第15話 イグー

 ランバダが中央将軍のイゴン将軍の所に弟子入りする事になったと、あっという間に花通り中にうわさになってはいけないので、両親は誰にも話さず、家族みんなに固く口止めをした。

 ただ、さる名家に奉公しにいく事になり、おまけとして武術を習わせてくれるという事にしてあった。

 だから、ランバダは誰からも何か言われる事もなく、普通に生活していた。

 

 イゴン将軍の所に正式に行く一週間前の事だった。

 ランバダはセリナに言われて、ルンナの所にお使いに行った。かごに滋養のある卵や野菜、ローロールからもらってきた蜂蜜はちみつを使ったお菓子などが入っている。

 グースがさらわれて以来、あんなに元気の良かったルンナはすっかり元気を失くしてしまい、ずっと家にこもりきりだった。

 セリナが行っても顔を見る事さえできず、ルンナの夫のオブン・ダイルが申し訳なさそうに話をするのだ。

 ダイルもローロールで働いている。ローロールは大変親切な雇い主で、働きに出られないルンナのために、ダイルに多めに給金を渡し、さらに野菜などを分けてくれるという。

 だから、気にしないでくれとダイルは言っているが、セリナの気がすまないと、数日置きに様子を見に行くのも兼ねて行っているのだった。今日はセリナの都合がつかないので、ランバダが代わりに来たのだ。

 ランバダは早足で六番通りの前を過ぎた。オブン家は遠い。以前は六番通りに家があったが、エイグの家のレグム家が買い取ってしまい、六番通りに住んでいた人達は追い出されてしまった。

 そこで、ローロールのカルム家が一番通りから二番通りに住んでいた、カルム家の使用人達を引越しさせて、六番通りから追い出された人達をそこに住まわせた。それで、二番通りにオブン家がある。使用人達は運河の向かい側にある、カルム家の屋敷の一部に集合住宅を作り、そこに住まわせている。

 だから、ローロールのカルム家の知名度と名声はますますあがり、レグム家はますますカルム家に対抗意識を燃やしている。

 そういう事情で、余計に人々は六番通りのレグム家に近寄ろうとしないのだ。ランバダも前からエイグは苦手だし、かごの中身を取り上げられたりしたくないので、急いで通り過ぎた。急いで通り過ぎ、三番通りまで来てようやく一息ついた。それでも、大急ぎでオブン家に行った。

 戸を叩くとオリが出てきた。

「…母さんは具合が悪いんだ。」

 どんよりと暗い表情でオリが言った。オリはランバダより二つ年上だ。

「だいじょうぶ?オリもブランも外には出ないの?」

「うん。」

 オリは言って、そっと外に出てきて戸を閉めた。

「母さんが心配するんだよ。少し、姿が見えないと、どこに行ったのって大騒ぎするんだ。ぼーっとして、家事も何もできないから、おれと父さんとでやるんだけど、なかなか上手くいかなくてさ。ブランは外に出て遊びたいって言うんだけど、母さんがずっと見張ってて出れないんだよ。」

 オリは疲れた顔でため息をついた。

「たいへんだね。これ、母さんからなんだ。」

「うん。いつもありがとう。おばさんにも伝えといて。本当におれは助かってる。父さんは遠慮してるんだけど。この間のひき肉の包み焼きは、すげーうまかった。久しぶりにちゃんとしたものを食った。」

 オリがあまりにも嬉しそうに言うので、ランバダまで嬉しくなった。

「よかった。じつはあれ、ぼくも手伝ったんだよ。肉だんごをきじにまいたのぼくなんだ。」

 オリがおどろいた。

「へー、すげーな。お前、いつも手伝ってるのか?」

「うん。おばあちゃんがあれやって、これやってって言うから。だから、手伝ってる。」

「そっか。」

 オリは言って、うつむいた。

「そういえばさ、お前、どっか行くんだって?なんか奉公に行くとか。」

 オリがさびしそうなので、ランバダは少し申し訳なく思いながら頷いた。

「うん。でも、時々は帰ってこれるみたいだよ。」

「でも、時々だろ。…お前がいなくなったら、誰も家に来ないな。あ、おばさんは別だぞ、そうじゃなくて…。」

「…帰ってきたら、一番にここに来るよ。」

 涙ぐんでいるオリにランバダは力強く答えた。その時、

「オリ!オリ!どこにいるの!」

 ルンナの大声が聞こえてきた。ブランが何か言ったようだ。

「母さんが起きたみたいだ。」

 オリが言うのと玄関の戸がさっと開いたのが同時だった。

「オリ!何やってるの!勝手に外に行くなってあれだけ言ってるでしょ!」

 ぼさぼさの頭でやつれた顔のルンナが、寝巻のまま出てきて怒鳴った。その姿にランバダは物凄く驚いた。

 ルンナだと一瞬、分からなかった。しょっちゅう声をかけてくれていて、近所の子供達にも気をかけてくれていた、はきはきしたルンナとまるで別人だった。

「おばさん、こんにちは。きょうは母さんからあずかったものをもってきました。よかったらたべて下さい。」

 ルンナはランバダを無表情のまま見下ろし、いきなり、オリの手にあった籠を取り上げた。

「いらないよ、こんなもの!自分の子供はさらわれなかったからって、自慢じまんしているのかい!お前の方が攫われたっておかしくなかったのに、なんで、うちのグースが攫われたんだろうね!おかしな話だよ!」

「母さん!母さん、やめろよ!」

 オリの必死の静止を無視して、ルンナは籠を地面に叩きつけた。

「おい、ルンナ、何をしている!」

 近所のローロールを引退したおじいさんが家から慌てて出てきて、ルンナを止めに入った。

 ランバダはふるえながら呆然ぼうぜんとしてルンナの姿を見つめていた。悲しいというより、衝撃しょうげき的だった。

「うるさい!離せ!どうして、お前じゃなくて、グースが攫われたんだ!あああ!」

「おい、やめろ!相手は子供だぞ!」

 老人に後ろから羽交い絞めにされて、ルンナはそのまま地面に座り込んで泣き始めた。

「あぁ、グース、グース…。」

 大人がこんなにはげしく、子供みたいに泣くのをランバダは初めて見た。

「おい、ランバダ、今のうちに帰るんだ。それから、お前だけじゃない、母さんがあんなこと言うのは。みんなに言って誰も来なくなったんだ。」

 オリが申し訳なさそうに、暗い表情でランバダに帰るようにうながした。

 ランバダはまだ震えながら頷いた。なんだか、とても申し訳なかった。

 誰も悪くない。悪いのは攫ったマウダなのに、どうして残った人たちがこんなに悲しくて辛い思いをしなくてはならないのだろう。

「ごめんな。」

 オリがランバダの肩に手を乗せてくれた。まるで、仕事に疲れ切った大人のように疲れた表情のオリに、もう一度だけ頷いた。

「来てくれてありがとな。」

 オリの小さな声を背にランバダは小走りで二番通りから去った。涙で視界がぼやけて、とうとう途中で止まって服のそでで涙をぬぐった。涙が止まらなかった。一人で泣きじゃくりながら道を歩いていく。

「おい、泣き虫ランバダが、また泣いてるぞ。」

 エイグ達だった。最近ではエイグとつるむ子供達は決まってきている。ランバダは無視して歩き続けた。

「おい、どうした、俺達を無視するとはいい度胸してんじゃねえか。」

 一人がランバダの肩をつかんだ。振り払おうとしたが、勢い余って転んでしまう。いじめっ子達がへらへら笑った。

「ランバダ、お前にいい事教えてやろうか。」

 エイグが、起き上ろうとしているランバダに近づいてきた。

「実はな、私が、グースをマウダに攫わせたんだ。」

 ランバダは、はじかれたように顔を上げてエイグを見つめた。一瞬、何を言われたのか分からなかった。

「な、何を言ってるんだ、エイグ。」

 他の子供が言った。さすがにみんな、ぎょっとしてエイグを見つめている。

「もし、本当だったら?」

 みんな顔を硬直こうちょくさせて顔を見合わせた。

「…やっぱりお前らもだまされたか。」

 エイグはにやにやした。

「そんなの冗談に決まってるだろう。信じるなんて馬鹿じゃ…。」

 ランバダは気が付いたら、エイグにつかみかかっていた。何かに突き動かされるように、逃げようとするエイグの服を引っ張っていた。

「何するんだよ!」

 エイグが叫んだが、ランバダは両手を振り回した。

「グースをさらわせたって!」

 ランバダは怒りのあまり、生まれて初めて人を怒鳴りつけ、叩いた。

「だ、だから、冗談だって、言ってるじゃないか!」

「じょうだん、だって!そんなことを、言うなんて!」

 ルンナやオリの顔が浮かび、ランバダは叫んだ。

 本当はもっといろんな事を言ってやりたいのに、言葉が上手く出て来なかった。もどかしくてたまらない。

 六番通りの近くである。屋敷の門番がやってきたら、まずい。他の子供達がランバダを引き離し、仕方なく叩いてランバダを止めようとした。それでも、ランバダは暴れている。

「おい、やめろ!」

 声変わり中の少年の声がして、さっとエイグ達より年上の少年達がランバダを殴るのをやめさせた。

「あんた…誰だ?」

 道場帰りらしく、道着に木刀を持った少年達の集団に恐れをなしたエイグが、かすれた声でたずねる。その間に他の子供達はさっと走って逃げ去った。後にはランバダとエイグだけが残っている。

「おや、おや坊ちゃま、こちらにいらっしゃいましたか。」

 緊張した空気の中に、場違いに明るい大人の声がした。

じい…!」

 エイグが明らかに、ほっとした様子で駆け寄った。レグム家の家令、ドルチである。

「これは、カルム家のイグー坊ちゃまではありませんか。」

 ランバダを殴るのをやめさせた少年は、カルム家の末息子のイグーだった。

 エルアヴオ流の道場に通っている。天才と呼ばれていて、毎日道場に通っているため、めったに出会う事がなかった。

 他の少年達は、使用人の息子達やローロールで働いている人達の子供である。やる気のある子供達をローロールが道場の門弟料持ちで通わせている。もちろん、将来はローロールで働く事が前提ぜんていだ。

「うちの坊ちゃまが何かしましたか?」

 ドルチはあくまで丁寧ていねいにイグーに言う。

「はい。」

 イグーは優しげな外見とは裏腹に、はっきり述べた。

「エイグは人の不幸を笑いものにしました。だから、この子が怒ったのです。それを他の子供達が殴っていたので、やめさせました。」

「はあ、そうでしたか。うちの坊ちゃまが悪かったのでございますな。私が坊ちゃまにようく言い聞かせますから、許して下さい。後でおびをしに行きますから、名前を教えて下さいますな?」

 ドルチは、最初はイグーに、後からランバダに言ったが、ランバダが答えるより先にイグーが答えた。

「その必要はありません。エイグがここでこの子に一言あやまればそれで済みます。」

 わずか十三歳とはいえ、有無を言わせない鋭い視線を、イグーはドルチとエイグに向けた。毎日道場に通い、同年代では相手にならず、大人相手に鍛錬たんれんしているイグーの持つ自信でもあった。

 ドルチは素早く状況を判断し、エイグにそっと謝るようにうながした。

「…爺。」

 甘えるようにエイグは抗議こうぎしたが、ドルチに背中を押され、渋々、エイグは口を開いた。

「…ごめん。」

「聞こえない。それに僕ではなく、この子に謝るべきだ。」

 もごもごと口の中で言ったエイグに、イグーはすかさず指摘した。エイグは悔しさと恥ずかしさにふるえながら、仕方なくランバダに向き直り、先ほどより大きな声を出した。

「ごめん、私が悪かった。」

 今度はイグーも何も言わなかった。だまってランバダを見ているので、ランバダは慌てて口を開いた。

「う、うん。ぼくもおこったり、たたいたりした。ごめんなさい。」

 ランバダに謝られ、エイグは顔を赤くした。謝られた事がなかったので、どうしたらいいのか、分からなかったのだ。

「それでは、これで仲直りという事でよろしいですな。イグー坊ちゃま、今後ともうちの坊ちゃまの御指導ごしどうをお願いします。これで失礼致します。」

 ドルチは慇懃無礼いんぎんぶれいにイグーに挨拶すると、エイグの手を引っ張って帰って行った。言葉は丁寧ていねいだが、気持ちのいいものではなかった。

 二人が去り、ランバダは年上の少年達の中にぽつんと一人、どうしていいか分からずにたたずんでいた。

「大丈夫か?殴られた所は痛くないか?」

 イグーがかがんでランバダに視線を合わせてたずねた。ランバダはもともと人見知りなので、戸惑いながら頷いた。

「そうか。家はどこだ?僕が送って行こう。」

 イグーの問いに他の少年が代わりに答えた。

「十番通りのランバダです。ランバダを知らないのは、イグーさんぐらいのものですよ。」

 花通りではそれくらいランバダの出生と、ソリヤとセリナの結婚についてうわさになったのである。そして、ランバダの容姿が今も噂の種になっていたが、イグーは剣術の事しか頭にないので、噂を知らなかった。

「そうか。十番通りか。僕が送って行こう。みんなは先に帰ってくれ。家に帰ってやる事がないのは僕ぐらいのものだし。」

 家に帰った少年達は家の手伝いがある。その事をイグーは十分に承知していた。少年達は頭を下げて、さっと帰宅して行った。

「さあ、行こうか、ランバダ。僕はカルム・イグーだ。よろしく。」

「ぼ、ぼくはランバダ・スルーです。」

 ランバダは消え入りそうな声で、なんとか名乗ったが、エイグに言ったようにきつく聞こえないなどとは言わなかった。にっこり嬉しそうに笑った。

「うん。いい名前だね、ランバダ。」

 イグーはランバダの手を取り、ゆっくり歩き始めた。そして、すぐにランバダの歩き方がおかしい事に気が付いた。道場で毎日、人の動きを見ている。それだけに誤魔化ごまかすことはできない。

「どうしたんだ、歩き方が変だ。どこか痛いのか。」

 実は最初に転んだ時に、右足をひねっていた。その後、無我夢中でエイグにつかみかかって叩いたりしたから、余計にひどくなったのだ。ランバダは困って立ち止まった。

「右足が痛いのか。足首だな。」

 ランバダが何も言わなくても、イグーは見抜いた。

「じゃあ、僕が負ぶって行こう。さあ、背中に乗って。」

 イグーは末っ子なので、自分より年下の子供の面倒をみるのが嬉しい。道場でも積極的に年下の子供達の面倒をみていた。

 ランバダは戸惑ってもじもじしていた。いつまでも、突っ立っているので、イグーはランバダをひょいと抱き上げて歩き始めた。木刀を持ったままだが、いつもきたえているので辛い事ではなかった。

 ランバダは後ろに進んでいく石畳いしだたみを見つめながら、こんな事ならおんぶされた方が良かったと思った。抱き上げるというのは結構、大変な力仕事だと妹や弟の子守りをするランバダには分かっていた。

 だから、負ぶわれるのも躊躇ちゅうちょしたのだ。七歳が三歳をおんぶするのは大変なのに、まして十三歳とはいえ、七歳をおんぶするのは重いに決まっている。

「どうしたんだい?僕がこわいの?さっき、僕がエイグに怖い声を出したからね。」

「う、ううん。こわくない。」

 あわててランバダは返事をした。

「君だったんだね。噂の主は。イゴン将軍に弟子入りするんだって?」

 突然のイグーの言葉に、ランバダはびっくりして思わず口走った。

「え?ど、どうして知ってるの?だれにも言ってないのに。」

 イグーは嬉しそうにくすくす笑った。なんだか少し年上の姉のパーナくらいの少女達がするような笑い方だったが、なぜか、彼には似合っていた。ふんわりとした雰囲気ふんいきだ。本人が言った通り、さっきは怖い声を出したのだろう。

「たまたま、道場で師匠と来客の方がお話されていらっしゃるのを耳にしたんだよ。客室にお茶をお出ししに行ったら、君の話をしていたんだ。花通りの子供がイゴン将軍に弟子入りするらしいとね。

 どこか道場に弟子入りする子の話は聞かないけど、君がよそに奉公に行くという話は聞いたと他の子に聞いたんだ。それで、君だと分かったよ。だけど、心配しなくていいよ。他の人には分からないように聞いたから。」

 ランバダは心からほっとした。

「今、ほっとしたね。噂になったら困るから、ご両親に言わないように言われているんだろう?僕としては少し残念だな。エルアヴオ流に入れば、僕が二年間は教えてあげられたのに。」

 期限を切った事がランバダは気になった。

「どうして、二年なの?」

「あと二年で僕は十五歳になる。十五になったら、僕は国王軍に入るかエルアヴオ流の総本家に養子に入るか、決めなきゃいけないんだよ。養子っていっても大変なんだ。実子と養子の中で一番優秀な者に、最奥義さいおうぎが伝えられ家督かとくを得る事ができる。迷う所なんだ。君はどう思う?」

 突然のむずかしい話にランバダは混乱した。

「ぼく、よく分からない。…でも、ぼくはこくおうぐんに入ってマウダをつかまえるんだ。」

 ランバダはマウダをやっつけるには、国王軍に入らなければならないと思い込んでいた。

「そうか、オブン・グースは君の友達なんだね。彼を助け出すの?」

 イグーにグースの事を言われても、不思議と腹は立たなかった。むしろ、温かい気持ちになり、勇気づけられた気がした。

「うん。」

「そうか。頑張るんだよ。君もしょっちゅう女の子みたいだと言われるだろう?」

 ランバダはびっくりした。初めて顔を合わせて話をしているのに、どうして分かるのだろう。

「…どうして、分かるの?」

 イグーは楽しそうに笑った。

「僕もそうだったから。一番上は兄さんだけど、後は四人も姉さんがいるから、遊ぶ遊びはおままごとや人形遊びばかりで、その上、姉さんたちが僕の代わりになんでもやってくれていたんだ。

 さらに、姉さんたちが僕に着せてくれる服ときたら、みんな自分達のお下がりばかり。君の年頃まで、僕は姉さん達の服しか着た事がなかったし、言葉づかいいも姉さん達と同じだったからね。

 父さんも母さんも一日中忙しくて家にもいない事が多いし、ある日、兄さんが気が付いて、びっくりして父さんと母さんに言ったんだ。

 それがきっかけで、エルアヴオ流の道場に入る事になって、最初の三カ月はずっと道場で寝泊まりした。

 それで、すっかり分かったんだ。僕はとんでもない生活をしていたって。それからはもう、一生懸命いっしょうけんめい、剣の練習にはげんだよ。このままじゃ、女の子みたいだって一生、言われるって。」

「ぼくよりすごい…。」

 ランバダは思わずつぶやいた。

「そうだろう。だから、大丈夫。君も努力をすれば、ちゃんと強くなれる。」

 ランバダは話をしているうちに、イグーが歩いている方向が十番通りではない事に気が付いた。

 花通りの住人が利用する花通り市場にさしかかっていた。住居がある横丁の路地ろぢからすれば格段に人が多くにぎやかだ。

 珍しい組み合わせに人々が興味深げにながめ、振り返った。

 十番通りのランバダがローロールのイグー坊ちゃまに、抱っこされて歩いているからだ。ローロールで働く人達や使用人達も市場を利用しているので、驚いた顔をしてイグーに挨拶し、イグーはにこにこして会釈えしゃくして返した。

 やがて、市場を抜けて通称『ローロール橋』と呼ばれている、大運河にかかる橋が見えてきた。その名の通り、ローロールの先代が自腹でけた橋である。

 本当は『花通り中央橋』というが、誰もそんな名前で呼ばない。先代は屋敷の一部を道路にし、以前からあった道路とつないだ。その屋敷前に新しく作った道路と、新しく作った橋をつなげてさらに利便性をあげたのだ。

 サプリュ市も協力し、他の大商人たちも資金提供したが、ローロールには及ばない。

 だから、さすがに七歳のランバダもイグーが物凄いお坊ちゃまで、市場を歩いた事によってそれを肌で分かってしまったものだから、この十番通りに向かっていない事に物凄くあせりを覚えた。

「ね、ねえ、どうして、十番通りに向かっていないの?」

「君の足を医者にせるためだよ。」

 医師は五番通りに住んでいる。花通りの役所も五番通りにあり、警察や民警なども五番通りにあった。

「なんで、五番通りに行かないの?」

「ベリー先生はしばらく、僕の家にいるからだよ。義姉さんがお産でじきに生まれるらしいんだ。それで、ベリー先生に来て頂いている。

 今、五番通りに行っても診療所には新たに派遣はけんされて来た他の先生がいらっしゃるよ。君は人見知りだから、ベリー先生がいいんじゃないかと思ってね。」

 僕の家と言っても、運河の向こう側にはカルム家の広大な屋敷と店のローロールがでんと並んで立っている。あんまり、こんな所まで来た事のないランバダは落ち着かなかった。

「ぼ、ぼく…」

 ぼく、帰ると言おうとしたランバダの言葉をイグーはさえぎった。

「大丈夫だよ。そんなに心配しなくていいよ。せっかくだから、僕の家を見学して行ったらいいさ。僕がついているから大丈夫。」

 イグーはとても嬉しそうだ。実際に嬉しかった。弟ができたみたいで楽しかったのだ。

 アーチ形の大きな石橋を大勢の人々が渡り歩いている。花通りの端と端にも橋はあるが、これほど便利な橋はない。自然と渡る人の数も多くなる。

 花売り娘と呼ばれる女性達も多くいる。セリナとパーナもそうだ。花車と呼ばれる車に問屋で買った花を積み、他の大通りなどで売る女性達の事だ。よく売りさばく人は日に何回か問屋との間を往復する。本当によく売る人はローロールが雇っている。セリナもそうだ。だから、蜂蜜などを安く譲ってもらったりできる。

 ランバダはセリナかパーナに会うんじゃないかと気が気ではなかった。まだ、日は高い。その可能性は十分にあった。

 とうとう、橋のたもとにきてしまった。大勢の人々が行きかう中、イグーに抱かれていたランバダは船着き場の方から、大勢の男達が駆けあがってくるのを目にした。

 怒鳴り声がし、人々が悲鳴をあげた。橋を渡り始めていたイグーも立ち止って振り返った。

 なんだ、とイグーとランバダが思った時には、橋の手前にガラの悪そうな男達がぞろぞろと並んでいた。人々が走って逃げだす。イグーもランバダを抱いたまま走って行こうとした。

「カルムの坊ちゃん!」

 男の一人が良く通る低い声で怒鳴った。

 カルムという名にイグーだけでなく、他の人々も思わず立ち止まって振り返った。人々はイグーがいる事に気が付いた。

「おい、エルアヴオのイグー坊ちゃんよ、悪いがお前に用があるんだなあ。俺達もやとわれの身でよう。坊ちゃん、あんたに恨みはないが、痛い思いをしてくれな。ちょいとぼこぼこにしてくれって頼まれてな。もちろん、名前は言えねえが。

 まだ、ガキだから気が進まねえんだが、エルアヴオで大人相手にやってんじゃ、一人前だと言われてなあ。俺達も食わなきゃならねえ。ちょいと痛い目にあってくれ。」

 カルム家の目の前で気が引けたのか、そんな言い訳を男は述べた。気が進まない割に男達の手には棍棒こんぼうやら刃物やら、手に物騒な武器を持っている。

 もしかしたら、どこかに見張りでもいるのかもしれなかった。ちゃんとやらないと金をもらえない手はずになっているのかもしれない。イグーは冷静に男達を観察しながら、考えた。

「坊ちゃん、逃げろ!」

 誰かが叫んだ。

「さ、早く!」

 一人の男の人がじりじりと戻って来て、イグーをうながした。

「近寄るなあ!」

 男の一人が棍棒を振り回し、橋の欄干らんかんを打ち付けた。みんなが音に気を取られているすきに、イグーは近づいてきた男の人にランバダを預けた。

「この子、足を怪我けがしているんです。連れて行って下さい。」

「しかし、坊ちゃん!」

「いいから、早く。じきに警察が来ます。時間を稼ぎます。」

 イグーは言って、自ら戻り男達に橋を渡らせないように、真ん中あたりに立った。ランバダを預かった男の人が後ろに下がって行ったのを、足音で確認した。

 ランバダをずっと抱いていたので、手が少ししびれていたが、練習で手を打ち付けられた時とは比べ物にならない。

 静かに呼吸を整え、木刀を構えた。本当は市街で木刀を振り回してはならない。破門になることもある。しかし、イグーは躊躇ちゅうちょしなかった。こんな時に剣を使わなかったら、一体、いつ使うのか。人々を守るための剣である。

 イグーのまとう空気が変わった。すーっと澄んだ、研ぎ澄まされて緊張感のある空気だ。たたかおうと焦らないように気を付けた。静かに男達を観察する。

 見ているだけで緊張する空気に、人々は押し黙って成り行きを見つめた。警官達がやってきたが、捕まえなくてはならない人数の多さに、慌てて応援を呼びに走って行った。下手に手出しして、イグーに危害が及んではならないと、警官達は非常に慎重になった。

 そうこうしているうちに、話を聞きつけたローロールで働く人達、ローロールの留守を預かるイグーの兄のログネルが走って出てきた。

 ログネルとイグー兄弟の両親は、出かけていて留守である。珍しい花の仕入れの事で遠方のバスチャまで行っているので、帰ってくるのは半年後だ。実質ローロールを切り盛りしているのは、ログネルだった。

 イグーの元に人々が走り寄ろうとした時、焦った男達が先に棒を持って殴りかかった。

 あぁ!人々が一斉にどよめいた。剣術の天才と呼ばれていようとも、まだ、十三歳なのだ。数人に同時にかかられては、かなわないと誰もが思った。

 だが、イグーは軽やかに男達をかわした。躱すだけでなく、足をねらって木刀を打ち込んでいた。二人の男が同時に痛みにうめきながら倒れこんだ。さらに二人が立て続けにすねとふくらはぎを叩かれ、足をもつれさせて転んだ。

 明らかにイグーは手加減していた。十三歳といっても、イグーが本気で木刀で叩けば、骨折したり内臓を損傷したりする事は十分に承知していた。だから、足だけを狙ったのだ。

 イグーは素早く後ろに下がり、間合いを取った。

 その時、運河の向こうから話を聞きつけて、イグーと共に道場に通う子供達が木刀を手に持ち、走って来た。ローロールで働く大人達と一緒に、橋まで出てきて、イグーの後ろに並んだ。

 さすがに分が悪い。その上、警官の応援がピーピー笛を鳴らしながら、走って来る。

「くそ、ずらかるぞ!」

 頭目の一言で男達は脱兎だっとのごとく逃げ出し、船着き場から船に飛び乗り、ぎ出して行く。警官達とローロールの人々が後を追い、辺りは騒然となっている。残ったのはイグーに打たれて、逃げ遅れた者達だけだ。彼らは警官に連行されて行った。

 人々は喜んで叫び、イグーとローロールを褒め称えた。野次馬も大勢いて、物凄い騒ぎだ。

 イグーは人々に囲まれながら、何事もなかったように、見知らぬおじさんに抱かれたままのランバダの所にやってきた。

 この人ごみでは、ランバダが帰る事はできない。ランバダはびっくりして震えていた。イグーが大丈夫か心配だったし、その後の人々の興奮こうふんぶりにおびえていた。

「大丈夫かい?足を早くベリー先生に見て頂こう。」

「わしがこの子を一緒に連れて行きます。坊ちゃん、案内して下さい。」

 人がどんどんやってくるので、ランバダを抱いていた男の人は気をかせて言った。

「イグー、大丈夫か?こっちに来なさい。」

 ようやく、イグーの元に来たログネルはイグーの腕をつかんだ。

「兄さん、この人も一緒に。」

 一瞬、眉根を寄せたログネルだが、理由も聞かず、イグーと一緒にランバダを抱いたままの男の人を屋敷に招き入れた。

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