第38話 苦無の家族

 苦無が母親の聖子からイギリス旅行にダメ出しされた夜、残業で遅くなったひろしが帰ってくると、夫婦二人だけでダイニングテーブルに着いた。

 

「ねえ、あなた、今日こんなことがあったのよ」


 聖子は、昼間息子から相談されたことを夫に話した。


「ふうん、そんなことが。苦無も、そろそろ親離れなのかなあ」


 ひろしの表情には、嬉しさと寂しさが重なっていた。

 

「驚いちゃったわ。やっぱり、あなたの息子ね。ローマで私がトラブルに巻きこまれたとき、さっそうと現れたあなたの雄姿が忘れられないわ」


「せ、聖子さん、そんな昔のことを。恥ずかしいよ」


「ふふふ、私には、つい昨日のことのように思いだせるわ」


「も、もう、そこまでにしてよ」


 聖子は、食器棚の奥からワイングラスを二つ取りだすと、それを夫と自分の前に置いた。

 ひろしは、名の知れたワインの栓を抜くと、すかさずそれをグラスに注いだ。

 二人のぴたりと息が合った動きからは、夫婦仲のよさがうかがわれた。


 チン


 グラスを合わせると、目を見つめあった二人がワインを口に含む。


「ふふふ、新婚当時を思いだすわね」


「そうだね、ちょっと恥ずかしいけど。それより、苦無のことどうするかな?」


「できれば行かせてやりたいけど……。あなたはどう思う?」


「イギリス行きを決めたのは苦無自身だろう? それなら、あいつの気持ちを尊重したいな」


 次の瞬間、夫婦水入らずの時間は消えてしまった。


「二人とも、なに悪だくみしてるの?」


 ダイニングへの扉を開け、パジャマ姿のひかるが入ってくる。


「ひかる、あんた聞いてたのかい!?」


「うん、聞いてた。だって、母さんも苦無も、様子がおかしいんだもん。気になるに決まってるじゃない」


 聖子の隣に座ったひかるは、まるで悪びれた様子がなかった。

 自分で用意したグラスに、手酌でワインを注いでいる。


「父さん、母さん、苦無を応援してやろうよ」


「だけどあんた、あの子はまだ中学生だよ」


 聖子はそう言ったが、その口調は決して強いものではなかった。


「だから、あいつに知られないように、私たちがサポートすればいいだけでしょ」


 聖子とひろしが大きく目を見開く。


「私たちもイギリスへ行けばいいのよ。母さんたち、新婚旅行してないって言ってたじゃん。せっかくだからイギリスで新婚旅行しちゃいなよ」


「「……」」


「大学の夏休みがもうすぐ始まるし、ちょうどいいでしょ」


「あんた、自分がロンドン観光したいだけじゃないの?」


「べ、別にそんなことないわよ!」


 ひかるは勢いよくグラスをあおったが、咳こんでしまった。


「ひかるも苦無のことが心配なんだろう」


「そ、そうよ、お父さん!」


「……しょうがないねえ。だけど、ひろしさん、会社の方は大丈夫なの?」


「うーん、大丈夫じゃないが、この際、松田君の申し出を受けようかと思うんだ」


「松田さんって、お父さんが命を助けたっていう人?」


「そうだよ。どうしても、彼の会社で働いてほしいって以前から頼まれていてね。聖子さん、どう思う?」


「私は賛成よ。あなたがどういう決断をしても、それを応援するわ」


「聖子さん……」


 見つめあうひろしと聖子。


「あー、もう! 娘の前で、なにいちゃついてくれちゃってるの! そんなの新婚旅行までとっておいてよね!」


「ん? イギリス旅行、お前も行くんじゃないのか?」


「行くけど、当然だけど別行動よ」


「ふう、あたしゃ、苦無よりあんたの方が心配だよ」


「ちょ、ちょっとお母さん、それはないでしょ!」


「ぷっ、あはははは!」


 ひろしが思わずふきだすと、聖子、ひかるもその笑いに加わった。

 切田家の今宵は、にぎやかなものになりそうだ。



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