(虫喰いが増えていく。舞台が幽玄な霧のごとき光を帯びて、中央の若者の被る薄絹をほのかに白く浮かばせる。)



 離れを出でると、渡りの互いの字の中央の圍の向こう側に、はだの雪白の映える、縹色の単衣に着替えた實近様が手を揉んで立っていた。僕の鳴らした鈴にハッとして、圍に繁る夏草越しに桜花、と呼びやった。

「あゝ、桜花! …國近兄様に虐められなかったかい?」

 僕は頭を振った。ほうと息を吐いた實近様の頬は少し蒼く強ばって見えた。少しだけ言い訳がましく、「國近兄様は小さなものを揶揄うのが好きなんだよ。ほんとは虐めているわけでないのだけれど、些か、そういうときは意地が悪いから…」

 そんなことは百も承知である。實近様が散々と泣かされて直ぐに飴玉を転がすように甘やかされ、機嫌を治したところでまた虐められ…嵐の海の小舟のごとく翻弄されている様を美薗地家に来て以来延々と見続けているのだから。それでも兄様兄様と慕い続ける實近様は確かに國近様の云うような純粋培養かも知れなかった。硝子の中で育てられる異国の花のように。

 夜風に圍の薊が揺れて居る。それをかき分けるように彼は欄干に身を乗り出した。僕は向う側へ行こうと思ったのだが、此れでは行き辛い。

「國近兄様は悪いお人じゃないんだ。でも…多少、ひねた物言いをなさるので、皆思い違いをするようだから……」

「存じて居ります」

 声が掠れたので届いたか判らなかった。悲しそうに實近様は「桜花、」と呼ばわった。

「……僕は大丈夫ですよ、實近様」

 二人とも東へ回り、向かい合って立った。實近様を見上げると、常より一層白き顔に、どこか國近様と似た風合いの愁いを湛えていた。先刻のことは気にしていないと伝えたかったが言葉が思い付かず、黙って傍らに立つことしか出来なかった。

「ねえ桜花、少し…」

 高楼を行き過ぎて母屋へ向かう心算が、袖を摘ままれて立ち止まる。實近様はそっと廊下の突き当たり、天に向かう階段を指差した。云わんとすることを察し、上階から降りてくる夜の帳に向けて、一歩踏み出した。

 僕たちはゆっくりと高楼を上がっていった。切り取られた丸窓からは鏡越しのような光が洩れて黄昏のなか、鮮麗あざやかな障子絵が巻物を手繰るように彩られて見えた。

 やがて錦の部屋、實近様の部屋にたどり着き、真ん丸の大きな月見窓の燈のもとでぼんやりと二人立ち尽くした。上り始めた月が、天辺の錦の綾波、きらきらした銀色のミニチュアの飛行模型たちを照らして居た。…

「…さそりが天に上がってくるまで、待とう」

 僕は黙って寄り添った。

 青と橙のまだらに染まる錦の合間、磨硝子を通したような月が浮かんでいた。山入端が仕掛け花火のごとく橙の最期の輝きを放つ時刻である。夕暮れの裳裾のみが、白や青にかがよう三角形が判じられる薄ぼんやりとした温い夜の足許を覆っていた。

「…先刻はご免ね。

 きみの立場の難しさというものを、俺は一生涯判らないのかも知れない。…」

 幸せに生まれたことを恥じる純朴な響きが其処にあり、僕は胸を打たれた。自分より五ツ年嵩で、身分の違う胎違いの兄が、幼いこどもに見えた。

 寄り添いて眺める窓からは、普段見えるようなすっきりした青天井とは違い、濃密な気配が迫り来て居る。かつて、七ツよりも幼い自由の身だった頃、駆け回った深山から見た蒼穹のように広い。その広さに胸が押し潰されそうになり、思わずぎゅっと實近様に身を寄せた。僕が帝都に来て以来、初めてのことだった。實近様はおんなじように暖かい体を寄せて、そっと僕の頭を撫でた。

「桜花。…空は広いねえ。

 帝都よりも、日ノ本よりも、ずっとか広いのだろうねえ。でも、この月見窓から見れば、真ん丸の、ちっちゃなもんだ。其れは人間の心のようだ。……」

 僕は黙って彼の云うことを聴いていた。月見窓から幽かな鈴の音が響いた気がした。僕の頭を撫でていた手が止まり、前髪を少し掻き分けて額に置かれる。

「桜花は学問が好きだろう。学問は偉大だね。人は空を飛ぶようにすらなったんだ。

 でも俺はね…学問ってものは素晴らしくって、ぴかぴかしてて、黄金の未来のようだけれど、少しだけそれを可恐おそろしく思うときがあるのだよ。

 学問が星に等級をつけて、望遠鏡とやらで具に研究して、自然科学の軌道論やら何やらで、空はこんなに狭くなってしまった…」

 くぅるりと、實近様は月見窓の縁を指でなぞった。眼下には瓦斯燈の光がちらちらしている。

「俺は空というものをね、学問でなく、単なる藝術的な、それ自体なにか美しく宏大無辺な新たな世界のように思っていたいのだ。子供のように……飛行機も、鳥になるための翼だ。けしてそれ以上でない。俺はそんな風に、いつか空を飛びたい」

 僕はっと模型を視つめた。書物を讀み學んだ西洋の技術が明而大祥の今まさにこの帝都へ、日ノ本へ雪崩れ込んで来ている。その粋のひとつがこの飛行機であると思われた。

「空の上には、身分も、血の呪いも、何もありはしないんだ…」

 しゃん、と、澄んだ鈴の音をはっきりと聴いた。

 益益と夜が膨らみ、外から押しつけたように暗がりが部屋に満ちてきて海潮のように僕らを濡らす。その圧倒される動の気配は、立ち止まることの赦されぬ未来派の、文明開化の見えざる波のように感じた。

 …ファウストが夕陽に焦がれた場景に於て、ゲェテは彼をして、胸中のふたつの魂の片割れが土をはなれ高い空を飛びたがっている、とロマンチストの天へのあくがれを謳い、そして飛行のつばさは帝王の冠より貴いとすら云った。そして人は今、そのつばさを獲た。

「…實近」

 覚えず溢れ落ちた声にハッと口を覆った。

「……桜花」

 彼の目から、ほろほろと花嵐のなごりのように果敢なく泪が落ち、僕と彼の膝を濡らす。

「きみがそう呼んで呉れて、僕は嬉しい。…」

 人称を偽るのも、又た地上の綛なのかもしれなかった。僕らはその瞬間互いに足首に巻き付いた桎梏を結い解き、自由の身であった。

 僕は指を伸ばし、震える手で彼の泪を拭った。爪が火に触れたような心持がした。

「……きみは、泣き虫だなあ」

 僕の言葉を聴いた彼は悲しみが嘘のように莞爾とした、白雨に打たれた花の綻ぶ、あの微笑みで。

 十五と云う年齢にしては小柄な實近様と、背丈ばかり伸びた十の僕はそう変わらず、ただ僅かに彼の方が高かった。どちらからともなく凭れ合えば、白々とした月光と星明りがひとつになった影を畳の錦の上にそっと形づくっていた。

「僕、幾百年も前にも、こうして居たようにすら思えるよ」

「……俺も、そんな気が、する」

 ありのままの口振りで話すのは三年ぶりだった。ふふ、と實近様はあの幸福そうな声で笑い、囁いた。

「……必っと、幾百年経とうとも、僕らのような人間がこの世には生まれ出でて、ロマンチシズムに浸りて失われる闇夜を惜しむのかも知れない。…」

 僕は首肯いた。何故なら僕も同じように感じていたからだ。この月と星に満ちゆく絶え間ない夜、そこにこうして二人ただ寄り添うのは、己れと云うものが融けて、樹木や下生えとそれを揺らす風、雨滴や露や朝靄と夕霧、眼下に見ゆる色紙畠や蓮田、稲穂の海、そしてその上を何処までも広がる天と一体となり、とこしえを漂う感覚と同じであった。かつて、文明などない無辜の時代より自然から連綿と受け継がれてきた、それは日ノ本の、あるいは世界の、あるいは銀河の靈であったのかもしれない。

 彼は夜空のこぼるる両の瞳で、僕と見つめあう。

「僕はずぅっと、きみと友だちになりたかった」

 僕――否、俺――加賀桜花にとっての、美薗地實近という名……本当は、ずぅっと昔から、出逢ったその日から彼の名は心中そのままの姿でゆるぎなく存在していたのだ。

 だから、これからは彼のことを實近と呼ぼう。このかつて遠い日の物語が終わるまで。

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