14.赤髪の男(2)

 5月の夜。

 多摩川大橋の下。


 時おり、橋の上を走行するトラックの重低音が響く。


 山下拓は、赤髪の男と対峙していた。

 その左右と背後を3人のスーツ姿の屈強な男たちが取り囲む。


 山下拓は身体の重心を落とし、こぶしを構えた。


 周囲の男たちに目配せしながら、「全員、一度に相手してやる。一斉にかかってこいよ」と挑発する。


「いいか、お前ら手を出すなよ。おそらく、このパーマ野郎は格闘技のプロだ。お前らの手に負える相手じゃねぇ」


 赤髪の男が、スーツの男たちに指示を出した。


「俺ひとりで片付ける」


「赤西さん、わかりやした!」


 屈強なスーツの男たちが同時に返事をした直後、その太い声が悲鳴に変わった。


「あうっ」

「うわっ」

「わあっ」


 山下拓の連続パンチがさく裂したのだ。

 周りを取り囲んでいたスーツの男たちが、反撃する間もなく一瞬で倒れる。


 山下拓は『赤西』と呼ばれていた赤髪の男を改めて向くと、構え直した。


「オマエの手下は、律儀で真面目な奴らだな。オマエの命令通り、オレが攻撃しても誰も手を出さないとはね」


 そして、ニヤリと挑発する。


「それとも、手が出せないほど弱かったのかな?」


「部下たちが、一瞬で?」

 赤髪の男の表情が驚きから怒りへと変化した。


「地獄に落としてやる」


 その言葉に山下拓が鼻で笑う。


「安心しな。オマエは天国に送ってやるよ」


 言い終えると同時に、身体の重心をゆっくりと沈める。


 次の瞬間、地面から煙が上がる。


 重心を低くした体勢から一気に駆け出し、5メートルほどあった赤髪の男との間合いを瞬時に詰める。

 そのままの勢いで左足を踏み込むと、脇に引き付けていた右腕を上半身のひねりとともに、正面に放つ。


 風を切り裂き、うなる。


 赤髪の男の顔面に右手のこぶしがめり込んだ―――ように見えた。


 だが、よく見ると、赤髪の男の手のひらの中に、山下拓のこぶしが納まっていた。


 シューっという音とともに、白い湯気のようなものが上がっている。


「へぇー」


 山下拓は予想以上の結果に、楽しさがこみ上げてくるのを感じた。


 すぐに腕を引くと、3歩退き、間を取る。


「片手で止められたのは、オマエで2人目だ」


 一瞬、1人目の顔―――佐々木優理の憎たらしい顔が浮かんでは消えた。


「いってーな。ボクシングのプロか?」


 赤髪の男が左の手のひらに、ふぅふぅと息を吹きかける。


「お前、名前は?」


「人に名前を訊く時は、まず自分から名乗るもんだろ」


 赤髪の男は一瞬黙ったが、堪えきれずに笑い声を上げた。


 笑い終えると、「すまん、失礼」と言って、下側だけフレームのついた眼鏡を掛け直し、山下拓に視線を戻した。


「俺は赤西竜也あかにし たつやだ。ただのサラリーマンだよ」


「そんな赤髪のサラリーマンがいるかよ」

 山下拓は思わず疑いの目を向ける。


「俺んとこは自由なんでね。で、お前は?」


「山下拓。オレも、しがないサラリーマンさ」


 その時、加賀瑞樹の声がワゴン車の横から聞こえた。


「拓さん!」


 そこには、スキンヘッドのスーツの大男に抱えられ、身動きの取れない加賀瑞樹の姿があった。


「ダテヒロさんはいませんでした……」


 その悲痛な表情は、捨てられた子犬のようだった。


「加賀、今、助けてやるからな」

 山下拓は、さらっと答えた。


「そういえば、お前はスタンガンを使わなくていいのか? あのガキみたいに」

 赤西竜也が、思い出したようにわざとらしく言う。


 『ガキ』とは伊達裕之のことを指しているのだろう。


「オレは自分の身体には自信があるんだ。スタンガンなんて必要ないさ」


 山下拓は濃い紫色のネクタイを緩めると、腰を落とし、両こぶしを顔の前に上げた。

 そして、リズム良く軽快にステップを踏む。


「ほう。お前とは意外と気が合うかもな」


 赤西竜也は一瞬楽しそうな表情を浮かべた。


 そして、両足を肩幅くらいに開くと、「俺の武器は、この身体だ」と言って、仁王立ちになった。


「久しぶりに本気を出せそうだよ」


「オレもだ」

 沸き上がってくる闘争心を実感しながら山下拓が言った。


「いざ、勝負!」


 2人が吼えながら同時に前に跳ぶ。


 赤西竜也の左こぶしが山下拓の顔面を捉える。


 それを首のひねりだけで受け流しながら、山下拓は相手の腹部を目がけて下から右腕を繰り出した。


 とっさに赤西竜也は、山下拓の左肩に右手を当てて、ハンドスプリングの要領で宙を回転し、攻撃をかわす。


 そして、数メートル先の地面に、スっと静かに着地した。


「器用なやつだな」

 山下拓が振り返った。


 唇の左端から熱い血が、つーっと垂れるのを感じる。


「フックと見せかけて、ギリギリまで引きつけてから右アッパーかよ」

 赤西竜也が冷や汗を拭いながら呟く。


 再び山下拓が駆け出し、渾身こんしんの右ストレートを顔面に打ち込んだ。


 空を引き裂く。


 だが、紙一重で回避され、赤い髪が風圧で浮く。

 露わになったピアスがキラリと輝いた。


 間髪入れずに、今度は左手でパンチを放ち、左・左・右と連打する。


 しかし、それも赤西竜也に全てガードされ、決定打にはならない。


「その程度かよ」


 鈍い音とともに、赤西竜也の左こぶしがノーガードだった山下拓の腹部にめり込んだ。

 そのまま腕を振り抜かれる。


 衝撃が閃光のように周囲に広がった。


 瞬時にして山下拓の身体が、10メートル以上吹き飛ばされる。


 山下拓は、ひざと手をついて、なんとか倒れずにこらえ、ゆっくりと立ち上がった。


 しかし、次の瞬間、左手で口を抑えたにもかかわらず、血があふれた。


 ぽたぽたと地面に垂れ、赤い血だまりができる。

 手のひらとシャツのそで口が鮮やかな紅に染まった。


 脇に目をやると、スキンヘッドの大男に捕まっている加賀瑞樹の顔が、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていた。


「なんで……。なんで、そこまでするんですか。所詮、赤の他人じゃないですか。僕なんか見捨てて逃げればいいじゃないですか」


 加賀瑞樹の肩が小刻みに震えていた。


 山下拓は、ふらつきながらも前に進む。


 血だまりの中に革靴を踏み出すたびに、赤いしずくが飛び散る。


「拓さん、なんで僕なんかのために戦うんですか? これ以上戦ったら本当に死んじゃいますよ!」

 加賀瑞樹の叫びが橋の下に響く。


「勘違いすんな。オマエのためじゃねーよ」


 山下拓が顔を上げて答えた。


「オレは自分のために戦ってんだ。もう負けたくねえ。もう二度と、オレの目の前で大切な人を死なせたくねーんだ!」


 雄叫びを上げながら山下拓は突進した。


 大地が揺さぶられる。


「とどめを刺してやるよ」


 赤西竜也も吼えながら迎え撃つ。


 赤西竜也の右足と全く同じタイミングで、山下拓も左足を踏み込む。


 そして、お互いの左こぶしが繰り出される。


「左同士なら、左利きの俺の勝ちだ!」

 赤西竜也が利き腕を振り抜く。


 2つのこぶしが激突し、衝撃波で空間が震撼する。


 その刹那、赤西竜也の右脇腹のすぐ横に、それは存在していた。


 山下拓の右足の『かかと』が、そこにはあった。


 山下拓は、左手のパンチによる身体の回転の動きを利用し、右足の威力を倍増させた回し蹴りを炸裂させたのだ。


 赤い血をまとった黒い革靴が、弾丸のように赤西竜也の身体を貫く。

 胴体が右側から崩れていく。


「……なぜ、そこに足がぁぁ!?」


 赤西竜也の驚愕している顔が、眩しい光に包まれて見えなくなる。

 同時に、大きな音とともに白い煙が立ち上る。


 数秒して煙が晴れると、ワゴン車の脇に、ぐったりと車に寄り掛かっている赤西竜也の姿が見えた。


「くそ……。身体が動かねぇ」

 赤西竜也が呻く。


「……お前、なぜ蹴りを最初から使わなかった?」


「ジョーカーは、最後まで隠し持っておくタイプなのさ。オレは」

 山下拓は右手で黒髪をくしゃっとした。


 それから加賀瑞樹の方を向くと、血まみれの顔のまま、ニィっと笑った。


 加賀瑞樹を取り押さえていたスキンヘッドの大男が身震いする。


 その3秒後には、大男は地面に寝そべっていた。


「助かったぁ」


 不安と恐怖から急に解放されて、安堵の表情の加賀瑞樹が地面に座り込む。


「加賀、大丈夫か?」

 山下拓は加賀瑞樹の手を引き、立ち上がらせた。


 自然に笑みがこぼれる。


 すると、ズボンのポケットに入れていたスマホが揺れたので、手に取り、ちらっと確認する。受信したメッセージは予想外の人物からだった。


 その時だった。

 凛とした女性の声が夜の闇に響いた。


「私の部下が世話になったな」


 声の先には、黒いドレスの上に白衣を羽織った美しい女性が佇んでいた。


「中沢美亜……室長?」


 赤西竜也のかすれた声が夜風に乗り、多摩川に消えていった。

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