さんはケージの隅でお愛想に尻尾を何度か振る。
「おはようさん。もう朝かい」
「うん、そうだよ」
「困るよねえ、目が見えないっていうのはさ」
なぜかローズ婆さんは江戸っ子口調だ。
「だろうね」
「白内障っていうんだろ。さき一昨年あたりから目の前がなんかモヤモヤすると思ってたら、もう去年からはほとんど見えないんだよ。朝っていってもあたしにはなんもわかんないさねえ」
婆さんはほとんど歯のない口を開けてあくびをした。
「けど、見えもしないのによく吾輩がやって来たってわかるね」
「そりゃ分かるさ。扉が開く前にあんた爪の音ガリガリさせるじゃないか」
「なるほどね」
婆さん、まだ呆けちゃいないらしい。
「それよか、あんた、調べてくれたかい。あたしの家のモンはいつ迎えに来るかって」
「ああ、それね。さあ、まだちょっと、分からないね」
「ねえ、早く教えとくれよ。
カルテとかいうのを見れば分かるんじゃないのかい。
もうイヤんなるよ。ここにはお気に入りのソファベッドもないんだから。
あたしはあれで昼寝しないと疲れが取れないんだよ。
それにさ、友達のゲンさんやチャコとまた散歩がしたいんだよ。
ねえ、なんとかしておくれよ」
「分かった、分かった、調べてみるから、もうちょっと待っておくれよ」
おっと、江戸っ子が感染ってしまった。
「約束だよ、ゴクちゃん。早いとこ頼んだよ」
吾輩は生返事をしながら、這々の態で入院室を後にする。
そして思う。
気の毒なことだ、と。
ローズ婆さんの飼い主は行方不明だ。
三ヶ月前、ローズ婆さんはいつものようにグッチの黒いキャリーケースに入れられてやってきた。
飼い主はこの辺りではわりと大きな建設会社の社長夫婦だった。
彼らは常にブランドもののバッグや服を身にまとい、高級そうなシルバーのセダンに乗って病院にやってきていた。
周囲に緊張を強いるその出で立ちながら、ただ話してみると彼らはじつに温厚な人柄で、二十も三十もそれ以上も年下であろうタカトシを先生、先生と頭を下げ下げ慕っていた。
そして、その日も彼らは夫婦で訪れて診察室に入った。
「先生、実は急に海外出張の仕事が入りまして」
旦那のほうが土建屋の社長らしく、ダミ声で切り出す。
「はあ」
「そんで明日から北欧なんですわ」
「北欧ですか、いいですねえ。ノルウェーとか?」
何がいいのかわからないが、タカトシが寝ぼけた声で聞く。
「フィンランドですよ。あそこはパイン材の取引先なんです」
「はあ、なるほど」
「そんでフィンランドに行くって言ったら、家内も行きたいっつうんですよ」
旦那は照れたように言って、禿げ上がった頭頂部をパチンと一度叩いた。
「ほら、この時期ね、北欧っていうとオーロラでしょ。私、一度見てみたいなって」
カミナリさんのようなパーマのその家内がそう言ってわざとらしく胸の前で手を組んだ。
「へえ、オーロラっていうのは春がいいんですか」
タカトシが聞き返すと、家内がええ、まあ、などと言って言葉を濁し組んだやにわに手を下げた。
そのとき、なにやら夫婦の間にぎこちない空気が一瞬流れ、旦那はそれを振り払うように身を乗り出した。
「そんでね、先生。これは急で申し訳ないんだけど、ひと月ほどローズを預かって欲しいんですわ」
「え、ひと月ですか」
タカトシが少し驚いた口調を返した。
なかなか一ヶ月のホテル預かりというのはない。
「ええ、ちょっと長いんだけど、こいつ歳が歳でしょ。預けるなら先生とこじゃないと安心できないんで。ダメですか」
そう訊かれてタカトシは壁のカレンダーを見やり、しばらく考えてから返答した。
「構いませんよ。大丈夫です。でも、具体的にはいつまでですか?」
「いや、それがちょっとまだ未定なんで、分かったら連絡するってことでいかんですか」
旦那に手を合わせられて、タカトシは多少困り顔になりながらも軽く頷いた。
「まあ、いいでしょう。ただなにかあったときの連絡先は教えておいてください、一応」
「はい、じゃあ先生、こいつを、ローズを……どうかお願いします」
「お願いします。ローズや必ず迎えに来るからね」
吾輩、このときおかしいと思った。
飼い主の二人のその声が最後うっすらと涙声に変わったからだ。
たしかに一ヶ月は少々長いが、泣くこともないだろう。
それではまるで今生の別ではないか、と。
それにオーロラっていうのはこの前テレビでやっていたが、見頃は厳冬だったのではないだろうか。
たしかエスキモーのような格好をした出演者が凍えながらそう話していたと思う。
案の定、約束の一ヶ月が過ぎても、彼らからの連絡はなかった。
連絡先の携帯電話にかけてみると不通で、調べるうちに、ちょうどその一ヶ月ほど前に建設会社は不渡りを出していたことが分かった。
夜逃げだった。
もちろん逃亡先に犬を連れて行くわけにはいかない。
だからタカトシは体良く騙されて老犬を押し付けられたというわけだ。
こうしてローズ婆さんは正式にこの病院の居候となったというわけだ。
人間とはかくも身勝手な生き物だ。
ペットではなく家族。
そんな風に耳障りの良い御託を並べて十数年一緒に暮らしても、我が身を守るためならその家族をあっさりと捨てる。
そんなことはずっと前から承知だが、ケージに入れられたローズ婆さんを見て、これがその身勝手さの代償かと思うと哀れでならない。
いっそ婆さんにそういうことだから、新たな拠り所を見つけてそこで余生を過ごしたほうがいいと忠告してやりたいとも思う。
ただ、タカトシの見立てによると婆さんは心臓を患っているらしく、正直に事の真相を告げて、もしやその場でコロリと逝ってしまわれても後々夢見が悪そうだから、やはり当面は黙っているつもりだ。
吾輩はしかつめらしく髭をピクピクさせながら次へと向かう。
じつは院内には吾輩の立ち入りを拒む部屋がある。
それがレントゲン室と手術室だ。
レントゲン室は吾輩にとって全く未知の空間である。
室内にはエックス線と呼ばれる目に見えない凶悪な光線を放射する装置があり、それに当てられた者は一時的に体の内部が透き通って見えてしまうらしい。
タカトシたちは毎日のように患者である動物を連行してレントゲン室に入り、その透き通った体の写真を撮って出てくる。
それから写真を飼い主に見せて、これはちょっと肝臓が大きくなっていますね、とか、膀胱に石ができています、などと偉そうぶって講釈をするのだ。
吾輩はエックス線に当てられた者たちが心配になる。
もちろんそれによって病気や怪我の状態を把握するという理屈は分かるが、もしや透き通った体がそのまま元に戻らなければ随分と困ったことになるのではないだろうかと吾輩は憂いを覚えるのである。
腕や足の骨ならまだしも、肋骨やら骨盤、ましてや膀胱結石を露わにして人前に出るなど、ちょっと吾輩なら恥ずかしくて我慢ならない。
幸いながらいまのところそういう状態になった者は見ていないが、この先いつそういう悲劇が起こるか分からない。
もちろん吾輩がそうなる可能性もある。
好奇心にまかせて死地に飛び込むほど吾輩は不用心でも酔狂でもない。
それにエックス線とやらがドアの隙間から漏れ出ている可能性だってある。
吾輩はレントゲン室の重厚なドアから充分に間合いを取って通り過ぎる。
その隣にある手術室の入り口はガラス張りの開き戸で室内が見通せるようになっている。
中には診察台よりもひと回り大きな手術台やテレビみたいな形をしたモニターという器械、他にも何のために使うのかよく分からない妙な形をした機器が所狭しと置かれている。
また天井には無影灯という巨大な円板状のお化けライトが取り付けられていたりして、なかなかエキセントリックな風合いがある。
あの無影灯の上で午睡をしてみたいというのが吾輩のささやかな願望のひとつなのであるが、実はこの部屋に入ること自体、タカトシに硬く禁じられている。
もちろん奴ごとき小人にそんな制約を受けるなど、腹立たしい限りであるが、手術室に吾輩の毛が落ちていたりすると具合が悪いのだという。
なにがどう悪いのかはよく分からないから、いつか侵入して思う存分物色してやろうと吾輩は密かに胸に決意しているが、なにぶんこの開き戸は重くて猫一匹の力ではどうにもならない。
そのうちマルタにでも手伝わせてやろうと考えながら、吾輩はいつものようにその薄暗い室内を背景にしたガラス扉の前に座り、そこに映る真っ黒な猫をしばし見つめる。
黒はいい。
重厚で強い色だ。
茶トラや三毛などよりずっと潔さがあり、軽薄さがない。
だから思慮深い吾輩は黒を気に入っているのだ。
ただ惜しむらくは少し毛足が短い。
もう少し長毛の毛質、例えばたまに診察にやってくるペルシャ猫のようなら、吾輩の美しさはさらに引き立つだろう。
けれど、まあいい。
美は思わぬ災厄を引き寄せると聞いたことがある。
面倒は避けて通るに限る。
そういえば吾輩、この手術室に一度だけ入ったことがあった。
ただし、記憶はない。
吾輩は麻酔で眠らされて、知らぬ間に去勢手術というやつをやられたのだ。
あの時はさすがの吾輩も一時ながら塞ぎ込んだ。
痛みも多少あったが、それよりも吾輩は精神をやられたのだ。
突然、しかも強制的に男である権利を放棄させられたのだから我ながら無理もない話だ。
もしこの世の中に猫権侵害に関する委員会みたいなものがあれば、吾輩は真っ先にそこに訴え出て、刑事告訴でもなんでも取り付けるところだった。
けれどそうなれば結果的に吾輩とタカトシは法廷で争うことになり、少なくともタカトシには懲役刑、セリやナズナもその幇助の罪で執行猶予付きの刑が課せられるに違いない。
少し冷静になってそう考えた吾輩はジッと無念の想いに耐えて黙することにした。
付き人であり、飯の種でもあるタカトシがいなくなると困るし、それに牢獄で廃人のようになったタカトシを想像すると少しばかり不憫に思えた。
だから吾輩は彼奴を許すことにした。
心が広い猫なのだ。
その寛容さから想像するに、もしや吾輩は没落した貴族か王族の血筋なのではあるまいか。
そうでなければ吾輩のこの端正な容姿にも頷けないというものだ。
それならばやはり吾輩はその血統を後世に残す役割があったのかもしれない。
去勢手術……。
再び、怒りを募らせた吾輩は結局、タカトシの顔に三本の爪痕をつけ、さらに奴の敷布団に放尿してやった。
報復としてはかなり稚拙で軽いが、この辺りが矛先の納め所だったろう。
吾輩はガラスに映る自分の姿から目を切って回想を終えると、早朝パトロールの締めに向かった。
受付と待合室のスペースに入った吾輩はタカトシがよく自慢している栃の木の一枚板のカウンターに登り、辺りを見回す。
そこはよくて畳二畳分ほどしかない狭い空間で、受付側にはパソコンやプリンター、電話、そのほか細々とした文房具などが雑然と置かれ、背後には数百枚(千枚はない、たぶん)カルテが押し込まれた棚がある。
その奥には薬局と呼ばれる調剤スペースがあり、乳鉢や薬さじなどがこれも雑然と並べられている。
待合室へと目を向けると細長い廊下のようなその空間に座面の黒い長椅子が二つ置かれ、いまはその後ろに面した腰高の大きなガラス窓から燦然と朝陽が差し込んでそのあたりの床や椅子を輝かせている。
特に異常はない。
吾輩はひとつあくびをした後、おもむろに床に身を落とし、その一角に置かれた水槽の真下に歩み寄る。
「おはようございます」
水面が跳ね返した揺らめく柔らかな光の中で、吾輩はいつものように少しかしこまった口調で水槽の主へと挨拶を送る。
もちろん主はなにも返さない。
ただ悠々と水底にその白い御神体を伏せているだけだ。
「ホコサキ様、今日もまた平穏無事な日となりますよう……」
吾輩はムニャムニャとそのあとの言葉を濁し、手を合わせる代わりに右手でしばし顔を洗う。
するとホコサキ様は突然その腕人形のそれに似た大きな口を開き、そこからポコンとひとつ小さな泡玉を吐いた。
なにかのお告げに違いないが、よくわからない。
けれどきっと吉兆であるはずだ。
こうして毎日の礼拝を欠かさない吾輩にホコサキ様が災厄を与えるとは思えない。
吾輩は平身低頭、背伸びのポーズを決めた。
ホコサキ様はなんでも神の化身なのだという。
いつだったかセリがロッカールームで菓子を頬張りながらナズナを相手に話すのを聞いたことがある。
異国の言い伝えではあるが、ずっと大昔にこの星は太陽をなくしたらしい。
そのとき真っ暗闇となったその世界で神々たちは話し合って、自分たちが生贄となり新たな太陽を作ることに決めた。
他の神様たちが次々と火に身を投じていく中で、けれどホコサキ様の先祖である神、ソロティは死にたくないからとそこらにあった池に身を隠したのだ。
結果、ソロティは逃げおおせたが、いつの間にかその身は水底でうごめく生物、ウーパールーパーとなっていたという話だ。
セリやナズナはその話をして、情けない神だとソロティを蔑んでいたが、吾輩はそうは思わない。
そうやって生き恥を晒しても、この世に生き続ける苦難を選んだ神は賞賛に値する。
だってそうではないか。
人間というやつはすぐ死んで詫びようとしたりするが、それはあまりにも無責任だ。
神様だって同じだろう。
こんなことを言うと生贄となって死んだ神には悪いが、生きて太陽を作ることはできなかったのだろうか。
だって神様なんだからさ。
とにかく吾輩は死よりも生を選んだホコサキ様の先祖ソロティは偉い。
だから毎日、ホコサキ様の前に膝をついて祈るのだ。
今日ものんびり生きさせてください、と。
頭を上げるとホコサキ様はやはり無為の表情で水底にたたずみ、水流にその血色の良い立て髪(どうやらそれは呼吸をするためのものらしいが)をユラユラと揺らしていた。
吾輩は束の間、朝陽を浴びて神々しく輝くその乳白色の御神体をじっと見つめていた。
するとなぜか脳裏に一瞬真っ白いかまぼこが思い浮かんだ。
かまぼこ。
一度だけ晩酌のツマミを拝借したことがあるが、アレはうまかった。
それに思い出してみると、板に乗ったかまぼこはちょうど大きさもその艶やかで白い色もホコサキ様とじつによく似ている。
もしかするとホコサキ様はかまぼこ。
だとしたら……。おもわず喉が鳴る。
吾輩はハッと我に帰り、即座に身を震わせてその夢想を断ち切ると、もう一度背伸びをし、胸の内でホコサキ様に無礼を詫びた。
けれど目を上げるとホコサキ様はその短い手足で水底の砂利を這い、御寝所である土管に身を隠そうとしていた。
やはり気分を害されたに違いない。
なんということだ。
せっかく吉兆の思し召しがあったというのに。
そして吾輩は小さくため息をついて、水槽の横に置いてある透明な瓶を恨めしげににらんだ。
瓶に詰められたあのウーパーの餌という豆粒を水槽に投げ入れれば、ホコサキ様も機嫌を直してくれるのかもしれないが、吾輩の爪先ではとうてい蓋を開けられそうにない。
仕方がない。あとでセリかナズナにやらせようと心に決めて、吾輩は最終目的地である診察室へと足を向ける。
その診察室もさして広い部屋ではない。
中央にグレーのソフトシートを乗せた診察台がドンとあり、ブラウン管を頭に持つ時代遅れのロボットのような形状をした超音波診断装置が今は部屋の隅で動きを止めている。
また例の凶悪なレントゲン画像を映し出す液晶テレビが壁掛けになっていて、対側には奥行きの浅い箱棚が天井近くまで階段状に積まれている。
棚の中には予防薬やフードなどの様々なリーフレットの類が取り出しやすいように整然と並べられ、そのほか診療に使うこまごまとした機材が入れられている。
クルクルと座面の回るドクターチェアと飼い主用に簡素なスツールがいくつか置かれ、天井からは点滴バッグを掛ける長いフックと伸縮可能な電源がブラリと吊られている。
とにかくいろいろと必要雑多なものが詰め込まれたこの狭苦しい部屋がなつめ動物病院の主戦場だ。
この診察室に日々、様々な動物とその飼い主たちが訪れ、獣医師であるタカトシと看護師であるセリとナズナを頼り、時に難題を吹っかけてくるのだ。
吾輩は棚の上面に乗せられた眼球や心臓、骨盤などの模型を倒さないように注意深くすり抜けて頂上に登ると、そこに置かれた吾輩用の焦げ茶色の座布団におもむろに身を伏せた。
ここが目下のところ吾輩の仕事場でもある。
まあ、とはいえたいしたことはしない。
たいていは昼寝をしつつ、気が向けばタカトシたちの仕事ぶりを観察する程度のことだ。
それにここなら顔を見るたびに童謡の一節よろしく爪を切れと迫るセリの手も届かないし、たまに逃げ出した小鳥がパニックになって飛んでくるぐらいで、概ね安穏と居ることができる。
だから吾輩はここが気に入っている。
けれど、ときおりではあるがこの診察室で吾輩以外のほかの誰の手にも負えないような厄介ごとが持ち上がったりする。
どのようにいえば良いか、それは飼い主や獣医師たちには決して感知しえない動物たちの声だったりする。
吾輩の仕事というのは、その声を聞き届けてやるとでもいえば多少は的を射ているかもしれない。
とはいえ、それはほんの些細なことだ。
たとえば大多数の人間たちが本流と信じる動物医療を見渡すかぎり水平線を超えてなお続く広大な海だとすれば、吾輩が彼らの言い分を聞くことなど雨上がりに街の片隅にひっそりとできた小さな水たまりみたいなものかもしれない。
それでもその水たまりに目を配るものがいなければ、やがてその水は腐り、やがて流行病の元になってしまうだろう。
面倒なことだが、動物病院の猫である以上は仕方がない。
そんなとき吾輩は胸の底に眠るなけなしの使命感と義侠心を奮い立たせて事に当たる事にしている。
いつかホコサキ様がそんな吾輩に目を細めて身に余るような幸運を与えてくれることを信じて。
勝手口が開き、セリとナズナが近所にできたカフェの評判を口にしながら入ってくる。
しばらくしてタカトシが慌ただしく階段を駆け下りてきた。
彼らはぞんざいに挨拶を交わし、それぞれに散り、診察の準備を始める。
さて、本日はどんな声が聞こえてくるのか。
吾輩は目を閉じ、そして耳をすます。
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