Log-007【去る日の大火-壱】

 それはもう、何年前の話になるだろうか。


 その惨状を、一目では理解できなかった――いや、脳裏が理解を拒絶していた。煌々と燃え盛る炎が、少年の見知った家々を焼き尽くしていた。


 火の手が上がる家屋の中には――彼が帰るはずの――生家の亡骸もあった。瓦解してしまい、家屋の原型を留めていないが、いらかに残る風見鶏だけが、辛うじて生家の所在を示す。


 そこは故郷の村……だったはずの場所。その街路の到る所には、見知った顔の人間……だったはずの者たちが倒れていた。血で大地を染めたその骸は、吹き荒び頬を焦がす炎熱とは対照的に、凍えるほど冷たかった。


 少年は涙を流すことも忘れて、元は自身が住んでいただろう、倒壊して炎に包まれた瓦礫の前に佇む。はっ、と我に返り、母や兄弟の名を呼ぶ。返事は決して返ってこなかった。


 なおも上がり続ける火の手に、命の危険を感じて、張り裂けそうな胸の痛みを堪えながら、故郷の村を飛び出す。背後を振り返ることもせず、見えなくなってしまうまで走り続けた。


 しばらくすると、見慣れない街道に出た。次第に息が切れて、走るのを止めた。長い時間、大火の只中に居たせいか、肺が重く痛い。身体中はすすけて、黒々と汚れている。鼻孔にまで灰が入り、鼻をかむと黒い鼻水が出る。


 行く当てなどなかったが、消え去りそうな意識の中、途方もなく続く街道に沿って、歩みを止めなかった。それはまるで、そこから逃げるように、目を伏せるように、ただ歩き続けた。


 一瞬、少年の身体を完全に覆うほどの、大きな影が掠める。まだ赤味を残す薄暮れの夕日を遮り、影となって覆いかぶさってきたもの――魔物だった。


 少年が空を仰ぐと、宙には巨大な翼をはためかし、鋭い眼光を少年に向ける魔物。頭と翼は鷲のような猛禽類の姿形をして、胴体から足にかけては虎のように艶やかな毛並みと強靭な四つ足が生えていた。様子を窺うように、少年を中心とした円を描きながら帆翔はんしょうする。


 少年にはどうすることもできなかった。取れる手段も、その知識もなかった。夕焼けに彩られた魔物が、赤茶けた空に遊泳する様を、ただ茫然と見つめていた。これから辿るだろう末路を理解していながらも、その光景は少年の目に神秘的なものとして映った。


 ここまで必死に抱えて持ってきたものを手放す諦めがついた。恐怖はあったものの、それに拘る理由が、少年にはなかった。


 少年は仰臥ぎょうがする。天を仰いだその身体は、忘れていた疲れを思い出すように、怠さを訴える。視界を澄み渡る夕焼け空が、眠気を誘う。次第に瞼は重くなっていき、瞳を完全に閉じた。


 暗闇に包まれた世界で、少年は何気なく、両親や兄弟と夕餉ゆうげを囲む自分を思い浮かべた。匙一杯にスープを掬って口に運び、焼きたてのパンを齧る。それはいつもと変わらない、平凡な日常の、ありきたりな一幕――そして、二度とその手で触れること叶わぬ、穏やかな温もり。彼は決して人生を達観していたわけではなかったが、今生に未練はなかった。平凡な日常を過ごしてきた日々こそが、彼が望んだ全てだったから。


 思い出に浸る少年の思考を劈いて、次第に大きくなっていく、死の羽音。風を切って、草木を薙ぎ、暴風を巻き起こしながら、鋭く滑空する。


 ――魔物は、災厄。彼は親の言葉を思い出した。魔物は天災のように訪れて、人や物を薙ぎ倒して去っていく。それは不可抗力、抗う術がない。彼は親に、魔物なるものをそう説明されていた。それも仕方がないのだろうと、少年は観念していた。


 死の感触が、少年の喉元へと這い寄る。死の恐怖が、脳髄を貫く――その時、眼前に迫っていた災厄が取り払われる。いや、災厄は甲高い金切り声を上げながら、再び上空へと飛翔していった。


 馬の足音と、車輪が轍を作る音とが、仰臥する少年の頭上から聞こえてくる。


 ――馬車だろうか……?


 少年は拍子抜けした表情を湛えながら、上体を起こす。彼の衣服には、赤い斑点が所々に飛び散っていた。先ほどの魔物の血痕だろうか? 状況を把握するために、周囲を見回す。背後にはやはり、馬車が停まっていた。屈曲して続く街道には、真新しい轍跡が残っていた。四輪車両に繋がれた、二匹の馬の息遣いが荒いところをみると、たった今ここに辿り着いたのだろう。


 御者として馬の手綱を握った、壮年の男が飛び降りてくる。口髭を蓄え、身軽な軽装でありながらも位の高さが表れた礼装を纏っていた。男は息を切らせながら少年に寄り添い、肩を抱いて囁きかける。


「君、大丈夫か? 今、瓢虞ヒョウグに襲われるところだったではないか。怪我は、ないか?」


 少年は、声を忘れてしまったかのように、こくり、とただ頷いた。


 事実、少年は痛くも苦しくもなかった。まったくの無傷で、生き延びてしまっていたのだ。彼は死を予感し、身を委ねた。だが、それは外れた。生きることを望んだ彼は一度、死んでしまっていた。


 隣で寄り添う男は、呆然自失の少年を、恐怖のあまりに放心しているのだろうと考えた。少年を抱き抱え、馬車に向かった。しかし、彼の鼓膜は再び、あの災厄の如き羽音を捉える。抱かれた男の胸に視界は遮られて、魔物の姿は確認できないが、確実に近づいてきていた。

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