酒場『大食らい』

 僕たちがオールティアに着く頃には、日はもう沈み。夕焼けの空は今や漆黒に塗り潰されて、幾千幾億と無数に散りばめられた星々に囲まれるようにして、僅かばかりに欠け始めた月が浮かんでいた。


 オールティアの門前で、僕は一旦立ち止まる。……流石に先輩をおんぶしたまま、街中に入る訳にはいかない。そんな勇気、生憎僕は持ち合わせてなどいない。


「あの、先輩。もう自分で歩けますか……?」


 そう、恐る恐る僕が訊ねると。森の中での、自分は重いのかという問答を最後に今の今までその口を閉ざし、黙り込んでいた先輩は、何も言わずにただコクンと小さく頷いた。


「わかりました。では、下ろしますね」


 何故何も言わず黙ったままなのか、そこに対して疑問を抱きつつも、僕は一言そう告げて。それからゆっくりと腰を下げ、先輩の爪先つまさきが地面に着くようにする。すると少しして僕の首に回されていた先輩の両腕が離れ、そしてフッと僕の背中にあった僅かな重みと温もりが消え去った。


「……じゃ、じゃあ家に帰りましょうか、先輩」


 微妙な雰囲気に何とも言えない気まずさを感じ、その所為で背後に立つ先輩の方へ振り向けないまま、僕はそう言って早速歩き出す────直前。




 ギュ──不意に、服の袖口を掴まれた。




「え……?」


 誰が僕の服の袖口を掴んだのか────言うまでもなく、それは先輩である。思わず背後を振り向くと、袖口を掴んだまま、先輩がその顔を俯かせていた。


 戸惑いと困惑を隠せずに、声を漏らしてしまう僕に。顔を俯かせている先輩が小さく呟く。


「……け」


「け?」


 辛うじて聞き取れた言葉がそれたった一つで、無論意味なんてわかるはずもなく。特に何を考えるでもなく僕が呟き返すと。


 バッと突然、先輩が俯かせていたその顔を勢い良く上げて、それから畳みかけるように、さっきまでとは比べようもない声量で僕に言う。


「酒っ!酒飲みに行くぞ!嫌とは言わせねえからな!わかったなっ!?」


 そう言う先輩の気迫は凄まじくて。その言葉通りこちらに有無を言わせない勢いで。その時、僕はただ圧倒されるままに大人しく頷く他なかった。



















「ちくしょーっ!やってられっかばかやろうめばーかばーかっ!」


「はい。はいそうですね。馬鹿野郎ですね先輩」


「な!?なそうだろなっ!?いやぁくらはもそうおもうだろ?な?なっ!?」


「はい。はいそうですね。僕もそう思いますよ」


「そうだそうだだいたいよーおれがこんなんじゃなきゃあんなすらいむいっぴきけちょんけっちょんのぼっこぼこのめっためたんにできるんだからな!ほんとだぞ?ほんとだかんなこのやろう!」


「はい。はいそうですね。けちょんけっちょんのぼっこぼこのめっためたんですね」


 周囲の喧騒に負けないくらいに、先輩の愚痴は凄まじかった。それはもう、こう………とにかく色々と凄まじかった。


 ここは酒場『大食らいグラトニー』。このオールティアに立ち並ぶ数々の店の中でも、夜になれば一二を争う盛況を誇る。


 変わりのない平和な日常を過ごす住民たち。依頼クエスト帰りの冒険者ランカーや仕事帰りの苦労人たち。そんな人々が集まるのが、この店である。


 もちろん酒場というからには酒がメインだが、だからといって料理が不味いという訳ではない。むしろその辺りの飲食店よりも数段上だ。


 先程から忙しなく店内を駆け回るウェイトレスの一人に、僕は注文を叫ぶ。


「すみませーん!こっちのテーブルに木実蜥蜴フィシャロの姿焼きと影水魚カミォの香草包み焼きお願いしまぁーす!」


「はいご注文承りましたー!!」


 声だけ返して、様々な料理を乗せたトレイを片手に、ウェイトレスは走っていく。あれだけの量を、しかも片手だけで支えつつ、バランスを保ったまま走れるとは……大した体幹というか身のこなしというか、何というか。


 そんな感心を抱きつつ、改めて僕は前に向き直る────目の前の席には、先輩が座っている。……赤赫実リゴンの蜂蜜酒が並々と溢れて零れんばかりに注がれた木製のジョッキを、両手で持ってゴクゴクと喉を鳴らしながら飲む先輩が。


「んぐ、んぐ…………ぷぅっはぁ!あまいうまい!」


「それはよかったですね。はは、ははは……」


 ちなみに、先輩はこれが一杯目ではない。……かれこれ、もう五杯目である。


 赤赫実の蜂蜜酒はその甘みや飲みやすさから、多くの女性が好む酒の一つであり、そして唯一とも言っていい先輩の好物の酒でもある。まだ男であった、以前の先輩からの。


 度数は低く、そう飲んでもあまり酔いはしない酒なのだが、先輩の今の顔はそれこそ完熟した赤赫実のように真っ赤である。真っ赤っ赤である。つまりもう────十二分にデキあがってしまっている。


「おかわり!おかわりだこのやろうばかやろう!」


「はい。はいそうですね。……と、言いたいところですが先輩。もうその辺でお酒を飲むのは止めた方が「うるせーーー!!おかわりったらおかわりなんだよまだまだのむんだよこのばか!あほ!」…………あ、すみません。赤赫実の蜂蜜酒、もう一杯お願いします」


 先程注文した料理を運びに、こちらのテーブルに来たウェイトレスの一人に僕はそう告げる。こうなった先輩は融通が利かない。下手に抵抗すると途端に暴れ出すから、ここは大人しく従っておくのが吉だ。


 とはいえ、流石に六杯目は飲み過ぎである。これを飲んでもらったら、今日は終了してもらおう。


 ……というか、一応この世界オヴィーリスでは飲酒は十六歳からと認められているのだが……果たして、今の・・先輩は一体何歳なのだろうか。


 考えるにしても今さらな話だが、まだ男だった先輩の年齢は二十六。けれど、その見た目通りならば間違いなく先輩は若返っている。まあ、少なくとも十六歳以上とは思うが……。


 先輩自身もまだろくに知らない、その身体のことを考えると。やはり、蜂蜜酒は程々に自重してもらった方がよかったのかもしれない。……だが、今日は色々とあったのだ。だから今日くらいは、少しくらいは、大目に見なければ。


「……たくよーちくしょうめこんちくしょう」


 そんな呟きにまた前へ向き直れば、先輩はテーブルに突っ伏して運ばれた影水魚の香草包み焼きをフォークで繰り返し突いていた。


 薄らと濡れた瞳が、真紅色の光を艶やかに零す。


「なんだって、おれがおんななんかになんなきゃいけねえんだよぉ……ひっく」


 先程まであれだけハイテンションだったのに、今はすっかり消沈してしまっていた。……やはり、男だった時よりもだいぶ情緒不安定になってしまっている。


 まあ、無理もないだろう。以前だったら指先で瞬殺できた魔物モンスターに、手も足も出せず完敗を喫したのだから。


 以前とは天と地程の、比べようもないくらいに弱体化してしまったから────そういうことを差し引いても、いやむしろだからこそ、精神的な傷を先輩は負ってしまった。


 そしてそこに追い打ちをかけるが如きの────デッドリーベアの襲撃。あの時先輩は何もできず、逃げることすら叶わず、振り下ろされんとしていた鉤爪を、ただただ見上げていることしかできないでいた。


 スライムよりも弱い自分。戦うこともできなければ、逃げることもできない。何もできない自分────それをこれでもかと、その現実を先輩は遠慮容赦なしに突きつけられてしまった。


 だからこそ、今こうして先輩はこの場に訪れて、自棄やけ気味に、慣れない酒なんかを煽っているのだ。


 ……そんな先輩の心情を察しているから、僕もそれを止めることができなかった。今僕ができることは────延々と漏れ出る先輩の可愛らしい愚痴を、ただひたすらに受け止めることだけだ。


 水を飲みながら、僕はふと思った。


 ──……そういえば、結局あの剣は一体何だったんだろう。


 先輩に関して色々と思い返して、その中でも特に印象が深いのはあの剣のことだ。あの時のことを思い出すと、今でも頭痛がぶり返すというか、気分が悪くなってくる。


 ……しかし、それでも。実は言うとあの後もう一度、抵抗はあったが試しに【鑑定】をかけてみていたのである。


 が、最初の時と同じように、あの奇妙で意味不明極まる文字の羅列が、僕の頭を埋め尽くすことはなかった。何故なら、そもそも【鑑定】ができなかったのだから。驚くことに、僕の【鑑定】が弾かれてしまったのだから。


 もはや、意味不明を通り越して不気味だった。そしてそんな得体の知れない武器を先輩に使わせたくなかった。


 なのでアルヴスさんに突き返そうかとも考えたのだが、しかし魔石が本物であったことに変わりはなく、それはお門違いだろうと思い留まった。


 新しい武器を買うことも考えた。だが、それは先輩に拒否された。




『お前が買ってくれた武器を、無駄にしたくない』




 正直に言ってしまえば、先輩のその言葉は嬉しかった。だから、せめて先輩がスライム相手に単騎でも、まともに立ち回れるようになる良い方法を、この酒場へ向かう道中思案していた。


 そこまで頭を働かせて──────先程から妙に先輩が大人しいというか、静かなことに気づく。


「あ、すみません先輩。ちょっと考え事に没頭していまし……」


 僅か数分の間とはいえ、放ったらかしにしてしまったことを謝りつつ、僕は先輩を見やる。……当の先輩は、テーブルに突っ伏しピクリとも動かずに沈黙していた。

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