Log-015【異国の王-壱】

 “それ”が視界に入った瞬間、全身が泡立つような感覚に陥った。氷の鎖で縛り上げられたかのように、全身を駆け巡る悪寒は身体の自由を奪う。


(……声を……発するな……)


 隣でウルリカが口だけを動かして、意思疎通を図る。制止するまでもなく、アクセルはその場から一歩も動けなかった。


 洞窟という閉鎖空間で、重く鈍く、金属が軋むような音が反響する。件の洞窟に入ってからというもの、“それ”に向かって歩みを進めるほど、その音は大きくなっていった。


 音の正体は果たして、ただの息吹でしかなかった。洞窟全体を震わせるのは、眼前に佇む巨獣が吐く息でしかないと言う事実に、恐怖を通り越して生命の神秘性すら感じられた。


(こいつを……僕達が……?)


 腰に帯びた剣に伸ばしていた腕が、力を失っていくのを感じた。



―――



「失礼かもしれないけど、確認させてほしい。ウルリカは本当に勇者としてローエングリンの意志を継ぐ、その覚悟があるんだね?」


 エレインは真っ直ぐに、向かいに座るウルリカを見つめる。その言葉の後には、僅かに静寂が流れた。カーテンのなびく音だけが聞こえる。


「エレインのように、勇者を目指す確かな切掛けや理由があったわけじゃないし、動機も勇者を肩書とするには不純なものだわ。だけど、あたしはあたしの目的を裏切らない。ただの一度も裏切ったことなんて無いわ。難しいかもしれないけど、あたしを信頼して頂戴」


 その斜に構えた語り口とは裏腹に、ウルリカの瞳と語気はエレインの心を突き動かすほど、迷いのない鋭い説得力を持っていた。


「呆れたよ、ウルリカ。君がまさか本気で勇者だなんてね。僕がまだローエングリン家に居た時は、いつだって非行に明け暮れていたのにね」


 クスクスといたずらな笑みをこぼすエレイン。アクセルやルイーサまでも釣られて微笑む。そんな言い草があるかと、ウルリカは溜息を吐きながら頭を抱える。


「昔の話よ、程度の差はあれ、誰しも間違いは犯すものだわ。いちいち蒸し返すんじゃないわよ。で、結局どうすんのよ。答えを聞いてないわ」


「参ったな。本来なら僕の一存で決められるものじゃないけど……ローエングリン家末女にして、真に勇者を志す者の言葉なら仕方あるまい! 一先ず上司に相談してみるよ。無理……ということはないんだろうけど」


「まあ、できれば宿代くらいは浮かせたいけど……時間ならいくらでもあるわ。あたしたちはここで滞在してるから、早めに済ませて頂戴」


 彼女の昔から変わらない無茶苦茶ぶりに、やれやれと諦めの溜息を吐きながらも、エレインは嬉しそうな笑みを湛えていた。



―――



 二日目の明朝だった。前日はウルリカの買い物に付き合い、その後、夜が更けるまで鍛錬をこなしていたアクセル。疲弊しきった身体は、泥のような休息を欲していた。


「アクセル! 起きなさい!」


 しかしウルリカは、前日の明け方から晩に掛けてグラティアの街中を隅々まで練り歩いたにも関わらず、まるで吹き荒れる砂嵐が如く叩き起こしてくるのだった。


「今から王宮に出向よ。エレインの意向が陛下の耳にまで届いて直々に謁見するそうだわ。あの娘こっちに来て高々二、三年程度の経歴しか無いってのに、陛下に顔が利くなんて随分な出世じゃない」


 嵐のように無断でアクセルの寝室に現れては、舞台役者の如く饒舌じょうぜつで矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。


「はい、今起きます……」


「……! アンタそれ、寝癖どうなってんのよ! もしかしてそのまま出向くつもりだったの!? だらしないにも程度ってもんがあるわよ!」


 目を擦りゆっくりとベッドから起き上がるアクセルを、首根っこを捕まえて洗面台へと引きずり、跳ね上がった髪の毛に串を通す。


「ほら、顔洗って! 歯も磨きなさいよ! アンタどうせ服もその一、二着しかないんでしょ? 昨日アンタ用に礼装を買っておいたから、これ着なさい」


 アクセルはウルリカのなすがままに身支度を整えさせられる。いつの間にか礼装も用意されており、大きさもピッタリときた。恐らく自分よりも余程使用人に向いている、と口にできるわけもないことを考えるアクセルだった。


 三人は一度、宿の食堂に集まり、朝食を摂ることとなった。時間にして十時頃の訪問が約束となっており、現在は八時前。ウルリカとルイーサの念には念を入れる性格が現れていた。


 ウルリカ曰く、グラティア王への謁見はエレインの計らいだとか。勇者に対して支援したいと申し出て、執務の合間を縫って時間を作るほど、王は大層好意的だったらしい。


「その王様というのは、どのような方なのでしょう?」


「そうね、アウラとは古くから親交ある国の王、人となりがどうあれ、悪いようにはされないでしょうね。まあ、初端からアンタの所為で礼を失するところだったけど」


「その折は、助かりました……」


「まったく……まあそれはともかくとして」


 問題は、本当にエレインを手放す気があるのかと、ウルリカは言う。支援が本当だとしても、それが彼女と引き換えでは意味が無い。どのような提案を飲んででも彼女を引きずり出さなければならない。それ以外は付随物でしかないと、ウルリカは断じた。

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