第147話

 体育館裏、人気のない木陰で修は膝に手をつきうなだれていた。

 蝉の鳴く声がそこらじゅうから聞こえてくるのが鬱陶しい。

 気持ちの悪い汗が全身から吹き出してきて、背中にTシャツが貼り付く。


 修は速いテンポで収縮と膨張を繰り返す心臓に反するように、ゆっくりと、何度も何度も深呼吸を重ねた。

 息を整えることだけに集中し、他のことは何も考えない。


 そうできたら良いが、どれだけ呼吸に集中しようとしても脳内にはあの少年の姿がちらついてしまう。


「…………っ、はぁ……くそ……」


 どれだけの時間がたったのかわからないが、ようやく心臓が落ち着きを取り戻してきた。

 修は体を起こし、Tシャツの袖で額の汗を拭う。


(もう……大丈夫だと思ってたのに……)


 修を襲った久し振りの感覚。

 汐莉のおかげで克服できたと思っていた。

 実際あれ以来、男子の試合を見ても症状が出ることはなくなっていた。


 それなのに。


(あいつは『特別』ってことか……)


 修に怪我をさせた張本人、高橋。

 最近はコーチとしての仕事やリハビリが忙しくて、楽しくて、忘れてしまっていた。

 しかし改めて顔を見た途端、激しい憎悪が腹の底からこみ上げてきた。


 修は以前、高橋と出会ったときに発した言葉を思い出す。


 ――俺は絶対にお前を許さない。


 謝罪する高橋に対して、はっきりとそう言った。


(そうだ……。俺はまだ、あいつのことを許せないでいるんだ……)


 修が一度バスケを離れたことは、すべて高橋のせいというわけではなく、修自身の弱さのせいもあるといことを、修はちゃんと理解していた。


 だが原因は確実に高橋なのだ。

 彼が無茶なプレーをしなければ、修が怪我をすることはなかった。

 そう思うとやはり許すことはできないし、許す必要はない。


(唯一の誤算は、あいつも同じ県にいるってことだ)


 憎しみを抱えながらも、会うことがなければ心は平穏のまま過ごしていられた。

 だが今の状況ではそうはいかない。


 あろうことか高橋は同じ県にいて、お互いバスケに関わっている。

 そうである以上、今日のように体育館で出会ってしまうことはこれからもあるだろう。

 その度に修は心を乱し、体調も悪くなってしまう。


 どうにかして克服するか、慣れるしかないのか。

 どう転んでも苦しまなければならない選択肢しか思い浮かばず、修が奥歯を噛み締めたそのとき。


「永瀬くん」

「!」


 突然聞こえてきた声に驚いて振り返ると、そこには心配そうに眉を寄せた汐莉が立っていた。

 汐莉は修と高橋の間にある事情を知っている人間だ。修の状態を案じて追いかけて来てくれたのだろうか。


「その……大丈夫……?」

「……うん、かなりマシになった。大丈夫……だと思う」


 修は汐莉から目を逸らしながら答えた。

 前も同じようなことがあったことを修は思い出した。

 汐莉の一年生大会を見に来たとき、偶然高橋の姿を見てしまい、こんな風に弱っていたところに汐莉が現れた。


「やっぱり、高橋くんは、まだ無理そう?」

「……あぁ、そうみたいだ」

「そっ……か……」


 残念そうに言ったあと、数秒間気まずい沈黙が流れた。

 しかし汐莉がその沈黙をすぐさま破る。


「ごめん、永瀬くん。すごく余計なお世話かもしれないけど……。このままじゃ良くないと思うんだ」


 決心したようにはきはきとした声で汐莉が意見を言う。

 修が訝しみながら視線を向けると、汐莉は眉を引き締めて見つめ返していた。


「これからだって、体育館で高橋くんに会う可能性はあるんだよ? もし、大事な試合のときに高橋くんに会っちゃったらどうするの?」

「そんなこと……言われなくたってわかってるよ。けど、あいつの顔見ると、憎さとか、嫌悪感とか……色んな黒い感情が溢れてきて……。どうしようもないんだよ……!」

「どうしようもなくなんてないよ」


 即答でわかったようなことを言われて、修の胸にイライラが募った。


「じゃあどうしろって言うんだよ」


 無意識に汐莉を睨むような目になりながら尋ねた。

 しかし汐莉はその視線にまったく臆さず、


「もう一回、ちゃんと高橋くんと話してみようよ」


 と言い放った。


「……は?」


 予想外の発言に修は目を丸くする。

 汐莉はそんな修を意に介さず続けた。


「永瀬くん、高橋くんとちゃんと話したことないでしょ? 永瀬くんにとって、高橋くんはきっと誰よりも憎らしい存在だと思う。だけど、話し合うことでわかること、変わることもあると思うんだ」

「いやいや、何言ってんだよ……。話したって何も変わることなんてないよ。俺はあいつを許すことなんて絶対にできない」


 修は少し呆れ気味に首を振る。


「でも、このままにしておくのは絶対良くないよ。私、永瀬くんには楽しくバスケをしてほしい。バスケをしている間は、苦しい思いをしてほしくないんだ」


 汐莉の目は真剣だった。

 本気で修と高橋との間にある確執をどうにかしようと思っている。


「…………」


 そんな目を見ているのがいたたまれなくて、修は唇を噛みながら目を逸らした。

 すると汐莉が驚くべきことを口にする。


「実はさっきね……。試合が終わった高橋くんと話したんだ」

「え!?」

「そしたら……高橋くん、もう一回永瀬くんとちゃんと話したいって言ってくれたよ」


 そう言って汐莉は振り返って背後に合図を送る。

 すると建物の陰から、なんと高橋が現れた。

 口を真一文字に結んで硬い表情をしており、視線を地面に這わせながら近づいてくる。

 そして少し離れたところで立ち止まり、ゆっくりと修の方へ視線を上げた。


「ひ、久し振り……」


 緊張気味に言う高橋に言葉を返すことなく、修は静かに睨みつけた。

 その視線に高橋は少したじろぐ。

 しかし生唾を飲み込んだのか、喉がこくんと動いたあと


「まずは……あのときのこと……本当にごめん」


 深々と頭を下げて謝罪をした。

 高橋から正式な謝罪を受けるのはこれで二度目である。


 修は思わず舌打ちを漏らした。

 何度謝られたって許すつもりはない。

 こんな風に頭を下げられたって迷惑なだけだ。


「永瀬くん、高橋くんの話を聴いてあげて。高橋くんが永瀬くんに怪我をさせてから今まで、どんな風に、どんな思いで過ごしてきたのか」

「そんなの……聴いてどうすんだよ……」

「お願い」


 怒りで震える修の手を汐莉がぎゅっと握り締めた。


「…………」


 汐莉の頑なな態度に折れるのはこれで何度目だろうか。

 高橋は修が黙ったことを、話を聴くつもりだと捉えて続きを話し始める。

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