Log-123【死の瞬き】

 見渡す限りの巨体に、無尽に蓄えられた魔力。だが、それにも限界はあった。その激流を制し、押し寄せる波濤はとうことごとく吸い上げる。どこから湧いてくるのか、かつてないほど力漲るアクセルには、確かな手応えがあった。徐々に、明確に、大狼が生気を失っていく様子に。


「アレクシア! 今よ! 全力でお願い!」


「気張れ野郎共ッ! ここが正念場だぁッ!!」


 ウルリカから受け取った指令に、アレクシアは好機と見て、ときの声を張り上げる。それに呼応する連盟部隊、その士気は更なる盛り上がりを見せ、最前線へと一斉に躍り出る。破狼ハロウが有する大木ほどの健脚に、無数の刃が突き刺さっていく。最早自重を支えられぬほどまでに破砕した脚、エレインら特鋭隊が巻き付けた捕縄の呪物ウィッチガイドを渾身の力で引くと、遂に大狼は腹を地に着けて伏臥した。


「イングリッドォ!!」


「無論ですわ!」


 破狼ハロウが腹を着けた地面には、その巨体を囲い込むほどの巨大な魔法陣が結ばれていた。アレクシアの喚呼に応えるイングリッドが、魔術師達と共に魔術を執行する。


「『くんを討つ臣下、父母を殺むる子、其は寸時の翻意ほんいに非ず。漸次ぜんじ積もりて、始末無精の末路に過ぎず。兆しをうかがい、天理を辿れ、霜履氷至アイシクルサイン』」


 折り重なる詠唱、それはまるで、戦場を悼む鎮魂歌の如く。荘厳なる斉唱を経て、起動する魔法陣――地面から無数の氷柱が次々と伸びていく、串刺しとなった破狼ハロウの腹部は、たちまち深紅に染まっていった。体内から吐き出される夥しい血肉、それはあたかも、冷徹れいてつなる氷の剣山が獣を磔刑たっけいに処す様相。


(効いている……間違いなく、効いている……!)


 空から俯瞰ふかんして状況把握に努めるウルリカは、軍隊として見れば僅かな手勢で頂点捕食者を圧倒する光景に、胸が騒ついていた。それはただ戦況の転回に対してだけでなく、彼女やパーシーの推測が当たっていたことにも起因していたようだ。


 アクセルの命を懸けた奮闘によって、破狼ハロウは目に見えて体力を失った。アレクシア達の刃は容易く骨肉を穿ち、イングリッド達の氷結魔術はその効力を十全に発揮している。一切をはじき返してきた無敵の大狼に、人類の爪牙が通るようになったのは、偏に桁違いの魔力を失ったことが原因だった。


(確証はほぼ取れたようね。破狼ハロウが神話の霊獣に比肩するような力を擁していたのは、それほどまでに膨大な魔力を蓄えていたからだわ。その尋常でない魔力量に飽和魔石が呼応して、奴を神話生物へと押し上げていた)


 かつて夭之大蛇ワカジニノオロチがそうだったように、飽和魔石を内に秘める魔物は、尋常ではない体力を備えていた。だがそれは、魔物の体躯や魔力量に比例したものだ。この人魔大戦を含め、これまで打ち倒してきた並の魔物には、それほどの強靱さを感じられなかった。


(――幻理、そうね……概念が物質化するって法則を操るのが咒術の本質なら、奴の変貌ぶりは一切の矛盾なくまかり通るわね)


 未だ仮説の域を出ない幻理なる法則。それが仮に存在するのならば、咒術をもたらす飽和魔石が魔力量に応じて魔物を神話級の生物にまで押し上げる。神話生物の召喚ではなく、自らが神話生物と成る。あるいはそれも、あり得る話ではあった。


(てっきり咒術は強力な魂の使役か何かかと思ってたけど、そもそもの認識が間違ってたのかも知れないわね。最早物質的な何かじゃなくて、もっと概念的な――)


 ――ウルリカは目を疑った。順調な作戦の運びに胸を撫で下ろし、思索にふけっていた最中。奴の周囲には、不気味なオーラが漂っていた。黒々として、不快感を催す放射体。既視感を覚えると共に、かつての戦慄せんりつが胸底から這い上がってくる。あれは、まずい、危険だ。


 しかし、ウルリカの危機感とは裏腹に、伏臥する破狼ハロウに向かって、アレクシアとジェラルドの部隊が得物を手に殺到する。一気に止めを刺すつもりだろうか。


 アレが見えないの? 頭に血が上ってる? 駄目、アレに近づいちゃいけない。


「アレクシア……ッ! すぐ後退し――」


 ウルリカの声は、しかし、遅かった。アレクシア達は力強く大地を蹴り、高々と一斉に飛び上がる。鋭利なる長槍を、重厚なる槍斧ハルバードを、鍛え抜かれた大剣を、地に臥した破狼ハロウ目掛けて、振り下ろす――白銀に艶めく覇王の鯨波げいは、魔物の頂点に君臨する威力、旋風をはね除け怒濤どとうを生じる激甚の咆哮ほうこう


 胴体を貫かれただろう氷の剣山を無理矢理に引き剥がし、己が血肉で大地を紅く染めながら、砕いたはずの脚を振るわせて、狂乱発狂したかの如く暴れ回る。


 大気を切り裂き、衝撃波を巻き起こす破狼ハロウの爪牙が、一人、また一人と、人間を引き裂いていく。触れずとも、ただ掠めただけで、二度と動かぬ肉塊へと変わり果てる。四肢も頭蓋も、まるで風に吹かれた木の葉のように吹き飛んでいく。


 僅か一瞬で、辺り一面には、原形を留めぬ屍が広がった。アレクシア率いる第一中隊と、ジェラルド率いる駐屯兵団は、指揮官である二人を残して、最早壊滅寸前だった。


 時を同じくして、破狼ハロウの胴体にしがみついていたアクセルが、勢いよく宙空に投げ飛ばされた。命綱を握るウルリカが儀仗剣の噴流を全力で放出させ、糸を巻き取りながら力一杯に引き付ける。己の下へと回収するまでは叶わなかったが、彼女の助力によりアクセルは浮遊の猶予を得て、宙空で体勢を整えると、外傷一つ無く着地できた――だが、呆然ぼうぜんと眺める彼の、視線の先に広がるのは、見知った者達の断末魔が響き渡る、阿鼻叫喚あびきょうかんの地獄絵図。


 戦況は完全に傾いた。戦場に立つ者全ての胸中に、絶望の文字が否応なく浮かび上がる。この期に及んで、尚も破狼ハロウは健在。アクセルによって奪い去った膨大な魔力を差し引いても――いや、彼の奮闘がまるで徒労だったかのように、大狼の生気は舞い戻っていた。氷の剣山が腹部を貫いた傷は深いが、致命傷には至っていない。


「う……くっ……」


 ――再び、アクセルの異能に頼るか? 否、前例に鑑みれば通用しないと考えていいだろう。


 ――では、残る魔術師達と共に、大規模な典礼魔術で仕留めるか? 否、留める手段がない。


「あたしの、責任……あたしが……走魔性なんて、試さなきゃ……」


 弱音が、ポツリと零れる。人が死んだ、大勢死んだ。連盟部隊の継戦能力が崩壊寸前にまで陥るほどに。元より、軍隊として揃えられた戦力など、高が知れていた。寄せ集めな上に、慣れぬ環境下、魔物の規模に対して僅かな人員。それでも、その頭数で連合軍到着までを切り抜けると高らかに宣ったのは、自分だ。にも関わらず、今や、全滅必至の状況にある。


「もう駄目、なのかしら……これ以上、もう……」


「ウルリカァッ!!!」


 諦めかけた、その時だ。脳裏にけたたましい怒声が鳴り響く。その声は紛れもなく、姉のもの。


「ベソかいてる暇なんざねえぞ! お前は司令塔だろうが! 俺達はまだ生きてんだぞ!」


 命に別状はないものの、破狼ハロウの爪牙を凌いだその肉体は最早、活動限界の一歩手前まできていた。腹の底から迫り上がってくる血反吐を、むせ返すように撒き散らしながらも尚、アレクシアはウルリカに激語を送る。


「反省や後悔なら後にしろ! 次だ、次の作戦を命じろ! 俺達はまだ戦える、ならお前は、奴をぶっ倒すことだけ考えてろッ!!」


 頬を引っ叩かれたような、目の覚める激情が、ウルリカの胸に鋭く迫る。


 己は誠愚かだった。アクセルに対して偉そうに講釈こうしゃくを垂れながら、勇者の運命を受け入れた時に誓ったはずの『六趣りっしゅ範嶺はんれい』が全く生きていないではないか。立ち塞がる艱難かんなんの程度の問題ではない。たとえ何人と対峙たいじしようとも、厭わず、尽くし、背かぬこと。見下ろすほど優位に立とうとも、膝をつくほど窮地に陥ろうとも。それこそが、誉れ高き万夫不当の勇者たるものが抱くべき心構え。


「……ええ、アレクシア。悪かったわね、似合わない真似したわ。もう落ち着いた、次で決めるわよ」


「おう。もう猶予はねえ。正真正銘、次が最期だ。人と獣、どっちかのな」


 そう言って、アレクシアは精神感応テレパシーを切断した。すると、ウルリカは自らの頬を叩き、膝が折れそうだった己に発破をかける。奴を倒す手立てが、ないわけではない。


 ――奴を怪物たらしめる原因は飽和魔石。なら、体内にあるソレを破壊するには?


 それこそが破狼ハロウを殲滅する最後の手段。夭之大蛇ワカジニノオロチの時も同様ではあったが、外側からの衝撃には滅法強い。斬れど突けど打てど焼けど、それを上回る頑強さを身に纏っていく。しかし、内側だけは脆弱なまま。そこだけは、尋常の生物と変わらない。


 初めから思いついてはいた。だが、飽くまでそれを最後の手段として取っておいたのは、出し惜しみなどでは決してない。勝算が高いとは言えなかったからだ。


 第一に、破狼ハロウの魔力量は夭之大蛇ワカジニノオロチのソレよりも上であること。如何にウルリカがかつて放った透過や浸透を司る光の魔術を用いても、膨大な魔力抗体で弾かれる恐れがある。


 第二に、大狼の俊敏さを捉えるのが難儀であること。飽和魔石の一撃破壊には正確な入射からの十分な威力が必要。追尾の魔術を用いても、正しい座標での起爆が見込めるかは定かではない。


 第三に、飽和魔石の破壊が弱体化を促す確証が足りないこと。まず前提として、この推測が正しいかどうかが不明だ。大蛇や大狼を怪物たらしめているのは飽和魔石で間違いない。ただ、失われれば即座に弱まるのか? 甚だ疑問ではあった。


 だが、手は他にない。心臓を潰しても夭之大蛇ワカジニノオロチは持ち堪えた。ならば、


「……賭けね。何の確証もないけど、このまま指をくわえてるわけにはいかないわ。やるしかない、今はそれ以外に思いつかないもの。奴をぶっ倒す方法が……」

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