第167話

 中庭の喧騒が嘘のように、体育館裏はしんと静まりかえっていた。

 日陰になっていて涼しく、休憩をとるには良い場所だが、大勢で作業するには狭いので、わざわざここを使う生徒はいないのだろう。


 修は腕で額の汗を拭いながらさらに奥へと歩いていく。

 一刻も早く、できるだけ人のいる場所から離れたところで、ざわついた心を落ち着かせたかった。


 そして以前汐莉とおしゃべりをした、座れるスペースがある場所に続く角を曲がろうとしたとき。


「!」


 微かに話し声のような音が聞こえ、修は足を止めた。

 耳をすませてみると、角の先からやはり女子の話し声がする。

 修はお気に入りスペースを他人にとられていたことを残念に思い、心の中でため息を吐いた。


 諦めて、来た道を戻ろうと振り返る。


「てか、山下のあの顔、マジ笑えたよね~」

(!?)


 聞き捨てならない話題が聞こえて、修は踏み出そうとした足を反射的に止めた。

 角の先に意識を集中させ、聞き耳を立てる。


「メモ紙見つめながらめっちゃショック受けてやんの。当然の報いだってのに」

「だね。あいつムカつくんだよ。『私みんなのこと大好きです~』って、媚び媚びの態度とっちゃってさ」

「今日もなんかみんなにお菓子配っててさ~。ハワイのお土産とか言って。点数稼ぎご苦労様です!」

「あれ絶対自慢も入ってるよね。上流階級ぶりやがって」

「そうそう。あたしも貰ったんだけどさ、ソッコートイレのゴミ箱に捨ててやったわ」

「ひっど!」


 声を抑えながらも下品に笑う声に、修は自分の腕にふつふつと鳥肌が立っていくのを感じた。

 心臓の鼓動も徐々に速く大きくなっていく。

 怒り、不快感、恐怖、悲しみ。

 様々な感情が修の胸に渦巻いて、喉の奥がヒリヒリと痛む。


 修は奥歯を噛み締め、ゆっくりと呼吸をすることで、どうにかその感情が爆発するのを抑えていた。


 依然として、ひそひそと山下へのおぞましい悪口を続けているのは、おそらく二名の女子生徒だ。

 話している内容から、あの紙切れを山下の机に入れたのも彼女らで間違いないだろう。


 修は山下のことはよく知らない。

 明るくて人当たりの良いということだけを知っている、ただのクラスメイトだ。

 だが今朝クッキーをくれ、自分のことを「前より明るくなった」と褒めてくれた。


 そのときの柔らかな微笑み。

 あんなふうに笑える人が、こんな心ない中傷をされ、あまつさえ物理的な嫌がらせを受けるべきでないことは、修にもはっきりと理解できた。


 一言何か言ってやりたい。


 そう思ったとき、修の足裏からパキッという音が響いた。

 無意識に力を込めていた足が何かを踏み割ってしまったようだ。


「ヤバ、誰か来たかも!」

「行こう!」


 角の向こうからそんな声が聞こえ、続いてバタバタと走り去って行く音がした。


「お、おい!」


 修は慌てて叫び、角の向こう側へと飛び出した。

 しかし既にそこに人はおらず、数メートル先を脱兎のごとく走り去る二人の女子生徒の後ろ姿が見え、やがて見えなくなってしまった。


 それを立ち尽くして見送ってから少しして、修ははっとする。


(俺、なんで立ち止まったんだ……。追いかけるべきだったじゃないか……)


 後ろ姿だけでは髪型くらいしか情報がないが、それもありきたりなものであったので誰なのかは判別できなかった。

 二人の正体すらわからず仕舞いでは何も行動を起こすことができない。

 修は深く息を吐き、自分がとった行動を後悔した。








「ごめん修! おまたせ!」


 自分の机で腕に顔を埋めていた修の肩をとんと叩き、平田が元気よく言ったので、修はゆっくりと顔を上げた。


「あぁ、大丈夫。こっちこそ、戻ってきてもらって悪いな」


 そう言う修の顔を見て、平田はすぐに眉をひそめた。


「大丈夫か……? なんか、顔色悪いぞ」

「あー……うん、平気だよ」

「ホントか?」

「うん。それより、用件をすまそうか」


 さっきのことが気がかりだが、優理との約束も大事なことだ。

 それに平田を待っていたのも、このことを伝えるためなので強引に話を切る。

 平田は心配そうにしていたが、仕方なくといった様子で話題変更に応じてくれた。

 修は頭を切り替えて尋ねる。


「単刀直入に聞くけど、栄城祭当日って誰かと回る予定ある?」

「んー? 多分、サッカー部のやつらと回ることになるんじゃねーかな。先輩たちの店とかステージにも顔出さなきゃいけないし」

「そ、それってもう約束とかしてるのか?」

「いや、約束はしてない。……え、あれ? まさか修くん、俺を誘おうとしてくれてんの?」


 平田が目を細めてニヤーっと笑った。

 それがとても腹立たしく、なぜか気恥ずかしくもなったが、無視して話を続ける。


「そのまさかだよ。つっても、別に二人で回ろうってんじゃないぞ。伊藤さんと宮井さんと一緒に回ろうって話になってて、それじゃ俺が男子一人で気まずいから、お前に助けてもらいたいんだ」

「あぁ、なるほどねぇ。伊藤さんと宮井さんか。なかなか楽しそうなメンツだな。しかも二人ともかわいいし。てか、そのメンツになんで俺?」


 気の抜けたような顔で自らを指差す平田に、修は顔を赤らめ目を逸らしながら言った。


「わかるだろ……。俺、お前しか男友達いないんだよ……」


 部活に入ったおかげで、汐莉、優理、星羅の同級生三人とはかなり仲良くなれた。

 だが男の友達となると誇張なしに、まともに話せるのは平田ただ一人であった。


 平田からの返事がないので少し不安になりながら、ちらりと様子を窺うと、平田は少し目を見開いて驚いているような顔をしたあと、にこ~っと笑って


「そっか! それなら仕方ねぇ。その日は一緒に回ってやるよ!」


 と言って、修の肩を少し強めにはたいた。


って! 何すんだよ!」


 修が抗議すると平田はハッハと笑った。


「まぁまぁいいじゃねーか! なんか嬉しかったんだよ。修の方から友達って言ってくれてさ」

「はぁ? なんだ、そんなことで……」

「俺にとっちゃそんなことでも、大したことなんだよ。友達って、お互いがなんとなくそうなんじゃないかって感覚にあるだけで、実際口に出して言わないだろ? だから、お前がそう言ってくれて、安心した。あぁ、友達と思ってたのは、俺だけじゃないんだな、って」


 その言葉は逆に、修にとっても嬉しい言葉だった。

 疑っていたわけではないが、平田も修のことを友達として見てくれている。


「……友達が多いやつのセリフか、それ?」


 恥ずかしいやら何やらで、修はむすっとした表情で尋ねる。

 すると平田は憂いを帯びた意味深な表情でふっと笑い


「確かにな」


 と言った。


(……?)


 その表情に込められた思いを推察できず、修は困惑してしまった。

 しかし、平田を誘うという優理との約束は果たせた。

 修はそのことに安堵し、とりあえずほっとする。


「じゃあ、栄城祭当日は空けておいてくれよな」

「あぁ、わかった」

「ん。時間とらせて悪かったな。それじゃ……」


 と、修が話を切り上げようとしたとき。


「なぁ修。友達としてやっぱり聞かせてくれ」


 平田がそれを遮った。

 見ると、真剣な表情でこちらを見つめている。


「なんだよ」

「俺を待ってる間になんかあったんだろ」


 修はドキッとした。

 しかしよく考えてみれば当たり前だ。

 平田は人の感情の変化に鋭い。

 修が何か大きな問題を抱えていることは、平田にとってお見通しだったのだろう。


「話してみ。俺って結構頼りになる男だぜ?」


 そう言って平田はニカッと笑った。


(それは充分わかってるよ)


 恐らくこの問題は修一人では何もできないだろう。

 だが平田の力を借りれば、良い方向へと向かうのではないか。


 そう思い、修は平田に話すことを決めた。

 修は周りを見回す。

 教室内にはもう誰も残っていない。


「多分……山下さんがいじめにあってる。てか、確実だと思う」

「…………は?」


 修は思わず息が止まった。

 修の言葉を聞いた瞬間、平田が今まで見たことがないような真顔になったからだ。


「詳しく聞かせてくれ」

「あ、あぁ……」


 平田に促され、修は先程平田と別れてから起こった一連の出来事を話した。

 その間、平田は黙って聴いていたが、表情はどんどんと凄みが増していき、修が『怖い』と思うほどのものになっていった。


「……で、話してたやつらの顔は確認できなかった。多分、同じ一年だとは思うけど……」


 教室でクッキーを配っていたことや悪口の書かれた紙を見てショックを受けていたことも知っていたことから、どちらか、あるいは両方とも同じクラスの可能性が高い。


「どうするべきだと思う……?」


 黙ったままの平田に尋ねてみる。

 平田なら何か良い案をくれるのではないかという期待を込めて。


「……修、このことは俺に任せてくれないか」

「えっ」


 予想外の言葉に思わず修は声を上げてしまった。


「い、いや、任せろって……。何か考えがあるのか?」

「あぁ。こういうのは中学のときもあった。山下さんと話してみる。俺がなんとかするよ」


 明るくてお調子者で、それでいて思慮深いといういつもの面影は、今の平田からはまったく感じられない。

 修が今、平田に抱いている感情は不安と恐れだった。


「待てって! 一人でやらせるわけにはいかねーよ! 俺も……」

「修は部活がある。本気で全国狙ってるんだろ? だったら、余計なことに首突っ込む暇なんてないはずだ」

「っ……、けど……!」

「大丈夫。いじめなんてどこにでもあるし、慣れっこだよ」


 頼もしい言葉だ。

 しかし、今の平田からはどこか危うさも感じてしまう。


 だが平田の言うように、修にとって今最も大事なことは部活だ。

 残された時間も限られている以上、確かに余計なことに時間を割く余裕はない。

 それに修がいたところで、この件について何かができるとはおもえなかった。


「……じゃあ、任せてもいいか?」


 修は観念して、平田に託すことに決めた。


「ああ、任せろ」


 そう言って平田はまたニカッと笑った。

 だがその瞳がまったく笑っていなかったのを、修は見逃さなかった。

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