(舞台の上では虫喰いの夜空が輝いている、幻燈の光が若者の薄絹を桜吹雪のように照らすが、姿無く、何処か遠くから、飛行機の羽音の奇妙な音がして、止む。)



 件の夜以来、人目のない所では、僕と實近は互いに親しく口を利くようになった。五ツの差など無いも同じで、知識こそ無論劣るが、羽二重ずれした實近よりかはずっと僕の方が世のことを知って居て、立場は対等だったろう。どうやらどことなく僕らの関係の変化に気づいていた國近様は「さしずめ光源氏と若紫か」と含み笑った。

 帝都の水と土で洗われ、少し成長した僕の役目はもっぱら、美薗地實近の付き人であった。

 横濱での米国機の展示飛行、舶来の品の博覧会、彼の傍らでたてがみのごとく長なす黒髪を靡かせ、消えぬ深山の匂いを漂わす僕を美薗地の児であると思うものは誰も居なかったろうが、實近は頑なに僕を弟だと周りに宣言した。何が彼をそんなに拘らせたのかは判らないが、僕はともあれ周囲から曲がりなりに美薗地の家の者としての扱いを受けて居た。此れには大層違和を感じたが、實近がそれで満足そうなのでしとした。……僕が加賀桜花だと云うことは揺るぎない事実なのであるから。



 一八九六年のことだった。

 僕が上の學校にあがった年、帰省を許されたので、汽車に長いこと揺られて帰った。数年ぶりの生まれた村は相変わらず深山で貧しく、葛の蔓延る道を歩くうちに僕は真新しい草履を脱いでしまった。帝都で薄くなった足の裏のはだが痛むのが悲しかった。

 事前に手紙は出してあったが、やはり驚かれた。なるたけ地味なものを撰んだのだが、黒地に銀格子のモダンな袷は浮世離れすらして見える。血の滲んだ裸足を隠すようにした僕を見て、母は「……桜花なの」と幾分奇妙な、晴れがましさと信じがたいという気持ちの綯交ぜになったいわく云いがたいどこか悲しげな表情をした。母は焼けた畳の上で小袖を繕っていた。頼まれものだろう。継ぎが目立たず、却って美しい仕様に仕立ててしまう母の手腕は評判だった。

 母は痩せていた。まだ二十七だと云うのに年経るような陰が白いおもてに巣食って居た。病は大丈夫なのかと訊けばこの冬は元気だったよと弱々しく笑う。

 更紗で包んだ、春秋の帯と百日紅の花の色をした小袖を渡した。實近が母と妹にと仕立てた物である。どれほど金を送っても、母はことに何かあったときの為めと殆んど手をつけなかったし、ことも我儘を云う娘ではないので無駄になる。それならば美しい着物の方が心の足しになるやもしれぬと僕は思っていた。

「少し寺に行って来るよ、挨拶をしなけりゃ」

 音を立てずに歩く仕種を母は褒めた。

「私が女中だったときも厳しく躾けられたわ」

 可懐なつかしそうに母は云った。初めて母から聞いた美薗地家の思い出であった。

 草履をはいて家を出ると、ことが追いかけてきて、垣根代わりの茗荷の葉陰で声をかけられた。「桜花兄さん、何処へ行くの」

「少し寺へだよ」

「帰ってきたら少しお話があるの。……」

「今話しな。急ぎやしないから」

 そう云えば、ことは暫く逡巡してから重たい口を開いた。

「あたし、こないだ山向こうの蓮見の玄太郎さんに…」ことはそこで俯向いて言葉を切ったが、薄い耳の色で云わんとする中身が判った。僕が愕いてどのような縁でと問えば、

「玄太郎さんに妹が居て、あたし、桜花兄さんがみやこへ行ってからいささかだけお裁縫を教えてたの。その内に少しだけ、玄太郎さんともお話しするようになってね…」

 と羞ずかしげに俯向く。

「あたし母さんが病だから、ひどく遠慮だったの。……」

「まさか、断ったのか」

「……その心算つもりだったんだけど。もう少し考えてみてくれって。まだ大分先のことだしって。…」

 蓮見というのは、大きな蓮田を持っているこの界隈ではそれなりの財を持つ家で、僕も昔はよく手伝わして貰って居た。僕より少し上の男が居り、畠仕事を精力的にして家族の面倒をよく看ていた好青年であることを覚えている。玄太郎氏とは彼のことだ。

「桜花兄さんがみやこへ行って勉強してるのは玄太郎さんも知ってるわ。村の誉れだと云って下さるの……兄さんは勉学が良く出来るでしょう。……必っと、向こうで職を得るだろうから」

 ことは僕の重荷にならぬよう身を引こうとしているのだ、この深山の村の奥に。母と妹の為めにと己れを殺して励んできた僕は愕然とした。自分のしたことが妹を悩ませていたのだと気付いて。

「お前は玄太郎氏が厭でないのかい」

 確かめるように問うと、ことはハッと顔を上げた。

「あたし…」

 百日紅の花のような頬の色に、僕は初めて自分の思い違いを知った。

 僕への気遣いだけでなく真実に――ことはっとその男を好いているのである。

 いつの間にか母に似てきた白百合の風情で、ことは柔くみじろいだ。僕は何も云うな、賛成するよとつたえて、些事のめに一度その場を離れて考えた。……

 僕は今年で十二である、双子ならことも然うだ、祝言には早い齢だが約束なら充分かもしれぬ。…若しことが本当に相手方を慕って居るのなら是非此の話は纏まらしてやりたかった。

 母はやはり病身であった、國近様と似た容子と蔭がそうだと僕に知らしめた。ことに秘かに質せば、此の冬も病みついて居たと云う。

 此の界隈ではそれなりの蓮見の家も所詮は寒村の一軒に過ぎぬ。そこまで体が丈夫でない妹に加え、体を壊して以来めっきり弱くなってしまった母との二人を養うのは難しいだろう。

 帰途の黒黒とした鐵道の腹のなかで僕は、妹には辛い思いをさせまいと決めた。

 母を帝都に呼び寄せるのだ。

 妹が添い遂げたいと思う相手が故郷に居るのならば彼女を無理強いはしない、けれど母は僕が養い其の半生に報いるのが何より正しいと僕には思われた。帝都で花を咲かせよという母の言が浮かぶ。桜の花と云う自分の名を噛み締める。

 僕は桜花だ。



 國近様の云った通り、上の學校へ進ませて貰うことと引換に、僕はある条件を出された。

 公爵に呼ばれ、美薗地の籍に入る気は無いかと問われたのだ。近頃時勢も物騒なので忙しくしていた智近様すら同席なされ、僕は咄嗟に意図を読みかねて逡巡した。美薗地の直系の血を引いているのだから美薗地の家に入る権利があり、身分はけして無駄にはならない、特に君は優秀だからと云う公爵の詞が遠い。

 素直に首肯いて、妹の婚礼に合わせて母を呼び寄せる交渉に少しでも有利な情況を作った方が良いだろうかとチラリと思ったが、然しどうしても首を縦に振ることは出来なかった。智近様が遠慮がちに仰有った。

「君なら紅桜も目指せるだろうと先生は仰有ってるし、美薗地の家に入れば金桜だって夢では無いだろう」

 こうまで云われても、愚かなようだが僕は加賀の名を棄てたくはなかった。母と妹との繋がりであるし、何より名は血のあかしと誇りである。國近様の厭世の気の一端はそこにあるように思われたのだ――出自と名、身分の断層。

 お二人は何故と問うことも責めることもせず、確かに早すぎたかもしれないから、今はこの話は止めておこうと云った。僕は深々と頭を下げた。

 部屋を出ようとしたとき、公爵は僕の、女のように伸ばして背に垂らした黒髪を、絡みつくような視線で見つめて、低く悲しげに呟いた。

「君はお母様によく似てきたな」

 其の言葉に情けなくも僕はいやに動揺して、媚かしい象牙色の半襟をそっと詰めた。首筋に纏わる長い黒髪がぞわりと膚を粟立たせた。…

 洋室を出でて、洋燈を点した廊下を歩き出せば、不意に扉の開く音がして、振り返ると智近様が追い掛けて来られた。軍靴の跫音が邸に谺するのが何か咎めのように僕の足を止める、直ぐに追い付いた智近様は丈高い腰を屈めて、「桜花君」と絞り出した。平素は西洋風にキチンと撫で付けた前髪が一房葡萄の蔓のように垂れ、美薗地の徴である黒い瞳が悲しげに潤んでいた。

「美薗地の名は――名など、本当はどうでもいいんだ。

 ただ、實近の傍に居てやっては呉れないか」

 僕は声を失ってしまい、拒む詞を口にすることが出来なかった。それは僕を美薗地の家に縛り付ける頼みであったが、実の処僕は心の底で其れを――其れを望んでいる。

 實近とよく似た、然し世のままならぬことを知ってしまった白きかんばせで、智近様は僕を見た。

「あの子は私達の手には負えないような気がするのだ。私は實近を何より愛しているが――それでもあれの傍にはずっと居てやれず、實近も私を嫌いでなくてもそれを望まないだろう。あれは鳥のようなもので、私達他の者は所詮地面に縫い止められているのだよ。……

君だけなんだ。實近があれほど傍にと望んだのは」

 僕は地面がぐらつくような感覚を憶える。あれの執着に僕自身も気づいてはいたし、最近は其れを心地好いとすら感じていたのだ。

「帝都も少し情勢が不安なのだ。大韓帝国や、露西亜との関係もあって、これから私達は増々あの子の傍に居てやれなくなるだろう。……」

 横濱の米国の飛行機の展示飛行に於て、欧州では飛行機の本格的な戦への導入が始まっていると小耳に挟んだ。倣って帝国軍も航空隊を結成さして居るようで、其れは本当に大きな戦が近づいて居るからかもしれなかった。花の帝都にも時代の嵐が迫っていた。

 考えておいて呉れ、と云った智近様は、帽を被り直しながら夜半の招集の支度をする為めに足早に去っていった。…特務機関も、近頃不穏な動きを見せているようだ。

 書見の部屋に引っ込む気にはどうしてもなれず、鈍々と百階段に足をかけて居た。暗夜に沈む上階の青い闇が圧し潰すようだった。

 長いことかかってとうとう最上階、實近の部屋の前に辿り着いて襖を僅かに開けた僕は、何だかぐるぐると頭が混乱していて暗がりに立ち尽くしてしまっていた。夜更かしをして橘氏の小説を隠れて読んでいたらしい實近は、「桜花!」と嬉しそうに声をあげた。高楼の天辺、月見窓には夜空、青畳にはきんきら錦。潤んだ黒い目に洋燈のもとで模型飛行機の銀が照り映えて魅惑の星空にして居る……。

「桜花だよね? 如何したの、そんなに昏い処にどうして居るの。…

 桜花、居ないの?」

 段々實近の声が不安そうに曇ってゆく。僕は錦の部屋に歩み入りてそっと心細げに此方を見つめる實近の身に手を回す。

「桜花ならここに居るよ、實近。……」

 背に回された手がぎゅうとしがみつく、長い黒髪と着物越しに、實近の細い指が何処か果敢なく握りしめられた。おうか、と耳許で呪文のように呼ばれた声が融けていく。……

 時よ止まれ、と、生まれて初めて思ったのかもしれない。訳も判らず、彫像のごとく抱き合いながら僕達はっと同じ不安を抱いていた。明而大祥の世に生きる者として、僕達は同じ蓮の上で手を取り合って身を寄せる、二人の子供に過ぎなかったのだ。

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