Log-046【仁義と憧憬の間で-壱】

 誰も居なくなっていく客間で、一人取り残されたエレインは、最後にその場を後にした。覚束おぼつかない足取りで階段を下り、もたれ掛かるように玄関扉を開いて、外にでる。気付いた頃には夕暮れ、紫色に染まる空が、疲弊した精神をほぐす。


 エレインは、イングリッドの痛烈な皮肉の意図を理解していた。それは、勇者の功業への参列が、崇高にして優先されるべきものだという常識を逆手に取り、その実、自らに課せられた現実から目を背ける為の“逃避”として利用する、その浅はかで卑怯なやり口を見抜き、批判していたのだ。それこそが、レンブラントに対して抱いていた“罪の意識”の正体であり、ひた隠していたかった自身の衷心だった。


 それを、イングリッドは否応なく暴き、心奥から引き出した。彼女に対して感じていた苦手意識や恐怖心は、それが大きく由来していたのだ。


「はあ……僕だけだ、覚悟ができていないのは……」


「誰も覚悟なんて大して出来てないわよ」


 独り言に対する、唐突な背後からの応答に、エレインの心臓が跳ね上がる。咄嗟に振り返ると、玄関先で腕組みをして壁に寄り掛かったウルリカと、引き締まった表情を湛えたアクセル。


「……盗み聞きなんて、趣味悪いなぁ」


「知らないわよ、勝手に喋っといて。あたしたちはここに居ただけ」


「エレイン様。意図せず盗み聞きしてしまったことには謝罪致します。ですが、一つだけ――自分を、責めないで下さい。それだけは、何も生みません」


 アクセルの実直な言葉を前に、エレインは直視できなかった。ただ俯き、返事さえできない。自分の愚かさと稚拙な精神によって招いたことを、それこそ自らの手で責めなければ、彼女にはどうすることもできなかった。


「あんたね、考え過ぎなのよ。勇者になった理由なんてどうだっていいじゃない。あたしなんて反抗心だけでここまでやってんだし。綺麗事だけじゃ人生務まんないわよ。大切なのは一つだけ、今自分ができそうなことをやるかやらないか。それだけよ」


 ウルリカの言葉が、エレインの胸の奥底に突き刺さる。彼女のような強かさがあれば――それは、あまりに眩しい精神性だった。


 普段の事も無げなエレインの態度は、偏に自身の暗部を包み隠す行い。彼女の本質は、決して明朗なだけではない。常に最悪の事態を念頭に置き、悪夢を肌身で感じ、その怪異なるものを好む、という特殊な性癖を持っていた。それに最も近い境遇、それが勇者の傍らにあること。それが彼女にとっての、現実からの“逃げ道”だった。


「……僕はさ、結局逃げてるだけなんだ。望みもしない退屈な現実から、目を背けていたいだけなんだ。イングリッドお姉ちゃんは、五年も前からそれを見抜いていたんだ」


「逃げてる? そんなのあいつだってそうじゃない」


「えっ……?」


「あれはね、劣等感の塊よ。あんたも重々承知でしょうけど、確かにあれは小さい頃から何だって優秀だった。学業、兵法、魔術、社交性、鋭い知覚、あの器量から容姿まで。あたしは自他共に認める天才だけど、それは頭が、ってだけ。イングリッドは生まれついての万能よ、頭の天辺から足の爪先までね」


 ウルリカの言葉に、エレインは首肯する。イングリッドは紛れもない万能な人間。数値化される具体的な評価であれ、風評といった抽象的な評価であれ、誰しもが認める選良なる者の雰囲気を纏っている。


「でもあれはね、万能な代わりに、周りから全てを求められ、自身もあらゆるものを求めて、挫折に次ぐ挫折を味わったんだそうよ。父上や母上、最も近くにいたアレクシアは、それを知ってた。あれは、自分の努力や苦悩する様をおくびにも出さない性格。だけど、家族からしたら丸見えだったらしくてね。ふふっ、笑っちゃうわ。その実、あんたやコイツと同様に血の滲む努力家で、まるで夢見る乙女の如く桁外れの理想家なのよ」


 ウルリカのその言葉に、エレインは面食らった。まさかイングリッドの途方もない能力が、辛酸を嘗めて培った果てに得たものだったとは、思いも寄らなかったのだ。


 学徒の時代、際立った成績とは言えなかったエレイン。優秀過ぎたイングリッドの背中を、彼女は常に追う側だった。ウルリカやアレクシアのように、イングリッドを俯瞰して見られなかったのは、その立場が起因しているのだろう。


 エレインは、多少なりとも自分に近い境遇にあったイングリッドに、親近感を抱いた。彼女に抱いていた劣等感や苦手意識は、和らいでいった。


「あれが努力する理由はね、生粋の天才には歯が立たないもどかしさなのよ。武術ではアレクシアのような戦闘狂には敵わない。学業や魔術では天才のあたしに敵わない。そしてあんたには、あえて困難に立ち向かう強靭な精神に敵わなかった。それにうちは騎士の家柄だから、官僚としての立身出世はあまり望めない。イングリッドはとにかく中途半端を毛嫌いするけど、どんなにもがいても結局半端者になってしまうと思いこんでる。社会に出てからもあれだけ万能なまま一線級の仕事ができる人間なんて一握りなのにね」


 ウルリカはそう言って呆れつつも、憐憫れんびんの表情で首を振る。理想と現実の落とし所に悔い悩む彷徨期ほうこうきの佳境を乗り越えた彼女には、イングリッドの気持ちが痛いほど分かっていた。分かってあげられるものの、そこを乗り越えない限り、己の真髄は活かせないことも分かっていた。


「自分のできる事をただやればいいのよ。別にね、他人の顔色に合わせて生きる必要なんかないの。そうやって己の落とし所を見失ったイングリッドを見てみなさいよ。自分を殺した雁字搦がんじがらめの生き方に幸福はあるかしら。他人からの賞賛だけが人生じゃないのよ」


 ウルリカのぶっきらぼうな啓発に、アクセルは深く頷く。


「エレイン様。ウルリカの言葉が真実なのだと、僕も痛感します。僕の使命は、ウルリカを守り抜くこと。確かに形は使命ですが、何より本懐なのです。誰かに与えられたからではなく、僕自身が出来ると思うから、そうしたいと思うから行っているのです。エレイン様はまだ、選択する自由を持っています。心の赴くままに、生きてみては如何でしょうか」


「なによそれ、嫌味に聞こえるわね。いいのよ? あたしの護衛が嫌なら勝手に任を解いてもらっても。お守りなんて必要ないから」


「い、いや! 違うんだ! 僕は口下手だから、上手い言い回しができなくて……」


「へえ、口下手だから心のままに喋ったって? 上手く言葉を飾れなかったって?」


「そ、そういう意味じゃなくて……」


 二人の微笑ましい掛け合いを前に、エレインからクスリと笑顔が零れた。彼女の顔からは、先程のような苦悶の表情が抜けていた。


「そうだよね、自由でいいんだよね。僕は僕なんだから、僕のできることと、やりたいことを優先していいんだよね」


「まったく、手の掛かる姉ばっかりね。もちろんだわ、あんたを縛る奴なんかあんた以外この世にいないのよ。あんたの自由意思は羽ばたきがってる、ならさっさとその手製の鳥籠から解き放ってやりなさいよ」


「あはは。まったくウルリカは、表現が詩人みたいだねー」


「うっさいわね、そんなのあたしの自由でしょ」


 三人は笑い合う。年端もいかない少年少女のように、純粋無垢に――不意に、背後の玄関扉が開いた。

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