後書き

 

 本作は『伊勢物語』六十九段「狩りの使ひ」が下地になっている。伊勢物語は平安時代初期に成立した歌物語であるが、作者は不詳である。作者については古くから様々な説があり、在原業平だと言う者もいれば、三十六歌仙の一人・伊勢であるとの説もある。

 伊勢物語の主人公は在原業平だと言われている。作中には彼の歌が多く採録され、主人公を業平の異名で記している部分もある。しかし、業平とは関わりのない庶民を主人公とする話も含まれている。業平死後の史実も含まれているため、上記のような作者が在原業平説は不適だと言えよう。段階的に話が継ぎ足されていったという意見もあるようだ。

 

 『伊勢物語』の書名が文献上最初に登場するのは『源氏物語』五十四帖「絵合」。古くから伊勢物語の書名の由来には様々な意見があったが、現在では専ら六十九段の伊勢国を舞台としたエピソードに由来があるという説が主流となっている。

 

 本作の「男」は在原業平であり、「伊勢の斎宮であった貴人」とは恬子内親王、「女人」は大伯皇女、「弟君」は大津皇子。

 

 在原業平(天長二年(八二五年)から元慶四年五月二十八日(八八〇年七月九日))は平安時代初期から前期にかけての貴族・歌人で六歌仙の一人。平城天皇の孫であったが、薬子の変により皇統が嵯峨天皇へ移り、父・阿保親王の上表によって臣籍降下し、兄・行平らと共に在原朝臣姓を名乗った。

 恬子内親王(生年不詳から延喜十三年六月十八日(九一三年七月二十四日))は第三十一代伊勢斎宮。父は文徳天皇。貞観元年(八五九年)、清和天皇の即位にともなって斎宮に卜定、貞観三年(八六一年)に伊勢に下る。

 

 伊勢物語の六十九段は業平と思しき男と恬子内親王らしき伊勢斎宮が密通してしまう話となっている。斎宮の歴史は古く、『日本書紀』によると第十代・崇神天皇が皇女・豊鍬入姫命に命じて宮中に奉祀していた天照大神を笠縫邑(大神神社、多神社など定かではない)に祭らせたのが斎王(斎宮)の始まりとされている。天武天皇の頃に制度として確立し、大伯皇女が初代斎宮となった。以降、天皇の代替わりごとに必ず新しい斎宮が選ばれ、南北朝時代まで続いた。平安時代末期の源平合戦(治承・寿永の乱)の混乱で斎宮は一時途絶。南北朝時代、後醍醐天皇の皇女・祥子内親王を最後に途絶した。

 斎宮は未婚の内親王または女王から選ばれる。斎宮の務めを終えることを平安中期まで退出と称したが、以降は退下と言った。退下した後の前斎宮のその後については数人を除いてあまり知られていない。律令体制の下では内親王の婚姻相手は皇族に限定されており、奈良朝までは退下した後の前斎宮が嫁いだのは天皇または皇族のみであり、平安朝以降でも内親王で臣下に降嫁したのは雅子内親王(藤原師輔室)ただ一人であった。

 

 大津皇子(六六三年から六八六年十月二十五日)は大伯皇女の同母弟である。父は天武天皇、母は天智天皇の皇女・大田皇女(同母妹・鸕野讚良皇女はのちの持統天皇)である。大田皇女は同母妹・鸕野讚良皇女と共に大海人皇子(のちの天武天皇)の妃となるが、大津皇子と大伯皇女の二人を生んだ後、大海人皇子が即位する前に亡くなってしまう。当時大伯皇女は七歳、大津皇子は五歳であった。同母妹・鸕野讚良皇女がのちに皇后となったことを考えれば、長生きしていれば、大田皇女が皇后になっていたかもしれない。母を早くに亡くしたことで大津皇子には後ろ盾と言えるものがなかった。そのため鸕野讚良皇女の子・草壁皇子が皇太子になった。大津皇子は二十歳で朝廷の政に参加。その三年後、六八六年九月に父・天武天皇が崩御すると、同年十月二日に親友・川島皇子(天智天皇の第二皇子)の密告により謀反の疑いで捕らえられ、翌日自邸にて自害した。

 なお川島皇子が本当に密告を行ったのか正確な所は分かっておらず、『日本書紀』ではこの事件に関する記事に川島皇子の名前がないため、密告は史実ではないとする意見もある。『万葉集』には死の直前に、姉である大伯皇女がいる伊勢神宮に向かったとある。尤も伊勢行きについては万葉集以外に史料がないため、虚構ではないかと言われている。謀反の内実についても詳しく伝える史料もないため、現在では皇位継承の邪魔となった大津皇子を排除するために鵜野讃良皇后の意向が働いたと見るのが有力である。

 鵜野讃良皇后は自身の子・草壁皇子を皇位につけようとした。大津皇子の死後、宮中における草壁皇子への反感から直ちに即位させることはしなかったが、六八九年、草壁皇子は皇位につく前に亡くなってしまう。草壁皇子は早世したものの、近親者の多くが皇位につき、子孫は天武系の嫡流として奈良朝における政治の中心人物となった。しかし、男系子孫も女系子孫も平安朝初期には途絶えてしまった。

 

 今こうして色々と調べてみたことをまとめてみて感じたことは、奈良時代とは非常に血腥い時代であったということだ。大化改新、壬申の乱といった大きな戦いもさることながら、皇統を保つために宮廷内でも陰謀が巻き起こっていた。

 平安朝の頃の方がそういった点において比較的平和であったようにも感じる。皇族間の争いが主だった奈良時代から藤原氏に代表される貴族間の争いに変化していったのが平安時代である。

 陰謀の中で命を落とした者たちの無念さを本作では取り上げたかったのである。特に大津皇子が眠る二上山は私の実家からそう遠くない所にある。受験生時代には必勝祈願のためにこの地にある叡福寺によく訪れた。叡福寺への道のりで二上山の姿をよく見たのである。叡福寺は聖徳太子の墓として知られ磯長墓がある。

 

 折口信夫の『死者の書』もまた二上山を舞台としており、當麻寺の中将姫伝説を下地にしている。當麻寺にも足を運んだが、とても長閑な場所である。

 京都に暮らして色々な史跡を回ったが、都市化が進む京都においてかつての歴史の面影を感じさせるものは少なくなりつつあると感じた。そう考えると大和の地にこそ真の歴史の風が息づいているように思えてならない。私はあの一種独特な空気が好きなのである。

 ああ、また奈良の地へ行きたくなってしまった……。

 

 

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山風 武市真廣 @MiyazawaMahiro

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