Log-138【ヒトの祈りの防護壁-壱】

「――術式構築および結界の広域展開を完了。初動魔力の捻出および維持強化用魔力の経路を敷設ふせつ。あとは対象のエネルギー放出に対応して魔術を即時起動します。各位、心構えのほどはよろしいかしら?」


 仲間の無駄口に付き合いつつも、イングリッドは素早く精確に魔術の準備を整えていた。眼前にうずたかくそびえる鉄の巨神アイアンタイタンが纏う光は、もはや旭光きょっこうの如く。その直視し難いまでの眩さは、人類に予感させた。神による裁定の刻はもう間もなくだと。


「特鋭隊、総員配置! 合図ののち、全魔力を魔術に注ぐよ!」


 後方部隊への撤退指揮に当たっていたエレインが特鋭隊を引き連れて前線に復帰。横一列に並んだイングリッドと魔術師達の背後に立ち並び、彼らは一斉に手を差し伸べた。


「撤退行動への移行に滞りなく! エレイン以下特鋭隊、支援に徹します!」


 エレインの喚呼とともに、最前線に渦巻く膨大な魔力。一堂に会した連盟部隊の意識と魔力は一点に集中していき、日輪をいただ鉄の巨神アイアンタイタンと対峙する。張り詰める両者の様相は、天を衝く霊峰の麓に群がる小さな岳人がくじん。それは言うなれば――死の行軍。人類が抗っているなどと言える光景では決してなく、一方的な蹂躙じゅうりん。誰の目にもそう映るだろう。


 しかし、それでも彼らに、諦念の色は見えない。圧倒的な質量の差はあれ、彼らには一つの確信めいた感触があった。神に無くヒトにあるもの、それは魔術。非力なる人類が編み出した叡智。創世をも果たした神が、なぜ魔力を持たないのかは分からない。だが、実感として認識できる、その力が備わっている。この戦場において神秘をもたらすことができるのは、ただヒトのみ。


「『――空界氷河グレイシア・インターヴァル』」


 今ここに、巨大な氷壁が現れる。大地から弧を描いて伸びていき、都市を囲む幕壁をも飛び越えてそそり立つ。それだけに留まらず、同様の氷壁が折り重なるように次から次へと出現し、堅牢なる氷層を幾重にも連ねていく。その様相はまさに、押し寄せる巨大波が瞬時に凍りついたかの如く。まるで浮世絵に描かれた波濤が具現化したかのよう。


 そんな人類の幼気いたいけな抵抗を知ってか知らずか、彼らが魔術を始動したと同時に、鉄の巨神アイアンタイタンは動き出した。流砂に足を取られた姿勢そのままに、ゆっくりと胴体を折り曲げて屈み込む。前屈姿勢の状態で、身に纏う光輝はいよいよ以て旭光きょっこうの如く。その光は、幕壁のそれよりもなお分厚いはずの氷壁をも透過し、連盟部隊はみな一様に目を細めた。だが、彼らが捉えたのは、光だけではなかった。耳を打つ、それはあたかも鼓動のような、鈍く重く、律動的な轟き。その一拍一拍が、大地を揺さぶり、烈風が吹き荒れ、泡雪を立たせる。何が起きているかは分からない、だが、その発生源は確かだ。音の鳴るたび、巨神の放つ眩い光が更に眩く明滅するから。


「魔力を最大まで高めろ!」「すでに全力です!」「僅かでも壁に厚みを!」「もはや我々ができる限界速だぞ!」「温存なぞしてる場合ではないのだ!」「奴を見よ! 都市が吹き飛んでもおかしくはない!」「捧げろ、全てを! それが私達の出来る全てだ!」


 鉄の巨神アイアンタイタンの異変に、隊員たちは互いに催促を始めた。もはや人類に一刻の猶予もなく、間もなく巨神の反撃は始まるだろう。そう感じさせるほど、大気は激しく入り乱れ、大地は鈍く揺れ動く。耐えがたい危機感と焦燥に駆られ始めた――その時、一行を包み込んでいた魔力の流れが変わった。いや、爆発的に増幅したと言った方が正しいか。手足が多少痺れる程度だったものが、痛みを伴うほどにまで膨れ上がったのだ。その革命的な推進力をもたらしたのは、


「当たりだ……ウルリカと一緒に破狼ハロウの侵食を試みた経験が生きた……。大地の《魔脈エーテルパルス》を侵食すれば、魔力を引き出せる……!」


 膝を折り、漆黒に染まった手を地面にあてがう、アクセルだった。破狼ハロウの肉体を侵食し魔力を吸収した要領で、大地に脈々と流れる魔力を吸い上げていた。


「僕の身体が保つ限り、この地の魔力を汲み上げます! この力、使ってください!」


 身体が保つ限り……アクセルは幾度もの行使により、コツを掴んでいた――その限界も。自らの暴走に歯止めをかける『恒常の指輪』は、彼やウルリカの想像以上に保ってくれていた。しかし、確実にその指輪は効力を失いつつある。厳密に言えば、目に見えて縮まっていた。魔術が施された銀無垢の指輪が、まるで削り取られ、しぼんでいくかのように、小さくなっていたのだ。当然、指輪を嵌めた指は血流が滞るほどに締め付けられていた。


「アクセル、お前……本当に大丈夫なのか?」


「隊長、お心遣い感謝いたします。大丈夫です、僕にはウルリカがついていますから」


 怪訝けげんな表情を湛えるジェラルドの不安とは裏腹に、アクセルの精神は盤石と言えた。ウルリカが己にかけた呪い誓いが、いつも傍らにある。その確信があればこそ彼は、セプテムの都市に牙を剥いた自らの罪と向き合うことができ、その罪深き力の行使と制御を可能とするのだった。


 アクセルが地脈から吸い上げた魔力の後押しによって、氷壁は瞬く間に二重、三重と更に折り重なっていく。それはあたかも、幾星霜を経て堆積した地層の如き重厚――しかし、そんな人類の快進撃も束の間だった。ここに、神による審判が下される。


 世界は神の慟哭どうこくを聞き届け、その声に呼応する。大気の擾乱じょうらん、大地の烈震、日輪の招来。地上に根付くあらゆる命をあざ笑う、破滅的な災禍をもたらす。生命を蹂躙じゅうりんする魔物を災厄と呼ぶのなら、眼前で引き起こされるその神の御業を、あるいは天災と呼ぶのだろう。幾度となく繰り返されてきた、多様な命の営み、文化文明の繁栄、それらをことごとく滅ぼしてきた災いが、この地に顕現する。


 しかし――突如として、乱れが収まった。風が止んだ。大地が鎮まった。地上に荒れ狂う巨神の暴威が、突然鳴りを潜めたのだ。「止まった?」「終わった?」「収まった?」人々は口を揃えて、凪の到来を認める。疑問符を付けた、希望的観測を以て。


 だが、これは違う。胸中では、誰もが分かっていた。異様な静寂だ、嵐の前の静けさだ。時間にして数秒の寸暇だったのだろう。その一瞬のうちに、背筋が凍りつくような怖気が走る。死を直感した時のような、逃げ場のない恐怖が人々を襲う。なぜなら、音が全くないのだから。風の音もない、物音もない、命の気配もない。その一瞬は、決定的に何かが欠けた時間だった。まるで神が、大地から息吹を奪ってしまったかのように。地に足がつかない、浮遊するような不穏さが地上を包み込む。

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