マギアルサーガ～うたかたの世に幕を引け～

Log-076【其は神の叛逆者】

　男に案内された研究室は、外観は他の集合住宅と瓜二つだったが、内部は建物の形そのままに大広間が広がっていた。

　そこはあたかも図書館の如く、周囲を囲み天井まで伸びた本棚には、所狭しと分厚い書物が収められていた。本棚に沿って幾重にも梯子が組み上げられ、それに登った幾人もの魔術師たちが至る所で書物に読み耽っていた。

「あら、遅かったわね」

　ウルリカとルイーサが立つ玄関口の向かい、大広間の奥まったところには、二人の方を振り向くイングリッドが立っていた。イングリッド越しに見えるのは木製の重厚で大きな机、そして、そこに座っていたのは、

「ホッホッホ、ウルリカよ。大学で会った以来じゃの」

「やっぱりね……」

　ウルリカはその顔を知っていた。いや、メルラン・ペレディールそのものだった。

「ウルリカ様、どうなされたのですか？」

　額に手を置いて俯くウルリカに、隣にいたルイーサが問う。

「イングリッドが居るのは、まあ案の定って感じだけど。何よりね、あそこに居る男、あれがメルラン・ペレディールよ」

「え？　いや、しかし……その方はアウラにおられるはずでは？」

「あたしも何が何だか分からないわよ」

　メルラン・ペレディールにそっくりな人物は、大学で会った以来と宣った。ウルリカに対してそう言えるのは、メルラン本人だけだ。

　居ても立っても居られず、ウルリカは足早にその男の座るところへ向かう。その背中をルイーサも同じ歩調で追った。

　男のところに向かって整然と並ぶ幅広の机と机の間を通る。その机上には大量の書物が見上げるほど山積みとなっていた。中には古代の文献も見られたが、比較的整った装丁を見るに、そのほとんどが写本だろう。

　骨董価値を持つ道具が真価を発揮するのは、殊更、魔術界隈においてのみ。人々の多様な想いや意思が道具に刻まれ、それを呼び起こすことで神秘を顕現させる。そのため古道具（アーティファクト）とは、古の記憶を伝え継ぐ魔術媒体と言えよう。

　ウルリカは既に魔術に関する一通りの書物を読み漁り切っており、その全てを記憶していた。そのためか、一瞥した書物の中に有用なものはなさそうだった。机に広げられた本の表紙に触れたり、ぼんやりと他愛のない考え事をしながら、歩を進める。

　戯れな思考も束の間、メルランと思しき男の前に着く。アウラで会った時と衣服は異なるが、どこからどう見てもウルリカの知る教授そのものだった。

　淡黄色の髪と髭を蓄え、柔和な顔つきは好々爺のように見えて、よく見ると目つきは鋭く、意思の強さを物語る。装飾質素な地色のローブを揺らめかせ立ち上がった。その齢八十を超える御老体とは思えないほどに逞しい体躯と、見上げるほど高い身長が、彼の威厳を際立たせる。

「で？　まずお約束として聞いてあげるけど、なんでイングリッドがここに居るわけ？　ゴドフリーの差し金ってところかしら」

「表現に気を付けなさい。単に、メルラン教授に確認すべき事柄があったのよ」

「事柄？　どんなよ」

「世界の裏側でこの世を牛耳る神様のお話しよ」

「……」

　ウルリカは口を閉ざした。そして、なるほど、とも思った。

　ゴドフリーの言う、勇者と呼ばれる悲劇の抜本的解決。

　そして、勇者の功業なる旅路の果てに待つ、真の目的。

　それは――

「――神様に喧嘩を売るって話ね」

「まあ、そういうことになるわね」

　ウルリカの突飛とも呼べる言葉に、あっさりと肯定したイングリッド。

「なっ……ウルリカ様。何を、仰っているのですか？」

　二人の一足飛びな話の展開に、珍しくルイーサは狼狽えていた。

　それもそのはず。神とは、信仰され崇められる対象。それは、子が親から受け継ぐ最初の教え。あらゆる文化に根付く通念。それを、あたかも当然のように覆す二人。ルイーサは再び聞き返す。

「ウルリカ様、正気で仰っているのですか？　神とは、寛容なだけではございません」

「ルイーサ、落ち着いて頂戴。あたしたちの言ってる神様ってのは、信仰上の神とは一線を画す存在よ。ま、詳しくはそこのメルラン教授らしき人物に諮問させてもらうわ」

　ウルリカは指を差して、背高の翁を見上げる。翁は微笑を浮かべて口を開いた。

「ウルリカよ、もはや分かっておるじゃろうに。儂は正真正銘、メルラン・ペレディールじゃ」

「ええ、でしょうね。で？　まずあんたは何者なわけ？　魔術界最高顧問にしてアウラ王立大学の魔術学部研究科長、なんて肩書きがあんたの本質を表してるわけじゃないわよね？」

「ふむ、なんじゃ……ゴドフリー君の気持ちが手に取るように分かるのう」

「……要するに、今は言えないってわけね」

　ウルリカは溜息を吐きながら首を振る。もう謎掛けはうんざりだった。

「いいわ、言えることだけ話してくれる？　何もかも内緒ってわけじゃないんでしょ？」

「すまんのう、ズルをさせるわけにはいかんくてのう」

　メルランは申し訳なさそうに頭を下げた。ズル、という言葉に引っかかったウルリカだったが、今は頭の隅に置いておく。

　気を取り直し、顔を上げた翁。ウルリカ達に向かって、深い声色で語り始めた。

「お主らが目指すべきは、その神の眷属にして、“叛逆者”の住まう世界じゃ」

「……神様の叛逆者、ね。で？　それはどこに行けば拝謁できて？」

「楼摩の女王を訪ねるがよい。彼女が道標となろう」

　ウルリカはメルランの語る言葉を反芻する。「神の眷属」「“叛逆者”の住まう世界」「楼摩の女王が道標となる」それらからして、まるでこの世ではないどこかに連れて行かれるかのような表現だった。

「そこで真実は告げられる。神託、とでも呼べば良いかのう」

「フッ、なかなかケレン味の利いた皮肉じゃない。神様の裏切り者から神託を得るだなんて」

「過去の勇者はみな、この道程を経ておる。様々な葛藤と、様々な選択があった。だが、例外なくその身を捧げおった。その末に彼奴らは、人類の歴史を支える人柱となったのじゃ」

「随分訳知りじゃない。まるで見てきたようにね」

「……後見人としての使命じゃからな」

「そう。なんとなくそんな気はしてたわ。後見人……ね」

　勇者の後見人。その言葉が示すものは、メルランという人間が幾人もの勇者を育て上げ、その最期を看取ってきた、ということ。

　この世に公として勇者を冠する人間が誕生したのは、およそ千年前。それから、九十九の勇者が現れては、人知れず消えていった。勇者個人を記す文献は殆ど残っておらず、ましてや後見人なる存在に言及したものなど存在しない。

「――じゃが一つ、警告しておくべきことがある」

「あら、ご丁寧に。何かしら？」

「ハプスブルクに気を付けよ。神託の下った先は、彼奴との瀬戸際外交（チキンレース）となろう」

「……」

　ウルリカは押し黙った。勇者である彼女だからこそ、胸中に思うところがあった。

「早いもの勝ちってわけね？　どちらが先に目的を果たすか。上等よ」

「ウルリカ、説明なさい。一人で納得しないで下さる？」

　隣で黙して聞いていたイングリッドが、語気を強めて問いただす。その静かな怒りは、単に内容を理解できないから、に留まらない感情。そう、彼女は勘づいていた、ウルリカの胸中に渦巻く葛藤を。

「イングリッド、あんたもゴドフリーから勇者の功業の何たるかを聞いたんでしょ？　手段は似て非なるものだけど、目指すところは同じなの。要するに、そういうことよ」

「……貴女、まさか」

「あたしが勇者になった時点で気付くべきだったわね。そうよ、あたしはハプスブルクから承ってるの。この、勇者の功業ってのをね」

　ウルリカがそう告げた瞬間、イングリッドは纏った燕尾服を靡かせながら、腰に帯びた鞭剣ウルミを抜刀――しかし、その手は柄を握ったまま動かなかった。彼女が動作する直前、既にウルリカは帯刀した儀仗剣を握っていた。鞘に接がれた魔石が光を放つ、その輝きが彼女の動きを縛る魔術の行使を物語る。

「はぁ……癇癪起こさないで、イングリッド。あんたって案外激情家よね。安心して、あたしは飽くまでも“勇者の功業”を果たすつもりだから。あいつはそれを掠め取ろうとしてるってだけ。だから瀬戸際外交（チキンレース）なのよ」

　イングリッドは鼻を鳴らして、強引に魔術を振り解く。腕組みをして、不機嫌そうにそっぽを向いた。ウルリカは彼女の気持ちが痛いほど分かる。だが、ゴドフリー然り、メルラン然り、そして己然り。勇者に纏わる者は、秘匿すべき真実と向き合い続けなければならない。

「気を悪くしないで頂戴。みだりに周囲を、社会を乱すわけにはいかないの」

「それは百も承知しているわ。無論、貴女の事情も理解しているつもりよ。但し、十分に気を付けることね。貴女がもし、公益に背くようなことが一度でもあれば、断罪は免れぬものと知りなさい」

「ええ、せいぜい肝に銘じておくわよ」

「ヒヤヒヤさせるでない……全く、何を起こすか分からん連中じゃわい」

　詰まっていた息を吐き、額に滲む脂汗を拭うメルラン。一向に悪びれる素振りのない二人の代わりに、ルイーサが深々と頭を下げていた。