夢みるキッツ (ステロイドの副作用による不眠症の話)
眠れない。
キッツは今日も昨日も一昨日も、ずっとずっと眠れていない。
否。全く眠れていないのではなく、数時間細切れに、眠ってはいる。
以前読んだナショナルジオグラフィックの記事によると、断眠の最も有名な記録は、アメリカの男子高生による264時間、11日間というものである。彼の場合、11日間全く睡眠をとらなかった。それだけ睡眠を全くとらないと、倦怠感、誇大妄想、被害妄想、記憶障害などが現れるらしい。スタンフォード大学の教授の立ち合いの元、これらの記録が取られた。眠らないということは、メンタルに衝撃的な打撃を与えるのだ。
入院中のキッツは、昼寝をすることが出来る。夜も9時の消灯後、うつらうつら眠ってはいた。よって誇大妄想や被害妄想に悩まされることはなかったが、それでも倦怠感や単純な眠気というのに悩まされてはいた。正確にいうと、ちょっとした記憶障害や被害妄想は起きていた。ただ、これらが睡眠不足からくるものなのか、ステロイドの副採用からくるものなのかは判断がつかなかった。それ以前に、病人でいるということ自体が、被害妄想を生み出しやすい。可愛そうな自分、というのはどの患者も抱いている純粋な心の現れだろう。
(100、99、98、97……)
眠れない時に眠りにつく方法、1個目。
数を100から順に、逆に数えていくのだ。60台あたりで、だんだんきちんと順番に数を数えられなくなっていく。そして徐々に眠りについていく、というのがセオリーらしい。キッツの場合、この方法で上手くいくこともあったが、途中で集中力がなくなり、他のことを考え出して結局眠りにつけずに終わるということがしばしばあった。
(“D”. Dog, Doller, Diamond, Difficult, Donation, Donald Duck…. )
眠りに落ちる方法2個目。
一つのアルファベットに対し、出来るだけ多く、そのアルファベットで始まる単語を羅列する。 もうこれ以上思いつかないとなったら、次のアルファベットへ移行する。これはアルファベットでなくとも、あいうえおでも、対応可能だ。“あ”から始めなくても良い。適当に平仮名を選ぶ。例えば、キッツの“き”。きりん、きのこ、きくらげ、喜久蔵ラーメン……と、リストアップしていけばいい。
これでキッツは眠りにつけたかというと、その時によりけりだった。3、4個アルファベットを試して気付いたら眠っていた時もあったが、数を逆に数えるのと同じで、途中で気が散り、他のことを考え出して結局眠れない、ということも頻繁にあった。
3つ目の方法。
真っ暗で何もない空間を思い描く。
そして、そこに誰も載っていないブランコを浮かべる。
ゆーらゆーら。
無人のブランコ。
ゆーらゆーら。
真っ暗な世界。
誰も乗り手がいない、寂しいブランコ。
終末世界で揺れ続ける、悲しいブランコ。
これは若干ホラーな状況だ。少しでも恐怖という感情が生まれてしまったら、眠りにつくことは難しい。それ以前に、真っ暗な何もない空間というものを頭に浮かべるのが難しい。
(駄目だっ、眠れない!)
キッツは心の中で叫んだ。
静まり返った病室。
同室の患者を起こさないよう、極力寝返りは打たないようにしている。病院のシーツというのは、擦れ合うと意外にも大きな音がする。繊維が硬いからだろうか。他人の眠りを妨げるのは、キッツ自身が同室の患者のシーツ音で目を覚ましたことが何度かあり、実証済みだ。
不眠、というのには大きく分けて二つある。
一つは、眠りにつくのが困難という状況。
もう一つは、眠っていても途中で起きてしまうという状況。
眠剤は、このどちらの傾向が顕著かよっても使い分けられる。
キッツの場合、ステロイドの投与量が多い時は後者の傾向が強く、投与量が10㎎以下の低用量になってからは、前者の傾向が強くなった。
そう、この不眠というのは、ステロイドの副作用の一つである。ステロイド投与50㎎から始まり、8㎎投与の現在に至るまで、この不眠だけは一貫してずっと症状が現れている。眠剤を使って対処しているのだが、それもあまり効かない。依存性の強いものは避けて摂取してためかもしれない。
眠剤は下記の4種類を試した。
ベルソムラ
ルネスタ
ロゼレム
ゾルピデム
結果、現状はベルソムラとルネスタの2種類を飲んでいる。しかし、入院時から退院後の約8か月間は、ベルソムラのみの摂取だった。上述のように、ステロイドの摂取量が10㎎以下になったあたりから入眠に問題がでてきたので、薬を追加した形である。キッツの入眠の問題とは、布団に入った後も、2,3時間眠りにつけない日が2週間以上続いた状況のことである。
興味深いのは、入院時に眠剤を試している際、薬を変えるたびに、その翌朝、鼻血を出していたことだ。薬を飲んで数日様子をみて、睡眠状況に変化がない場合は、薬を変えていた。医師は、眠剤を変えていたことと鼻血には因果関係はないと言っていたが、1個目から2個目、2個目から3個目、3個目から4個目へ変えた時、毎回鼻血が出ていたのは、偶然ではないように思われる。入院時は、体もまだまだ弱い時であったし、何かしらの影響があったのではと推測している。幸い、鼻血は毎度一度出ただけで終わったので、問題はなしと考えている。
鼻血専用の医療用綿(わた)があることを知ったのは、その時だった。
“カップ入綿球“という名前で、直径2.5cmほどの白くて丸い綿が3つ、プラスチックの透明なカップに入っている。カップは、ゼリーのカップのような手のひらサイズだ。その綿のひとつを手ごろなサイズに引きちぎり、鼻の穴に詰める。ティッシュペーパーよりも穴に上手くフィットする。鼻血対応だけに使うものではないだろうが、鼻血の止血医療用具としてはティッシュよりも有効だと思った。
入院中予備としてもらったカップ入綿球は、いざという時のために自宅に持ち帰った。退院後、鼻血が出たことは何度かあったが、眠剤とは関係なく、異常に疲れた時に出た。その時カップ入綿球を使えばよかったのだが、なんだかもったいなくて使えなかった。キッツの思い出の品なのである。今でも綿球カップは、薬箱にひっそりとしまわれている。
(う、うるさい……!)
そう思うこと自体、申し訳ないと思いつつも、同室の患者の一人の発する声と物音に、キッツは苛立っていた。
斜め向かいのベッドにいるその患者は、六十歳前後の痩せた女性だった。薄毛対応のニット帽をかぶり、点滴で治療を行っていることなどから、血液系の癌患者だと推測された。彼女はある日、2つ隣の病室から、キッツのいる病室へ移動してきた。無菌室から通常病室へ移ったという訳ではなく、普通の病室から普通の病室へ移動してきたのである。
「あー、しょっぱい」
ご飯を食べている時の口癖。
「あー、しんどい」
何もしていない時の口癖。
「%&(@*)」
就寝時につぶやく、何を言っているのかわからない言葉。
独り言が多い。そして各ベッドの横に設えてある戸棚を、勢いよく開け閉めする。その中からブラスチックの袋を取り出し、ガサガサ音を立てながらかき混ぜる。具体的に何をしているのかはカーテンで閉ざされて見えないが、四六時中、何かしら音を立ててうるさい。
バタンっ。
ガサガサ。
コッコッコ。
まただ。
時計を見ると、早朝の4時5分。
朝4時が、彼女のマイルール起床時間らしい。病院の規定では、6時が起床時間だ。
ペットボトルを冷蔵庫から取り出し、中の液体をコップに注いでいる。喉を潤すと、お腹がすいているのか、プラスチックの袋から何か取り出し食べ始めた。
ただでさえ不眠症で眠りが浅いところに、外部から騒音が聞こえてきて、眠りが妨げられてしまう。一度や二度なら良いが、連日のことで困ってしまう。看護師へ頼んで注意してもらおうかとも思ったが、相手も病人でそれも重度の患者に見える。ただでさえ病気で辛いところに、同室の患者から苦情が入ったのでは可哀そうだ。それに単純に、見知らぬ他人と波風を立てたくもない。だからキッツは黙ってやり過ごす日々を送っていのたが、うるさいものはうるさいし、苛々する。
昼間彼女のベッドの前を通りかかると、大きないびきをかいていることがある。昼間眠るから、夜眠れなくなるのではとも言いたくなったが、それも余計なお世話なので、黙って通過する。
「ぅんぎゃぁあ!」
消灯時間の9時はとうに過ぎ、時計は夜中の11時半を回っていた。キッツはようやくウトウトと眠りに落ちた頃だった。突然、唸り声のような叫び声が聞こえた。
「気持ち悪い、気持ち悪い!」
例の彼女が絶叫している。
カーテンは閉ざされていたが、ベッドの上でのたうち回っているのが、斜め向かいにあるベッドからでもわかった。ナースコールを呼ぶ気配もない。どうしよう。こちらでナースコールをした方がよいだろうか。
そうキッツが考えている間に、同じことを思ったのか、同室の他の患者がナースコールのボタンを押した。四人一部屋のキッツたちは、彼女以外皆、ベッドから起きだしカーテンを開けている。皆一様に、不安げな表情だ。きっと彼女の叫び声は、病室の外にまで聞こえているに違いない。
看護師がやってきた。
「どうしました?大丈夫ですか?」
看護師の呼びかけに応えることもなく、相変わらずうめき声が聞こえる。
「もどしますか?ここに吐いてくださいね」
ドバドバと、胃の中のものを吐き戻す音が聞こえる。
「先生を呼んできますからね」
「気持ち悪い、気持ち悪い!」
彼女はそう叫びながら、大声で泣き始めた。
大の大人。むしろ初老の女性が、恥も外聞もなく大声で泣き始めたことに、キッツはショックを受ける。綺麗な泣き声ではない。濁音交じり、汚物交じりの恐ろしい泣き声だ。
耳を塞ぎたいとは、まさにこのこと。
怖い、恐ろしい。
パタパタと、廊下を小走りで近づいてくる音がする。
「○○さーん。どうしましたか?」
当直医が来た。
「気持ち悪い、気持ち悪い!」
医師に話しかけられても、発する言葉は変わらない。気持ち悪い、それだけだ。むしろ看護師が対応していた時よりも、一層声を張り上げている。
その後、医師と看護師が対応する声やら音やらが、30分近く続いた。どうやら薬を変えた影響で気分が悪くなったらしい。命に別状はないようだ。処置が一通り終わると、色々と落ち着いたのか、彼女は静かになった。
やがて病院特有の静寂が訪れ、室内は再び夜のとばりに包まれる。
しかし、キッツは眠れない。
あのダミ声の断末魔のような絶叫が、耳から離れない。
怖かった。
彼女以外の患者の寝返りの音が、時々小さく聞こえる。
皆、キッツと同じ気持ちなのだろう。とても安らかに眠りにつくどころではない。
けれど人間のあれやこれやの感情など関係なく、時間は淡々と過ぎていく。
いつも通りの時刻にいつも通りの調子で、起床のアナウンスが流れる。
朝の定期検診に、看護師が訪れる。朝食前の体温と血圧を測り、前日の排便排尿の回数を記録するのだ。その他、何か体調で気になることがないかも確認してくれる。
「昨晩は眠れなかったですよね」
カーテンを開けると同時に、担当看護師ににこやかに言われた。
患者からの苦情や愚痴を受け付けない、ある意味先制攻撃の一言である。いや、攻撃などと言ったら失礼だ。患者からの苦情をいち早く対処する、先手の一歩。さすがプロである。
キッツはその看護師の言葉に、そうですねと、小声で返した。
これで、昨晩の出来事については終わりである。
だって、びょういんだもの。
キッツは看護師に見られないよう、ため息をついた。
その後も例の彼女は色々と騒音を出し続け、キッツ達同室患者の眠りを妨げた。寝ぼけているのか何なのか、ふと、独りで話し出す。消灯から起床まで、きっちり1時間ごとにトイレに行く。
入院中不眠症プラス睡眠妨害は続いたが、仕方がない。お互い病人で治療中の身だ。いつか自分が彼女の立場になるかもしれない。お互い様だ。そう自分自身に言い聞かせ、毎日を過ごした。やっと退院となった時は、もう彼女の声を聞かなくて良いのだと、心から嬉しく思った。
このように、不眠は内部だけでなく外部が要因となることもあったが、基本的にはステロイドの副作用で起きている。病気になる前は、人並みに眠っていた。もちろん状態によっては、眠れない夜もあったが、基本的には不眠症ではなかった。
快眠は、病気の回復に重要だ。
質の良い睡眠は、健康につながる。
薬を使って眠っているせいか、病気で不安な気持ちがあるせいか、キッツは変な夢をたくさん見る。悪い夢を見て、夢の中で叫んだはずなのに、実際に声を発しながらガバっと目を覚ます、ということがあった、自分が夢の中なのか目覚めているのか一瞬わからなかったが、現実世界で自分が声を出していたと気付いた時は、面白かった。ドラマの中じゃあるまいしと、自分自身にツッコミを入れてニヤッとした。
前述の11日間眠らなかった青年は、12日目に15時間眠り続け、覚醒後は、自然に誇大妄想や記憶障害等はなくなったとのことである。きちんと眠れば、健康はやってくる。メンタルも正常に戻るのだ。11日間眠らずにいた後の睡眠で、彼はいったいどんな夢を見ただろう。
キッツもいつの日か、薬なしでぐっすりと眠れたら、きっと素敵な夢が見られるのではないかと、今からワクワク夢を見ている。
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